そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

灰色アライアンス(または、「クジラの化石」)

 

先に言っておくが、ここで「正しさ」の定義をしたいわけではない。

ただ、理知的精神性と呼ばれうる集合知をある種の常識として認知した時点を前提として、しかしそれでもなお思考体系として正しいということが、思想の倫理として正しいということには、まずなりえない。まして正しい思想が正しい道行を示すとは限らない。逆に低劣な価値の反芻が悪徳をもたらすとも限らないだろう。

かくも人生とは意味のなく、まとまりのない、なにか混沌として理論的にまとめ上げることの不可能な物事で満ちている。

 

何が正しいかを規定したいわけではなく、それが、正しさとは、という意味だが、それがいかなる形態を持つものだとして、正しさの到達点が自己の満足や幸福であることはない。

それゆえに、自己内省的哲学の窮極が常に人を「幸福」に導くわけではなく、それはショーペンハウアーの内省的孤独を見れば明らかであり(あるいは彼は反転的な真の幸福に殉じたのであり)、そういった「幸福な孤独」の中でシーモアは拳銃自殺を果たした。それは真に正しく、正しさとしての窮極であり、そして、そのために必要なものは自己内省であり、内省による改訂であり、改訂による自己の棄却だ。

つまり、それが我々にとっての唯一の道だと知っていても、我々はそこに進むことができないでいる。捨てることのできないものが、我々を作っているからだ。

 

我々は——僕たちは、捨てることのできないもので自らを定義している。秋の雲。吹き付ける皮膚を裂く風。クジラの化石。

 

だからこそ、僕たちは時の果てまで愚かだ。そのことを噛み締めるのは、いつの年も決まって、ウヰスキーを遣った帰り、秋風に身震いをする時だ。灰色の空に、僕たちは何もないことを知って、涙を流すこともなく、ただ歌う。

そんなセンチメンタルは、いつも秋にやってくる。

 

灰色アライアンス(または、「クジラの化石」)

 

日射量の減少が体内でのビタミンDの生成量を減退させ、ビタミンDの欠乏と相関して人はマイナスの考え、ネガティブな思考、いわゆる鬱の状態を招く。ゆえに地球全体として北方の地ほど(総日射量も日照時間も少ないために)躁鬱病などの精神疾患の発病率が通常高いとされる。

というのは、科学の話である。少なくとも僕はどう考えても「科学側の人間」なので(そしてたぶん、どちらかといえば、そばに立っているだけではなく、完全に身をもって科学を代表しなければならない、あるいは、そのくらいの自負を持たなければならない立場の人間なので)、このようなことは理解している。

そこで、ビタミンDサプリメントを飲み、さらにナイアシンを適量飲むことでL-トリプトファンの持つ抗うつ作用をさらに高めようとするわけだが、そうすれば幾分かこのようなセンチメンタルな心の波というものが抑え込める。なるほど科学は素晴らしい。

 

しかし、科学の話の正しさと、それを乗りこなす僕の正しさが、僕の精神に高揚をもたらすというわけではない。

ここで言いたいのはそういう話だ。

ある意味で科学の話の正しさなどではなく、何か乗りこなせないものに滅茶苦茶にされて、初めて得られる満足というものもあるということが、僕の心身にとっては著しく不健康で、また、そのために僕を僕たらしめるある種の魔術的作用となって降りかかる。そういうことは何も不思議なことでもなければ、特殊なことではない。

僕にとってのそれは「ウヰスキー」や「ウオトカ」という具象を伴って在る。

 

ウヰスキーやウオトカを遣るときというのは、決まって、もうどうにも参ってしまっていて、何事をするにも馬力が足りないというような、そういうやるせない時だ。そしてそういう時はおおよそ秋や冬にしかやってこないことは、先述の通り明らかだろう。僕は熱い夏の日にウヰスキーを遣ろうとは思わない。そういう熱に浮かされた日というのは、水が2リットルほど入ったペットボトルを持って、河川敷まで出ていくのがちょうどよいというもので、極めて科学的に物事をクリアにすることができる。

「肌寒い」という概念は、ただその存在の知覚のみをもってして、世界の表層を覆うルールを科学やリアリティではなく、魔術やナラティブでもって書き換えんと、僕たちの世界を侵略するのだ。

キャプテン・ハーロックは、「そういう時は、酒でも飲んでひっくり返って寝ていればいい」と言っていたが、まさにその通りだろう。究極的には、ひっくり返って寝てさえいれば春が来る。春が来ればまた、この地上は遍く果ての果てに至るまでが科学の表層で置き換わり、新緑の芽吹きと鳥の囀りがサイエンスと数学的世界の勝利の勝鬨avatarとなって輝きを放ちながら僕の鼻腔を刺激する。

 

だが、愚かなことだが、この魔術の世界を味わってみようという試みもまた、僕がこの魔術界に囚われて(魔法にかけられて)いるために、半ば強制的、あるいは隷属的(自縄自縛の意味で)に、従前よりの属性として僕の心臓の近傍に横たわり続けている。そのような幻想が真実味を帯びる、テクスチャとして自我の内面に顕在化する表現的実在性の愚かさこそがまた、魔術と言うべきほかにないものなのである。

 

ならば。

仕方ない、今日、僕は灰色の空に向けて歩き出してみることにしよう。「空を飛ぶ」ことはさほど難しいことではない。

それは観念の問題なのだ……。

 

気分の高揚するものというのは、いつも「色」を持っている。色がなければ気分というものを高めるのは難しい。それはやはり、「色」というものはそのものの内包するある種のパワーの波長を示すためだ。(私は今や魔術の世界の住人であるので、光学波の吸収スペクトルについての全ての知識を失っているのである)

茶よりは赤、赤よりは緑。ある意味では緑と青が最強のパワーを持っていて、灰色になるほどに生命エネルギーが失われる。そういう「感じ」というのは別に何かお勉強などしなくとも「自然に」人間が「自然から」感じるものであってみれば、人は豊かな森林を求めて南下するということが理解できる。

緑がなければ人間は生きることができない、それは生命のエネルギーが枯渇するためだ。

 

そう思うと、コンクリートは灰色である。

人が科学というペテンによって生み出せるものはことごとくが生命エネルギーを持ち得ない、無意味なストラクチャにすぎないのだから、コレは仕方のないことだし、それは生命のないために他者から生命を吸い上げるのだ。コンクリートの中に閉じ込められる人というのは、砂漠に水を撒くがごとく、である。

だからコンクリートと鈍色の空の中で暮らす人は、もうほとんどその地と空に自身の命の力を吸い上げられてしまっている。だから彼らは肩を落とし、ため息をつきながら歩くではないか。

 

そうすると、鉄や何やらが走り回るコンクリートの森の中に生きる人というものの生涯はずいぶんと虚しいものである、それは電池のようなものだからだ。コンクリートの森、いや、山、あるいは、それはひとつの世界と言ってもいい。灰色の世界を動かすために、僕たちはみなただの電池として生きている。

みるがいい、夥しい数の鉄の箱がレールの上を走り回っているが、あのような膨大なエネルギーは、もう説明するまでもあるまい、すなわちそこに乗り合う人々から巻き上げられた生命のエネルギーなのだ。

 

このように、東京という街は(別に東京でなくても構わないのだが、一番有名な町の名前を書いておこうというユーモアがある)、僕たちの命を吸い上げながら動いているのである。僕たち私たちはそこで電池として消費され、使えなくなれば捨てられるか、再び電力を蓄えるために充電をさせられるのだ。

それは、僕たちのために街があるのではなく、街のために僕たちがあると言うことである。

 

それが誰の陰謀によるものかわからない。暗黒メガコーポがあって、我々はサイバーパンクの反撃をするべきなのだろうか?巨大資本家が我々を虐げる根源悪なのだろうか?

しかし、よくよく考えれば、彼らも初めは電池として生を受けたはずである。彼らは、ある意味では街の管理者かもしれないが、街の管理者という名の電池であるだけのことで、その電池は交換可能だ……。「彼らでなくても別に構わない」。

一体誰が悪いのか、誰を倒せば良いのか。おそらくはひとつの答えとして、「物質世界」という悪魔がそこにいるだろう。いるだろうが、それを倒すのはどうも無理そうに見える。僕たちは物語の主人公ではない。

 

それゆえ、僕たちは。

時に緑の中に逃げ込むというような賢き選択をしなければ、体がバラバラに砕け散ることを知っているので、緑やなにかを守りたいと思うものなのだ。思わない者は、脳の中までも電池になってしまっていて、単純な電気的刺激でしか快を得られないようになっているのだろう。

 

さて、

というように、だ。

(頭をゆさぶって、目を覚ます時だ)

 

上に言ったようなことは、全て、「寒い季節」にだけある種の現実味を帯びる「与太話」だ。

だが、そうであるからこそある意味では真実である。要は、これはテクスチャの問題であって、簡単に言ってしまえば、それは前提条件の差分の問題に過ぎない。

「世界はどう見られるかで決まるものである」と言うべきだろうか?いや、やはりここはソシュールに従って、言葉は世界を切り分ける(分節化する)道具である、と説明しておこう。

 

「緑」と言って、それが端的に物理学における光学波スペクトルのある特定のバンド帯を示すものなのではなく、なぜか「瑞々しい植物」という実体を意味するのも、「灰色」と言って、やはりそれが同様に「ネガティブで鬱屈とした」という意味を持つのも、やはり我々がその言葉で世界をそのように切り分けているからに過ぎない。

「緑」が「緑」でしかないわけにはいかない。世界は広く、我々は常に前を向いていかなければならない。世界はあまりにも広く、我々の語彙は圧倒的に少ない。ならば、言葉の意味するところというのは、世界に対してある程度の広さを持っていなければならないではないか。緑は、植物であり、エネルギーであり、心暖かいものでなければならない。と、私の知性は「今まさにそのように分節化している」のだ。

 

今まさに、秋や冬に限って。

それがテクスチャであり、魔術であり、僕という人間の知性の内側にて実在する表現実在、ないし、純粋経験としての「秋が顕れた」に対応する経験である。

 

そうすると、結論としてはやはり、この世界は物語的な呪縛に覆われてしまっている。この夏に僕が感じたはずの、どこか乾いた、「ただ現実の石が転がる」とかいう出来事は、とっくに空想のお話に成り下がってしまった。

魔術は僕たちの脳を芯まで焼いて、もはや後戻りはできない……。

 

そう思うのも束の間、僕たちは酔い潰れて春まで寝ることになるのだ。

 

その繰り返しを、あと何度見ることだろう。

短期的な自己内省はいつも失敗に終わる。今日の日に気づいた世界の真理の全ては、それが「秋」という魔術界がもたらした世界の表層の変換にすぎないのであってみれば、僕たちは寄せては返す波の上を転がり、沖にも陸にも寄り付けないゴムボールのようでいて、つまりその思想の反復に何か意味を求めるのは無理そうである。

あるいは、自己の連続性を持たない凡人の僕たちに、省みるべき自己など初めからありはしないのか。そうであるならば、この躁鬱の波の中にたゆたう、センチメンタリズムの魔力にやられた「僕」という「自己」的テクスチャを、より高次の僕が棄却することは、やはり容易いことに思えるのだ。

 

それは、とても前向きになれる理由になるだろう。ウヰスキーなどをやらなくても春は来る。問題は、自己を矮小化して棄却することができるかどうかだ。

しかし僕たちは棄てることができないからこそ、僕たちである。この問答に果てはなく、故に僕たちは時の果てまで愚かなままだ。

 

堂々巡り、これもまた人生。

それこそが、クジラの化石。