いつもより少しだけ、読まれることを意識して書く。
もう大昔の話になるが、『なぜ勉強をしなければならないのか』というテーマで真面目に話したことがある。
「書いたことがある」ではなく「話したことがある」なのは、親友との対談形式をとったからだ。
その頃の記事は消してしまっているのだが、対談の内容は書き起こしていたから、素材としては残っている(またどこかで日の目を見るかもしれないが)。
そこでは、「自分の中身を詰めていく作業全般がとにかく人生のどこかのタイミングで必要なのだが、そのためには体系があった方がいいに決まっているし、早い方が有利だろう」というようなことを言っていた。
分解してみよう。
自分の中身を詰めていく:①人生の肯定と祝福には自我の獲得が必要だ。
作業全般:②別にそれは学校の勉学である必要はないという意味で「全般」。
人生のどこかのタイミングで必要:③後からやり直すこともできるという程度の意味。
体系があった方がいい:④基盤としてゼロから物を作るのは大変だ。
早い方が有利:⑤まあ常識的に考えて若い方がアドバンテージがある。
②以降は普通のことしか言っていない、と思う。何かを目指して何かをやる、という行為全般において普遍的なことだ。逆説的には何も言っていないのと同じだ。
特段、やや引っかかる人がいるとしたら④だろうか。
体系的に、規則と規範の中で学ぶ方が良い、という点。
これは、ある一定の「型」を修めたことがある人にとっては当り前の話だが、だからこそポジショントークに見えてしまうものかもしれない。
僕らの場合は学術という型があって、それの前提土台となった学校教育というものを、ある意味「効率がいいよな」と信じている側面がある。当時からも誤解されていたが、僕らがそういうポジションにいるために、この話は学校教育に乗っかっている奴が偉いというような気色を帯びていると捉えられがちだ。
ただ、ここで言いたいのはそういうことではない。デスクにかじりついてガリ勉するのが正しいと言いたいのではない。前提として、たとえば「自然の中で体を動かす学び」にだって体系が必要だと思っている、ということだ。ボーイスカウトとか、オリエンテーリングとか、なんでもいいが。スポーツだって「競技種目」という型、体系があって初めて学びの効率がよくなると思っている。そういう話だ。
料理だって「勉強」をした方が上達が早いに決まっている。
「型破り」というのは、「型にシッカリとハマったあとで、それでも型から飛び出した分の個性」のことを言うと思っていて、型がこなせないやつはただのカタナシだ・・・という、おやじギャグだが、まあ、そういうことだ。
というので、④の誤解もすぐ解けたと思う。
まあ、信念をもって「型にはまらない」ことが大切だと思っている人はいるだろうから、そういう人とは、これ以上議論をする気はないが。
で、問題は①のところだ。ここのところの話を、しばらくぶりにしようと思う。
畢竟、人生の肯定と祝福には、自我が必要だ。それは、星のようなものだと思う。
それは今でもそうだと思っている。
そして自我の獲得のためには、人間はその中身に何かを詰めないといけない。
では、「中身に何かを詰め込む」ということが、一体何を意味するのか、というのが問題だ。抽象的な話ばかりしていても何の意味もない。
かといって、それがそのまま具体的な言語表現として受け入れられるわけもない。まさか頭を割ってやって、脳のシワの隙間という隙間に単語カードを差し込むというわけではあるまい。
ということで、この「中身に何かを詰め込む」という言葉は適切な翻訳を必要としていた。だのに、それが為されていなかったように思う。それは我々にとっては当たり前のことだったし、当たり前のことすぎて、特段、何も言わなかったのだろう。
というわけで、今回は、(きっと相方は頷首してくれるだろうというある種の身勝手な信頼を勝手に立てて、その上で)ひとりでその続きの話をしたい。
といっても、自分の中に何かを詰め込むという作業は、実は、そんなに難しいことでもないのだ。それは普通の人間が普通にやっていることだ。
それは、とても簡単に言えば、何かを好きになったり、その好きなものを推したり、愛したり、夢想したり、そのものがあることで人生が救われるな~と思ったりする
こと
では、
断じてない。
ぶっ飛ばすぞ、ゴミども。
これから授業をはじめます。
着席しなさい。
それか、死にてえやつだけかかってこい。
1. 自我とは何か
1.1. 自我を定義する
自我とは何だろうか、ここで言う自我とは(あ?Man of la Manchaか?)。第二次性徴期に獲得される自意識、自己同一性、統合された何かを、すべてひとからげに自我と呼んでも良いのだろうが、明確に用語として違うそれらのものを同一視していいとも思わない。だから、ここでは、まずは原義的な意味での自我を取り上げてみる。
自我(Ego)とは「主体が、自らを『私』と指し示すことができる能力」であろう。それは単なる心理的印象ではなく、「経験を統一し、時間的に持続する自己意識」という哲学的意味を持っている。
ソシュールを知っている人からすれば、もうこの時点で結論は分かり得るものだろう。そういう話をしようとはしている。だが、「無限の否定」が持つ性質をベケットのナンセンス劇のように展開することでわかることもあるだろうから、少し冗長な語りを許していただきたい。
さて、デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と言って、これだけの短文で「我」なるものの存在を予言したが、それはある意味で楽観主義というか、信仰心が強すぎるというか、とにかく論証にはない得ないのだとニーチェは痛烈に批判している。
つまるところ、「思う」しか表象はないのだから、その裏側に「『思う』には主語が必要だよね、誰だろう?誰って何?わたし?」というのは過度に宗教的な推論(動作には動作主体が必要だという実存から学んだ推論が、”神のあたえたもうた”文法構造というシステムに過度に依存しているの)ではないかということである。自認である「自己同一性」と「自我」を同じにしてはいけないということはここからもわかる。
カントはさらに、「我」なるものがあるとして、それはデカルトの言うような実体ではなくって、統覚として「経験を一つの意識のもとにまとめる力」の総体、認識上の、思考作用そのものでなければならないと言った――。これをデカルトが存在にさえ気づいていなかった、我々の思想の死角に潜む、ある種アプリオリな機能だと言ってもいいのだろうか、というだけの話だ。
このあたりで、ほとんどの人がブラウザバックしたかもしれない。
でも、こういう話なんだよ、今日は。
自我とは、認識上の、思考作用であって、「私」を指差呼称し得る契機だ。
その契機はアプリオリなものかもしれない。いずれにせよ、それは死角にある。だから、実践のためには、この契機としての自我を話しても仕方ない。射程を伸ばす必要がある。
1.2. 心理学的な「自我」理解
哲学的なお遊びはいったん休もう。 カントが言うような「統一の原理」だとか、デカルト的な「実体」だとかいう話は、どうにも浮世離れしていて、というか、明日使える雑学感が皆無で、食指が動かないという手合いもいるだろう。
なのでまあ、もう少し、手垢のついた話をしよう。
心理学(クソ)の出番だ(カス)。
やったぜ。
哲学において自我が「世界を認識するための統一的な視座」であるならば、心理学、とりわけ精神分析的な文脈において、自我(Ego)はもっと世知辛い「中間管理職」のような仕事をしている。自我は常に摩擦の中にある。
フロイトを持ち出すまでもなく、我々の精神は常に分裂の危機に瀕している。 腹が減ったらすぐに飯を食いたい、ムカつく奴は殴りたい、スケベを見たら致したい、という動物的な本能衝動(エス/イド)と、「ダメよ」と上から目線で無限時間マジレスを垂れてくるクソの道徳的規範(超自我:スーパーエゴ)。 この板挟みの中で、冷や汗をかきながら現実との折り合いをつけている調整役が「自我」だ。
自我は常に摩擦の中にある。
フロイトは『自我とエス』の中で、「自我は現実原則によって支配される」とした。 要するに、快楽をむさぼりたいだけの獣ごころをなだめすかし、外界のルールと正面からは衝突しないようにハンドルを握る機能のことだ。
ここにおいて、自我の定義は少し拡張される。 それは単なる「私」という認識の点ではなく、「世界と衝突する最初の境界線」として立ち現れる。 世界という硬い壁にバチボコにぶつかり、その痛覚によって初めて、「あ、ここから先は『私』ではないのねん」と知覚する。その摩擦熱が生じる場所こそが自我だ。
結局のところ、問題となるのは常に「境界」なのだ。 精神の死角にある、アプリオリな契機そのものがイデアだというなら、我々に見えているのはプラトンの洞窟の壁に映し出された影法師に過ぎない。 我々は、世界という壁に映った自分の影を見て、ようやく「私」の輪郭をなぞることができるのである。それは「境界」に畳み込まれた「がらんどう」にすぎない。
ここからは、そういう意味での、「自我」=「意識としての価値主体」を、それは本来なんであるか、それは(どういう意味において)「がらんどう」なのかを話していくことになる。
1.3. 「私」と「非私」の境界線
さて、自我が境界をもつ「がらんどう」であるならば、その成立要件は「自己を他から区別すること」に他ならない。まあ、それは「境界」それ自体の定義でしかないから、自明だ。
ハイデガーが言ったように、我々は好むと好まざるとにかかわらず、この世界に「投げ出された存在(被投性)」だ。 「おぎゃりんちょ」と生まれたその瞬間から、我々は「私」と「私以外(世界)」を切り分けるという、無限うんこゲームを時の果てまで遊ぶことを強制されている。
ここで、フッサールは『イデーン』の中でこう定式化した、「意識とはつねに何かについての意識である(Bewußtsein ist immer Bewußtsein von etwas)」と。
これは非常に重要な示唆だ。 自我というのは、真空パックの中で「我あり!」と叫んでいる自己完結的な存在ではない。 常に何かに矢印を向け、何かを志向し、対象と結びつくことによってしか存在し得ない。
つまるところ「思う」とは他動詞だったのだ、残念だなデカルト。安村は”パンツを”履いているのだ。”履いている安村が提起される”のではない。
対象(世界)との関係性の中にしか、人間存在の居場所はない。
つまり、自我が「機能している」ということは、「がらんどう」の相互作用として意識があるということであり、意識があるということは、必ず「何かに向かっている」ということだ。そうであるならば、人間存在の意味的な単一性、あるいは「私らしさ」という独一性は、「何に意識を向けているのか」というベクトルの向きにしか見出すことはできない。
自分が何を見ているか。何を対象として切り結んでいるか。 それこそが、自我の正体だと言っていい。この「がらんどう」にはアプリオリにそういう機構が備わっている。
いいのか?
いい。
とする。
2. 自我の獲得がなぜ人生の肯定と祝福につながるのか
2.1. 自我と世界肯定の接点・節点
自我を持つとは、単なる生存維持機能の実装ではない。「自己」と「世界」を別々のものとして捉える、その不可逆な契機のことだ。
自己は『世界でないもの』として定義され、世界は『自己でないもの』として定義されるほかない。これは言葉遊びではなく、論理的な必然だ。我々は、「私」という輪郭線を引くために、その外側にある「世界」という画用紙を必要とする。画用紙がなければ、線など引きようがない。これはすべて我々が地下牢獄の格子からしか死角の光をみることができないためである。
したがって、世界を否定することは、自己の輪郭を形作っている鋳型そのものを破壊することと同義になる。「世界なんてクソだ」と唾を吐く行為は、そのクソによって象られている自分自身をもクソだと規定する自己紹介に他ならない。
世界への呪詛は、そのまま自己否定へと跳ね返り、自己否定は認識世界そのものの崩壊を招く。我々はこの循環構造から逃れることはできない。
しかるにこれは絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)を導く。絶対に同じではない分かたれた別存在である「私」と「世界」は同一のものである。
その意味において、もっとも不幸なのは、自我を持たないものだ――それは世界を持たないことと同義であるからだ!(ニーチェがこういうときよくエクスクラメーションマークを使うのが好きで、僕も真似してみた。)
セーレン・キェルケゴールは『死に至る病』において、絶望にはいくつかの形態があるとしたが、その中でも「自己をもっていることを自覚していない場合」もまた絶望であると喝破した。これは、いわば精神的な無感覚状態だ。世界と自己の切断が行われていないがゆえに、苦悩もない代わりに歓喜もない。ただ環境に流され、世界と未分化なまま漂うだけの存在。それは平和に見えるかもしれないが、人間としての実存が欠落しているという点において、深い絶望の淵にある。世界を持たない者は、人生を肯定することも、祝福することもできないのだ。
逆に言えば、自我が確立され、世界と自己が鮮烈に切り離されているならば、そこには肯定の回路が開かれる可能性がある。自我が「世界肯定」の中でしか定義できないのであれば、その美しい世界、あるいは過酷だが意味のある世界を認識している「自我」というシステムそのものもまた、肯定されるべき対象となり得るからだ。
世界が素晴らしいものであると認識できるならば、それを観測しているレンズ(自我)もまた、その素晴らしさを構成する一部として祝福される。あるいは、その逆もまた然りであろう。自己を真に肯定できる者は、その自己を生かしめている土壌としての世界を、無下に扱うことはできないはずだ。
畢竟、人生の肯定と祝福には、自我が必要だ。
それは「自分大好き」というナルシシズムの話ではない。世界と対峙し、その摩擦に耐え、独立した観測者として立つこと。その孤独な直立不動の姿勢だけが、逆説的に世界を受け入れ、祝福する準備となり得るのである。
たぶん!
2.2. 孤独と「仕事」の価値
自我をひとたび持てば、その人は満たされた隔壁の中で、完璧に「孤独」となる。これはセンチメンタリズムではない。構造的な事実だ。
世界と自我はすでに分かたれてしまった。切り分けた果実の片方のように、あるいはへその緒を切られた母と子のように、二度とひとつに戻ることはない。人間が他者と完全に融合することなどあり得ないし、世界と一体化して安らぐこともできない(それを目指すのは、もはや神秘主義か死への衝動だ)。我々は皮膚という境界線によって、外界から残酷なまでに切り刻まれて遮断されている。
だからこそ、ショーペンハウアーは「仕事」の価値を重んじた。彼が言及したのは、日銭を稼ぐための労役や、一時の名声や拍手喝采を得るためのパフォーマンスではない。遥か彼方の未来へ向けて、夜空の星のように静かに、しかし永遠に残っていくような「仕事」のことだ。
彼は文学や詩歌、哲学や科学の探求を(そこに彼なりの順列をつけこそすれ)そのような高貴な仕事として認めた。だが、現代を生きる我々において、それは何も高尚な活動に限ったことではない、と僕は考える。そもそも自己とは世界なのだから、世界の要素はどれも本来「仕事」足り得るのだ、ということだ。
とどのつまり、結局、「ガワ」などどうでもよいのではないか。ショーペンハウアー自身、ヘーゲルが称賛されたことに対し、上っ面の社会的評価などクソくらえだと唾棄していたのだから。
上っ面などどうでもよい、世界の表象はどれを切り取っても「仕事になり得る」だろうが、それを満足に「仕事」とするためには、それに「中身」がなければ話にならぬ。
たとえそれが釣りであろうと、散歩であろうと、あるいはただの石拾いであろうと構わない。それは「仕事」である限りにおいて「仕事」である。それを、メソポタミアの古代人が粘土板に楔形文字を刻み込んだときのような、切実さと密度を持って、祈りの中に位置づけて行えるかどうかが問題なのだ。
そのような強度の伴わない行為は、ただの暇つぶしか、逃避に過ぎない。
仮に社会から報酬をもらおうとも、それは「仕事」足り得ないのだ。
これは、卵の殻を割らなければ、中にどんな黄身があるか(あるいは存在そのものがあり得るのか)はわからない、ということに似ている。我々は、他人の卵の殻を割って中身を確認することはできない。他人の頭を物理的に割るわけにはいかないし、精神的に割って入ろうとしても、「誤った無限回の統合」によって崩壊を起こす(似た話を最近した。それを読め)。
他人の殻の中にある宇宙を、完全に理解することなど永遠に不可能なのだ。だとするならば、我々に残された道は一つしかない。常に我々は境界の内側にある「自己」という内殻だけに集中し、その閉ざされた孤独な空間の中で、誰に見せるためでもなく、ただひたすらに自身の「黄身」を練り上げていくこと。
その孤独な作業だけが、唯一、自我という空虚な器に質量を与えるのである。そうしなければ、「がらんどう」は「がらんどう」のままである。
虚空には、中身がなければ「意味」が生まれない。
2.3. 肯定の力としての「創造」
本来的な意味で中身を与えられた自我を持つ者にとって「創造」とは、特別な偉業ではなく、呼吸と同じくらい自然な代謝活動である。
だが、ここで誤解してはならないのは、その創造が決して「世界の否定」であってはならないという点だ。往々にして、人は現実の過酷さに耐えかね、そこから逃避するために自分だけの城を築こうとする。しかし、世界を遮断し、拒絶するために行われる「創造」は、実のところ創造の名を借りた引きこもりに過ぎない。それはただのシェルターであり、自我の拡張ではなく、自我の閉塞であり、それは、そのまま自我の自壊でもある。
真に肯定的な創造とは、むしろ世界への侵襲であり、それはとりもなおさず自己への革命である。肝要なのは、「自己と世界は決定的に違う」という断絶を前提としながらも、その「自己の創造性」をもってして、「世界そのもののあり方を定義する」ことだ。
自分が世界から切り離されていることを嘆くのではなく、その切り離された個としての特異性を手掛かりに、世界という巨大なシステムに介入する(曼荼羅として拡張展開された自己そのものへと挑む)。自分の内的な論理や美意識を、外的な世界に溶かし込み、世界の一部を自分の色で定義する。それが「中身を詰める」という行為の実践的な側面である。
これは要するに、西田幾多郎の哲学に通底する話だ。西田は、個物が世界によって限定されると同時に、個物が働きかけることによって世界もまた形成されるという相互限定的な関係を説いた。世界が私を作り、私が世界を作る、というのはチープな翻訳だろうか。どちらかといえば、「世界は私であり、私は世界である」だろうか。
ただ単に知識を詰め込むことでも、消費財をコレクションすることでもない。内面化した世界を、自らの炉で溶かし、鋳造し直し、再び世界へと還流させる。その「作業」のサイクルの中にしか、自我の健全な居場所はない。
そう、自我とは固定された「物」ではなく、虚空の宙(ソラ)を回転し駆動続ける「機構」なのである。
――それは、はじめから星である。
3. 中身を詰めるとは何か
3.1. 露払い(頑迷を解こう)
「中身を詰める」という言葉を聞いて、何かの資格試験の勉強だとか、あるいはトリビアの泉みたいに無駄知識を脳みそに詰め込むことだと思ったなら、今すぐその思考をドブに捨てて、ついでに自分もドブ泳ぎをして、いったんそのまま沈んでいって、帰ってこないでほしい。
それは「詰める」のではない。ただの「情報の不法投棄」に過ぎない。また、好きなアニメキャラのプロフィールを暗記してニヤニヤすることでもない。それはそれで結構だが、今回の話においては何の意味もなさない。残念ながら。僕もよくやるが!
ここで言う「中身を詰める」とは、「一度自己から切り離した『世界』という体系を、もう一度、自らの腹の内に再構築する作業」のことだ。
思い出してほしい。我々は自我を獲得する際、世界と自己を切り分けた。あるいは、切り刻まれた。その時、多くの未熟な精神(ミニマム精神おちびちゃんたち)は、こう考える。「自分は特別で複雑な存在だが、世界は単純で退屈なものだ」と。
世界を矮小化し、自己を極大化する。世界の解像度が低いまま身体だけ大人になった連中は、この全能感にしがみついたまま、「世界は俺を理解していない」などと寝言をほざく。だが、それは単に、おちびちゃんの目がちいちゃーくて、でかすぎる世界が見えていないだけだ。
バカでかい 帽子の君が
でかいマリーゴールドに似てる
あれはそれがデカい夏のこと
バカでかいと笑えた クソでか恋
ドでかマリーゴールド/でかあいみょん
真に創造的であろうと欲するならば、一度切り離して「他者」としたその世界を、ふたたび己の口から飲み込み、腹の中で消化し直さなければならない。それは不快で、熱く、身を焼くような作業だ。
複雑怪奇で、理不尽で、広大な世界という体系を、自分の内臓としてインストールし直すこと。それが「中身」だ。星の駆動機構を、無理やり拡張するということであって、がんばれば星の命の終わりまでに恒星になれるかもしれない。重力崩壊には気を付けたほうがいいが。
なぜそんな面倒なことをするのか?もう簡単な足し算だ。「世界の中にいる自己」の中に、「参照されるべき世界」が入っていないのであれば、その自己が叫ぶ「自我」の正当性は、一体誰が保証してくれるというのか。内なる世界地図を持たぬ者が、外なる世界を歩けるはずがない。
地図を持たずに遭難しているのを「孤独な冒険」とは呼ばない。それはただの迷子で、まず、ほとんどの場合、意味のないものである。
3.2. 世界の内面化作業と、創造的世界の外面化作業
何度も繰り返すが、「中身を詰める」とは、外的世界を自分の内に取り込み、そこに独自の「意味の体系」を築き上げることだった。これはとても能動的で、暴力的なまでに主観的な、「世界を自己の内部言語へ翻訳する」という作業だ。
このとき、自我は外界をありのままに映し出すだけの、行儀のよい「鏡」であってはならない。投げ込まれたスクラップ(世界)をドロドロに溶かし、まったく別の合金へと作り変えるための、高熱の「炉」になる必要がある。それは星の内核である。その凄まじい熱と圧力による創造をもって、はじめて「炉心」は「中身」を吐き出すのだ。
世界が十分に相互作用され、定義されなおしたとき、そこには「創造的に世界を翻案する自我」と、同時に「創造的翻案者そのものとしての世界」が立ち現れる。自我は世界の要素なのだから、自我が創造的であるのならば、世界もまた創造的であるはずだ。これは堂々巡りの議論だが、どうにかしてその円環の中に入り込まなければならない。 つまりこれは、西田幾多郎の言う【創造的世界の作業的要素である】ことの必要性、要件定義についての話である。
個物は何処までも個物として創造的であり、世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』
では、どうすればその「作業的要素」になれるのか。
ここで、キェルケゴールの『死に至る病』における絶望の三形態が、逆説的なヒントになる。彼は絶望を以下の三つに分けた。
1.絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。
2.絶望して、自己自身であろうと欲しない場合(弱さの絶望)。
3.絶望して、自己自身であろうと欲する場合(反抗の絶望)。
重要なのはここからだ。西田の言う「創造的世界」とは、この三つの絶望の形態を、すべて「反転」させた地点にのみ出現する。
世界と自我が「分かれていない(1)」か、世界から自我が「離れようとする(2)」か、自我から「世界を離そうとする(3)」か。これらはいずれも、世界と自己の健全な代謝不全を起こしている。だから絶望なのだ。
この三つの病理をすべて克服し、裏返したとき――すなわち、自己を自覚し、自己を引き受け、かつ世界との相互作用の中に自己を投げ出したとき――初めて我々は「世界の作業要素」としての自己を規定し得る。
絶望の三形態の完全な逆転、その一点においてのみ、世界は創造され、我々は世界を創造することになる。それが完全に――あるいは部分的にでも、できている人間がいるとは、あまり断言できないが。
3.3. 体系の受肉がゆえに、創造的要素足り得る
何かを自己の炉心に溶かし、ドロドロの鉄水にしてから新たなものを鋳造して吐き出すためには、やはり「体系」――すなわち様々なものごとの「型」を学ばねばならない。これは、精神論ではない。物理法則に近い。
栄養学で言うところの、必須アミノ酸のようなものだと思えばいい。体を構成するためには、体内で合成できないアミノ酸をすべて外部から摂取し、揃えなければならない。どれか一つでも欠ければ、タンパク質の合成はそこでストップする(アミノ酸の桶の理論だ)。
精神の「中身」も同じだ。世界という巨大な他者を解釈し、再構築するためには、歴史が積み上げてきた「体系」という必須アミノ酸を、好き嫌いせずにすべてぶちこまねばならない。偏食のクソガキが、強靭な精神の肉体を得るはずがないのだ。
全くの無体系から何かを吐き出すことは、まあ、あってもよいが、それは「創造」ではない。単なる「エラー」か、あるいは「奇跡」だ。なぜならば、体系を持たない出力は、他者(世界)との共通言語を持たず、論理化し得る相互作用(インタラクション)を引き起こせないからだ。世界に干渉し、世界を書き換えるコードになっていないデータをばら撒いても、それは世界のバグとして処理されるか、神話となる。
体系を外部の知識としてではなく、自らの血肉として内面化し、それが胎の内で脈動するに至った時――すなわち「受肉(Incarnation)」した時、初めて人間は「世界に対する作業的要素」としての自己を定義することができる。
それは、過去という莫大な死体(歴史)に片足を突っ込んで立ち、未来という未確定な虚空を睨みつけながら、今という瞬間において、狂ったように回転する歯車になる、ということに近い。その回転の摩擦熱こそが、生きているという実感を唯一提起する。
災厄の堰、嵐の境界で歯を食いしばって立つことだ。そこにだけ「自我」がある。
外界から遮断され、なにものにも侵されず、無菌室で培養された「純粋な自己」や「純粋精神」などというものは、この世にはあり得ない。もしあったとしても、それは免疫を持たないひ弱な胎児であり、外に出た瞬間に死ぬ運命にある。
木っ端みじんに切り刻まれ、体系に押しつぶされ、なおそれらに食らいついて回転し続ける何かだけが、人間存在として証明され得るのだ。
4. なぜ何かを愛しても何も得られないのか
4.1. 他者依存の充足には果てが無い
「推し活」に限ったことでもない。古今東西、人間の「他者に祈って救われる」という病的な活動は、社会が病理にとらわれるたび表象化する。ニーチェがさんざん言っても、人類はそれをやめられない。
こういった行為は、一見すると熱心に自分の中に「好き」や「情熱」を詰め込んでいるように見えるかもしれない。だが、その甘美な魅力に決して騙されてはいけない。あれは実際には、空っぽの自己を直視する恐怖から逃れるために、外的対象に自己を丸投げしているに過ぎない。つまり、何かを自分に取り入れているのではなく、自分を切り裂いて何かの器に注ぎ込もうとしているのだ。
これは緩慢な自殺行為である。
それは「自我の厚み」を形成する栄養素にはなり得ない。他者の圧倒的な価値や輝きを借用し、それを身に纏うことで、あたかも自分自身が高尚な存在になったかのように錯覚する。それは自我の構築ではなく、単なる「価値の賃貸契約」だ。
そこにあるのは、自らの足で立つことの放棄であり、「素晴らしいあの人を推している私」という、依存によってしか成立しない仮初めの自己定義である。結局のところ、それは理想の姿を眼前に置くことによって、片時、未完成で不格好な自己を忘却しようとする行為に他ならない。
すなわち、キェルケゴールの言う「自己自身であろうと欲しない絶望」の、現代における最もポピュラーな変種である。自分という重荷を背負うことから逃げ出し、他者の物語の中に埋没して「自分を無くす」ことを願う。それを彼らは「愛」や「救済」と呼ぶかもしれないが、実存哲学はそれを断固として「絶望」と呼ぶのだ。
残念だったね(笑)。
4.2. 作業的要素の欠如
真の「中身を詰める」とは、世界を内面化し、それを血と汗と涙の混合物によって再構築する「体系化」の作業であると定義した。それは文字通り、身を削るような苦痛と、創造の熱を伴うダイナミズムだ。
翻って、他者依存の世界とは何か。
それは、「わかってもらう」「同調する」「尊いと叫ぶ」という、極めて受動的で、安直で、かつ一方的な「消費」の関係に過ぎない。にもかかわらず、その行為をSNSで喧伝し、自己肯定の武器として用いようとする緩慢なる自殺志願者の多いことよ。
ここにあるのは「共感」という名の、精神的マスターベーション、あるいはその契約的愛人関係にすぎない。
それは鏡の間で踊っているに等しい。自分が見たいものだけを見て、聞きたい言葉だけを聞く。そこには、他者という絶対的な「異物」との衝突がない。衝突がなければ、摩擦熱も生まれない。摩擦がなければ、変容も起きない。苦しくない。生み出そうとする力が働かない。
「与えられたものが【自分に刺さる】=あらかじめそこにある穴に収まる場合」だけ、それが自分にとって尊いものであるとのたまうことは、「世界の創造化」とは全く異なるものである。
そこには能動的な創造の苦しみも、体系構築のたうち回りもなく、ただクレジットカードを切ってドーパミンを垂れ流す。そのプロセスを経て、自我が形成されるわけがないことは、もはやくどくど説明する必要がないだろうから、しない。
君たちは世界に対して働きかけず、世界から働きかけられるだけの存在。それも、自分という穴にはまる鍵が、どれか一本はだれかが投げてくれるだろう時代に生きているから、口をあけて待っていて、鍵がはまったとたんに、その鍵穴以外の自分の構成要素を邪魔だから、物語化に合わないからと切り刻んでは捨てていくだけの、哀れでみじめな家畜にすぎない。
4.3. 無限の提供は、円環が閉じる場合にのみ肯定されるが、普通死ぬ
もし、「他者依存の充足」が真に成立する世界があるとするならば、それは以下の条件のいずれかが満たされた時だけだ。
一つ、他者とのつながりが永遠に抜けも漏れもなく、エントロピーの増大を無視して構築され続ける場合。二つ、君たちが無限大の出力を持ち、外部からの供給なしに永久機関として回転し続けられる場合。
私はここで、それが不可能であるという、当たり前の物理法則を言っている。
他者は去る。コンテンツは終わる。推しは結婚するし、引退するし、あるいは君たちの期待を裏切って人間的な側面を露呈する。漫画はつまらなくなるし、アニメは思ってた演出と違うことをするし、――ていうか、その前に君が飽きるだろ。イナゴし続けても、今度は「何も一つのものを好きじゃない自分」というダメージを負うことになるのだし。そもそも、「そんなことばかりしていて中身がない自分」みたいなものって、やっぱり自覚的に苦しいだろう。
そうやって「正気に戻った」その時、外部に接続コードを繋いで生命維持をしていた君たちは、当然、死ぬ。あるいは、供給が続く限り運よく生き延びられたとしても、それは「管に繋がれた脳」が見ている幸福な夢と何が違うのか。円環が閉じている世界、すなわち外部との摩擦がなく、自己完結した(ように見える)系は、熱力学的には「死」の状態と同じだ。
我々は万能者ではない。神でもないし、永久機関でもない。欠落を抱え、寿命を持ち、限られたリソースしか持たない、哀れで不完全な有機物で、それが生命体だ。
我々は、今いるこの場所、このどうしようもない現実という座標軸の上で、咲くしかないのだ。泥にまみれ、クソのような制約の中で、それでも自分の根を張り、自分の養分を吸い上げ、自分の花を咲かせる。
地を這って、泥をすすることしか、人生ではないよ。
そのほかは全部嘘だ。
5.おわりに
別に、「何も好きになってはいけない」ということを言っているのではない。そういうことを言っている哲学者は、ちょっと病んでいる。病んでいるし、その虚無主義もまた、絶望の形態にすぎないのだ。
実際のところ、恋人でも、家族でも、ペットでも、趣味でも、自分の中にそういった「何か」があることは、それはそれなりに「何か」である。
ただそれは「何か」であって、好ましい何かであっても、それが「自分」そのものを規定する存在証明の根源規定であってはならない。それは決して「中身」ではない。それは「中身」でもなんでもなくて、ただの鍵である。それも、自分という忸怩たる身に空いた様々な穴に、偶然ぴったりはまっただけの鍵である。鍵を大切にしてもかまわないが、鍵が開けるべき箱の中身に結局何もなければ、それは意味がない。
誰かを愛することは、何かを愛することは、自我の作用的要素であってよい。それによって「愛される世界」が自我を規定するのであれば、それもひとつの創造化作用である。だが、愛される世界に自己が存在していないのであれば、つまり、「自己の(世界の)創造化のために何かについて意識する」のでなければ、それは自殺である。
「これを好きでいることで、自分の人生が満たされる」は一見この要件を満たしたように見えるところに注意しなければならない。それは、生の駆動が、機構として回転していないからダメだ、と言った。世界の中に自己を意味付けたとき、その自己が世界を代表しなければ、その「満たされた人生」は虚構にすぎない。
人生が祝福されていなければならないわけでもないが、されていたほうが良い。されていたほうが良いのは、それが、人間という存在の遠い遠い滅びの旅を唯一慰めるからで、これは僕の願いに過ぎない。ただ、そりゃそうだろ、と思う。
人生を祝福するのは、身売りでもなければ、緩慢な自殺行為でもない。人生を肯定し、祝福し、駆動するために必要なのは、自我である。自我の獲得には、「中身」――逆説的にそれは世界の構築・創造化そのものである――が必要なのだ。
この身は、初めから星であり、星は天体に対して常に孤独であり、その回転は、熱的死へ向けて炉を燃やすことでしか「説明」ができないのだ。その炉心の点火をして、「仕事」であると呼べる作業が定義される。
であればこそ、これは今度こそ当然の帰結だが、あなたにとって「勉強」が畢竟そういう「仕事」でないのであれば、勉強でさえ、中身を詰めるための炉心の点火にはなり得ないのである。それは世界との相互作用が生まれるはじめの地点が間違っていたということだ。
机にかじりつけばいいというのでもない。
・・・というようなことを、以前は書かなかった。というか、書く必要がなかった。
自明だと思っていたからだ。
その点は、さすがに、反省している。
あと、僕も全然まだまだ、完璧にできてなんかいないから、そこは偉そうだな。
ともかく、結論は凡庸だ。
僕はどれだけ擦り減っても、まだ中身が欲しい。だから「勉強」をする。
――これは、つまるところ、それだけのことだ。
(おしり)