そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

帰ってくるなウルトラマン

  

幼少期の色々な物事は、とどのつまりウルトラマンのようなものだった。

ザリ釣り帰り、謎のビビッド・カラーの人面魚。僕の見たはずの、僕の心の正しい記憶。その全ては夢。

 

そういうものは光の巨人で、祈りの象徴で、願いの化身で、そしてそのままの大きさの虚構だ。

50メートルの大きさを思うとき、僕たちはみんなウルトラマンくらいの嘘を浮かべている。

だが、ウルトラマンは実在する。

 

 

帰ってくるなウルトラマン

(または、何故博士は心配することをやめてなすがままを愛するようになったのか)

〜副題: 俺たちのインターネットB面〜

 

 

子供の頃の夢は自由だ、青年の頃も同じくらい自由かもしれない。

大人になってからも同じくらい自由な人もいる。うらやましくは思うが、ぼくがそうなれるとは思わない。

しかし僕を見て自由さを羨むものもいて、このあたりはどうにも堂々巡りでしかない。

 

子供の頃の僕は医者になって世界中のガンを治すのだとか、医学博士になるとか、ガンの根治でノーベル医学賞を取るとか、世界を救うんだと、そんなことを思っていたが、そんなものにはどうやらなれそうにもない。

青年の頃は小説家や弁論家になるような気でいたと思う。僕のいくところ全て面白い議論が沸き起こり先鋭でエキセントリックな言葉の大波が押し寄せると本気で思っていた——今でもその心の片鱗は残っていて、躁の時などに出てくるが。

 

それが僕の逆鱗の一枚なのかもしれないが。

  

さて、

困ったことに、今僕は、そもそも医学の道に進んでいないし、全くもってくだらない、何の意味もない、誰の役にも立たない研究をして、そのことをしたためた論文を書いている。

そういう意味ではほんの少し文筆家だろうが、僕のしたためた英文というのは査読者にも英文校正者にもボコボコにたたかれて、ほとんど残らないというのが現実だ。

 

ああ、少なくとも博士にはなった。それはそうだ。だが医学ではない。そもそも僕は生物学を学んだことが人生で一度としてない。

13歳で祖父の死に直面した僕は「世界からガンを根絶する」というドラマチックな決意を胸に抱いた。そうして、それを抱いたのと全く別の「僕」がインターネットに没頭して時間を浪費した。さらにそれとも違う、また別の「僕」が物理学にうつつをぬかし、結局、受験の候補にひとつとして医学部を入れなかった。

 

そう、

大概の「ぼくたち普通のひとの人生」というのはそんなものだ。僕たちは凡で、それをよしとしている。物語は一本筋にはならない。

まるで複数の登場人物がいるかのように、取り止めのないオムニバスの断続的な連結であったり、不連続な物語性の連続した存在が僕たちだ。

 

人生の物語は絶対に綺麗にはならない。

 

好きだった人と結ばれるわけでもなく、

あるいはその人に裏切られたりもして、

自分が裏切ることもあるし、

言い訳のできない過失で人が離れていくし、

かと思ったら、

何の理由もないことで人が傍にやってきたり、

人が死んだとか、

挫折をするとか、

ありきたりな、どこにでもある、

そんな些細な絶望があって、

それと同じくらい些細な成功や幸せがある。

 

とにかく一番は、自分で自分の物語に水をさしていきてきた。

 

のが、僕たちだと思う。別に理由なんてない、ドラマなんてない、筋書きなんてない、そんなめちゃくちゃな、混沌とした様態。

いうなれば人生の平均化処理。

ガウス分布の平均の周りをうろうろしているボリュームゾーン。ポテンシャルはとっくに底値、励起エネルギーはどこからも貰えない。

 

 

あの日見た夢のーー、

あの「無限大な夢」の続きに、僕らは立っていない。僕らはウルトラマンにはならなかった。そもそも、バルタン星人も来なかったのだけれど、そのことにいじけているわけじゃない。

 

あの日、隣にいて欲しかった人も、もうここにはいない。あの日、見向きもしなかった人が近くにいる。

 

僕があの夏のはじまりに、竜の住処の向こうにたくさん置いてきた、愛しかったり哀しかったり、人が生きるとか死ぬとか言う気持ちは、僕の頭の中にしかない。

 

そのことがずいぶん、可笑しい。誰とも共有できない喪失を面白おかしく思う。そんなもの、本当はなかったんじゃないのかって。

 

ザリ釣り帰り、用水路を覗き込むと、ギトギトした油の薄膜のようなメタリックな虹彩を放つ、鮮やかなオレンジ色の、30センチはあろうかという人面魚が20匹はいて、ビチビチと跳ねながら、ーーそうだな、跳ねながら、歌を歌っていた。

 

「 きみは だれだい 鉄仮面」

 

そんなことが、僕の頭の中には記憶になって残っている。ありえないのだ、夢に決まっているのだ、それでも幼少期の断続的な思い出の中にシーンとして差し込まれている。

夢に決まっているのに、記憶として「そいつ」は今もいる。

 

ならば、

夢に決まっている光景が記憶になり得るのならば、記憶に決まっている光景も夢になり得る。すくなくとも、「あなた」にとっては。

 

僕の記憶の話は、どこまで夢だろうか。夢の話はどこまで記憶だろうか。「あなた」が好きに決めることだ。それに答えはない。

そんなことは、ほら、けっこう可笑しいだろう。

 

可笑しいと思えるくらいには歳を取った。

それくらいには大人になった。

 

今ここにいる僕は、あの頃の「夢見た自分の代わりに」ここにいるわけじゃない。僕は僕で、僕としてここにきた。

今僕の隣にいる人は、人々は、あの頃の愛した人たちの「代わり」にここにいるわけじゃない。その人たちはその人たちで、その姿でここにいる。

 

ウルトラマンは帰ってこない。

帰ってくるな。

それでもウルトラマンは実在する。

 

僕たちは今、僕たちで、僕たちの人生を生きている。僕は僕を生きている。あの頃の自分の見た憧れの代わりを生きているのではない。 

だから、「代わりではない」自分を責めも褒めもしたくはないのだ。「代わりではない」あなたを責めも褒めもしたくないのだ。

 

そんなことを考えながら、今日も2Lの水をプラティパスから飲みながら、このどうしようもない論文の続きを書くとしよう。

それは、まったくもってくだらなくて、「小さな論文」で、ノーベル賞を取るようなものでもなければ、ぜんぜん世界を救わない。

 

それは、たぶんあなたにとっても何も面白くないけれど、それが「あなたにとって何も面白くない」ということ自体は、僕にとっては十分に面白い。

 

それが、あなたがあなたであるということだし、僕であるということだと、そんなふうに思うのだ。

そのことが十分に面白ければ、人は生きていていいのだと思う。

 

僕を好きな僕がいて、僕を嫌いな僕もいて、

僕を嫌いな「あなた」や、僕を好きな「あなた」、

それが変化していくことも、

何も面白くなくて素晴らしい僕らの日々の営みだ。

 

その全ての中で、僕はビビッド・カラーのギトギトした人面魚の讃美歌を聴く。

 

 

うつつなき病の夢に見えくるはみな忘れたる吾がをさなごと

中村憲吉『歌集しがらみ』

 

 

 

(おわり)