そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

生きるのって難しいね。

 

話題なので、読んだ。

 

https://note.com/nikudaruma_ut/n/nc5b3ccd352ad?sub_rt=share_pw

 

総じて、この文章は、筆者本人にとっては自身の人生に正面から向き合った切実な記述なのだろう。しかし読み手の側から見ると、筆者が本質的だと考えている事柄の多くが、本文の主題を支える論証としては十分に機能していないように読める。

むしろ、この「筆者にとっては切実であるが、読者にとっては本質的とは限らない事柄が前面に出続けること」自体が、この文章の性質をよく示しているように思われる。

 

たとえば、小学校時代の骨折に際する相手方への恨み、怒り、納得のいかなさには、かなりの紙幅が割かれている。その経験が筆者本人にとって重大であったことは否定しない。だが、その重大性はあくまで筆者の内面における重大性であり、読者にとって同じ程度の重みを持つとは限らない。また、その経験を読者に読ませるための文章上の処理、たとえば場面構成、感情の制御、一般化の手続き、制度論への接続が十分であるとも言いがたい。

そのため、この箇所は「公立小学・中学の潜在的リスク」を説明する文章というより、筆者個人の憤懣、未処理の記憶、あるいは長く保持された反感がそのまま表面化している箇所として読めてしまう。筆者はこの長大な文章が読者に対して制度的リスクを十分に説明していると考えているのかもしれないが、少なくとも本文上では、個別経験から一般的リスクへ移行するための中間命題が不足している。ここに、この文章全体を苦しくしている認識上のずれがある。

 

本人が本質的な失敗要素として分析している進振り、就活、キャリア設計についても、本文を読む限り、それらは本当の失敗要因というより、より深い問題が表面化した局面にすぎないように見える。問題は、個々の選択の成否ではなく、人生全体をどの指標で評価するのか、どの目的関数を最大化したいのか、その設計に失敗している点にある。

筆者の記述から推測される価値観を踏まえるなら、本人が本来目的関数とすべきだったものは、「最終的な年収地点」「社内ヒエラルキー」「社会的成功者」といった、かなり外在的で序列的な指標だったのかもしれない。それらを高尚な目的と呼ぶ必要はない。むしろ、それが本人にとって本当に重要だったのであれば、その目的を達成するために必要な「口八丁手八丁」や組織内政治、対人調整、権力関係の読み方、評価者への見せ方、機会獲得の手練手管をどのように学び、どのように実践したのかが書かれるべきだった。

しかし本文には、そのような学習過程も実践過程も十分には記述されていない。そのため、筆者は自分自身の目的を達成するために本来何を学び、何を実行すべきだったのかを、当時も現在も十分に整理できていないのではないか、という疑問が生じる。

 

これは、内発的動機が弱い、あるいは少なくとも本文上ではそれが明確に表現されていないことに起因しているように思われる。目的に対する最適化以前に、目的そのものが人生単位で十分に定義されていない。

 

本文に現れている意思決定は、「受験では東京大学」「進振りではその時点でヒエラルキーが高い経済系の学科」「就活ではtier表上の企業」といった、外部から与えられたステージごとの評価指標に逐次反応しているものとして読める。やや強い比喩を使えば、外部の光源に反応して進路を変える生物のように、その場その場で照射された序列へ向かっているように見える。それを振り返るにあたり、「先の段階での目的関数を評価軸に取り込むべきだった」と判定しているが、それはモデルを平滑にするだけであり、本質的な解決ではない。

 

人生を通底する「自分は何をしたいのか」「何を求めるのか」「どこに行くのか」「それをどの指標で測るのか」という課題設計を、筆者自身がどのように引き受けたのかは、本文からはほとんど見えてこない。問題は「進振りで経済を選んだこと」そのものではない。目先に提示された目的関数へ飛び込むような意思決定様式、すなわち外部序列を自己目的化してしまう性質のほうにある。その点を検討しないまま、その時その時のパフォーマンスだけを反省しても、再現性のある教訓にはなりにくいし、読者の参考にもなりにくい。

 

この一例に限らず、本文には形式論理上の飛躍も見られる。そのため、筆者の自認である「数理に強みを持つ」という評価にも、少なくとも本文の論証からは一定の疑義が生じる。

もちろん、与えられた計算問題を正確に処理し、入試数学を突破する能力は明確な能力である。しかし、社会における数理論理の実装は、単にコマンド・パズルとして与えられた問題を解くことだけではない。曖昧な現象を分析し、モデル化し、前提を定義し、形式論理を現実の制約条件に適合させる能力が必要になる。本文では、この意味での数理能力と、入試数学の得点能力が十分に区別されていない。むしろ、自分の理屈に適合するように、能力概念のほうを狭く設定しているように見える。

 

「数理能力は東大数学を三完できる自分が上」とする判断は、その問題がもっとも強く現れている箇所である。これはかなり信じがたい論理の飛躍である。

前段で筆者は、「自身より数理能力に優れた地方大就活生はいるものの、それらは研究の道に進むか、あるいは自身の入社した企業よりtierが上位の企業に入社したであろう」という仮説を置いている。この仮説は、ある種の市場均衡モデル、すなわち適正な数理能力を持った人材が、おおむね適正な進路や企業に割り振られるというモデルに基づいている。
そうであるなら、筆者自身の論理の根幹には、「入社した時点で、市場において評価された数理能力は一定程度均衡している」という仮定が存在しているはずである。にもかかわらず、同社の同輩に対して「自分は東大数学三完である」と主張して優位性を確認しようとすることには、本文内の論理から見ても十分な根拠がない。

ここにあるのは、数理能力の客観的比較というより、自分が優位に立てる評価軸を後から選び直す態度である。仮説を完全に廃し、「就職市場は数理能力をまったく反映しない」と言うなら、まだ議論の余地はある。しかし一方では市場的選別を前提にしながら、他方では入試数学能力だけを称揚し、修士課程の研究生活や専門的訓練による能力開発を軽視するなら、それは自分に有利な評価軸だけを保存しているように読まれる。そこには、本文全体に通底する視点の偏りがある。

 

概して、筆者は、自分が価値を認める指標、すなわち入試が示す勉強スコア以外にも能力評価の指標が存在するという事実を、本文上では十分に扱えていない。入試数学、大学名、学科序列、企業tierのような可視的な序列には非常に敏感である一方で、研究経験、問題設定能力、曖昧な現実をモデル化する能力、組織内での調整能力、長期的な専門性形成、他者から評価される文脈を読む能力といった別種の能力が、同じ分析平面に置かれていない。

筆者自身が言及しているある種の発達特性との関連を考えることも不可能ではない。ただし、本文から外部的にその有無を断定することはできないし、そこを問題の中心に置くべきでもない。むしろ問題は、そのような特性の有無ではなく、自分の評価軸と他者の評価軸がどこでずれているのかを、本文が十分に分析できていない点にある。

そのずれが誰からも適切に指摘されず、また本人の側でも十分に言語化されないまま残ると、自己評価と他者評価の齟齬は解消されない。本文は、その齟齬の苦しさを語っているようでいて、実際にはその齟齬を生み出している評価構造そのものには十分に踏み込めていない。その意味で、この文章は自己分析であると同時に、自己分析が途中で止まっている文章でもある。

 

それゆえ、筆者は、自分の価値を守るために、世界の認識を自分にとって耐えられる形へと組み替え続けているように読める。しかし、その組み替えが本文の形式論理を歪ませ、論証を不安定にし、本人が拠り所としているはずの「数理的な能力」という自己評価にまで疑問を生じさせている。

この文章の苦しさは、まさにそこにある。筆者は自分の人生を分析しようとしている。しかし、その分析は、自己評価を根底から検討するところまでは進まず、むしろ自己評価を守るための論理構築に傾いている。その結果、文章全体は、人生の失敗要因を明らかにする批評的自己分析というより、外部序列に自分を預け続けた人間が、その外部序列から期待した報酬を受け取れなかったときに、どのような論理で自分を説明しようとするのかを示す記録になっている。

 

メタ認知には、どんなに自分が納得できなくとも、世間からの評価軸(ここでは、雑多に、「幸福追求」や「自分の本当にやりたいこと」といった軸と考えてよい)を、一定以上の重みを設計して組み込まなければならないという、人生全般の教訓として読むことは可能である。他方、その測るべき「世間」が受験戦争や、学科ヒエラルキー、就活tierといった一面的な数値を追い求める集団であり続ければ、取り入れるべき評価軸が、初めから周囲に存在しない。

 

結果、結論として、「友達をたくさん作ろう」、「見識を広げよう」、「広い社会を知ろう」という凡庸な言葉がいくつか浮かんだ。

 

(おわり)

夢日記(最強すぎて殿堂入り)

 

 世界最強と嘯いたこともあったが、もう過去のことだ。「強さを誇るのは、もうそろそろお止めになってはいかがだろうか」と、夢日記最強決定委員会(会員は僕ひとりである)から通達があったので、晴れて殿堂入りとしてこの「最強」の看板を下ろすこととなった。

 かように街の景色は目まぐるしく移り変わり、流行り廃れの入れ替わりは加速する。僕もまた最強というままではいられない。世の中はあっという間に変遷し、今を生きる子供たちは過酷な時代の只中にある――というのは、幾分年を重ねた大人の言い分なのかもしれないけれど。なにせ子供はいつも、社会情勢や大人の思惑とは全く関係のないところで独自の幼年期世界を形作っていて、そこには我々と違うリズム・時間が流れている。

 人は、大人はだれでも、大人の目線から子供の世界を理解することができると思っている。子供から大人を見るのは難しくても、大人はかつて子供だったのだから、その目線を取り戻すことができるだろうと安易に考える。それが誤謬であることは、自分が子供だった頃の大人たちの目線に感じていたはずなのに。

 大人に言われたこと、言われて嫌だったこと、大人の言い分が見当違いだと思ったこと、それを論理的に伝えることのできない自らの未熟に嫌気がさしたこと。子供同士でしか分かり合えなかったこと、その間にも確かに断絶と不理解があったこと、それをこうして今語る言葉がすべて「間違っている」だろうこと。

 

 ある世界の中にいる人間の視点を、外の人間が持ち得ることは絶対にありえない。外から理解しようとするならば、中に入って中の人間の声を聴くほかない。これは文化人類学の話だ。それを「理解」と呼ぶことも本義的には間違っているのかもしれない。「解釈」くらいにとどめておかなければ、世界はすぐに0と1に解体されて、我々が生きていることだとか、彼岸と此岸だとか、そういった遍く世界の「意味」そのものが雲散霧消してしまうのだ。

 

 僕という人間はどう考えても理系だし、理系の中でもかなり「理系」と言っていい人間のひとりだと思う。博士号を持っているし、研究所で働いていて、毎年論文を書いたり学会発表をしている。そんな「理科系のおとこ」だが、このところ人文学が、哲学や文化人類学が、民俗学が、客観的数理論理的記述に耐えない未熟な学問であるかのように扱われていることに、強烈な違和感を持っている。
 1+1=2でなければ語ってはいけないのか。定式化できない思惟は価値がないのか。そうできないことは「未熟」なのか。――そうではないのだ。決してそのように形式的に意味を取り出せないものも存在するのだ。それは決して「理解」することのできない世界のことである。
 ヴィトゲンシュタインは「沈黙しなければならない」と言った。だが僕はベケットがそれでも語ろうとした「無限の否定」の強靭さを信じている。

 

 さて、始めるか。

2/5 なぜ僕は彼の背中がしっとりと冷たいことに腹を立てたのだろう

 女友達がストーキング被害にあっていた。大変なことだ。そのうえ、犯人はどうやら僕の知り合いらしい。まず腹を立てた僕は、普通こういうのは犯人を刺激しない方がいいということはわかっているものの、居てもたっても居られず話をつけにいった。僕が話せばスッパリわかってくれるとも思わなかったが、何かしないと気が済まなかったのだ。現実にも、似た経験があり、その時は何もできなかったということもあるだろうか。
 知人の男に会って、もうスパッと諦めなあかんよ、警察沙汰なったら遅いよ、お前が思ってるより事態は深刻やで、と言い宥めながら背中をさすったところ、背中がひんやりと冷たい。しかもなんかしっとりとしている。別に彼がここに来るまでに走ったり満員電車に揺られたりして大汗をかいてきたわけでもない。今は真冬で、彼の背中がしっとり濡れている正当な理由が僕にはわからなかった。僕は心底腹が立った。
 「なんで冷たいん」
 「それはお前、逆カイロ貼ってるからやんけw」
 なにが「やんけ」やねん、ボケ、ぶち殺すぞ。なめんなよ。ガキが。
 僕は彼をボコボコにした。女友達もやってきて、町内の人間もやってきて、袋叩きにした。
 ――僕は本当に正しかったのだろうか。

 

2/6 わかりやすいストレスの夢

 友人の結婚式だ!めでたい。このところ出席が続いているのもあり、ディティールが細かい夢だった。絢爛華美な生花装飾に、輝くばかりのシャンデリアの下、僕たちはシャンパンを片手に人生の絶頂を讃え合い――とはいってもその会は、最近出ているような「お上品な」会ではなく、地元の、どうしようもない連中(僕もその一人だとすぐにネタバレするから安心して読んでいてほしいのだが)によるものであって、酒乱騒ぎそのものだった。ゲロ吐き用のタンクが普通に廊下にあったくらいの。
 ・・・御多分に漏れず、僕も数度吐くまで飲んでいた。というか、僕がその席で一番浴びるように酒を飲んでいた。にも拘わらず僕の心情としては「なんだこいつら、バカなんじゃねえのか」だった。これは選民思想だろうか?僕は、常に自己の振りかざす暴虐には甘い人間なのだろうか?だから知人を袋叩きにするような、そんな大衆の醜さを身に着けてしまったのだろうか?今となってはわからない。ただ、その日はすべてに腹を立てていた。
 シャンデリアが落ちればいいと思った。僕は結婚式など本来好きではない。僕が好きなのは人間であって、友人であって、友人が大切に思う人々を友人というフィルターを通して大切に思っているだけだ。セレモニーそのものを愛している人間がいるとすれば、それは神を理解できない人間なのだと思う。

 この夢を見た理由は明白で、僕はいま難聴の治療のため断酒中で、ノンアルコールで飲み会に何度も参加させられている。まあ、俗物だな、僕もこれで。

 シーモアの言葉を思い出す。

 ”(それが(略)誰であっても)何もかもこんちくしょうと言うとき、それは卑俗な形をとっただけの祈りに他ならないんじゃないかな。神には侮辱ということがわからないと僕は思っている。”

 

2/7 星の終わりに思うこと(数度目)

 星が終わる夢を見た。
 よくあるテンプレートとしては、地球という星の最後の日に、巨大隕石みたいなものが降ってきて、僕は何か別のことを考えている、という形式である。だいたいは共同体の中にいれてもらえていなくて、孤独だったりする。
 その日は、天使と対談をしている、という変わった形式だった。ウルトラセブンメトロン星人編といって、どれくらいの人に通じるのかはわからないけれど、そういう形式だった。四畳一間にちゃぶ台がひとつ。向かい合って座る僕たち。交わされる言葉。そういうことだ。
 変わったことはほかにもあって、それは、天使が消しゴムだったということだ。僕の夢では、だいたい天使というのは、おじさんとか、外国人とか、そういう「そうですか」という表象を伴って現れ(羽もわっかもない)るのだが、今回は消しゴムだった。
 そこで僕たちは、星の命というものをどうとらえるか、禅問答のようなことをしたと思う。細かい内容までは残念ながら覚えていない。寝起きの僕の夢メモには「髪の毛よりも長いものは、輪廻の先へもっていくことはできない」と書かれていた。どういうことや。
 この議論に意味はあったのだろうか。光に包まれて消えるさなか、消しゴムは誇らしげだったように思う。

 

2/8 ほしいものはいつも手に入らない

 一番くじを引こう!これは根源的な欲求を刺激してくる。あれは人間の射幸心を煽ってくるもので、実によくできている。つい散財してしまう人が多いだろう。9割9分お目当てのものが手に入らない、すぐに無くすか捨ててしまうものがポロリと出るだけだが、それが逆に「引いた時の記憶」を「大当たり」で埋め尽くす迷彩になっている。
 プライズはA賞からE賞までよりどりみどりだが、僕の目を引いたのはそれがバンダイ一番くじで、デジモンがフィーチャーされていて、かつ、C賞に位置していたのが(普段そういう場面でまずお目にかかることのない)「ジエスモン」というデジモンのフィギュアだったことだ。
 僕はデジモンの中でジエスモンが一番好きだ。かっこいい。素敵だ。イカしてる。だが、デジモンというフランチャイズにおいてジエスモンは堅実な人気どころではあるが一般知名度はほぼ0に近いという困ったポジションにいて、グッズが作られることがほぼ無いに等しい。アグモン、ガブモン、メタルグレイモン、ウォーグレイモン、オメガモン、インペリアルドラモン、ディアボロモン・・・いくつかは諸君も聞いたことがあるだろう連中の陰に隠れて、グッズ化からは遠い存在。そのフィギュアがC賞で!これは回すしかない。当たるまで回すんだ。そう思ったわけである。
 そして、結論から言うと、僕はすんなりC賞を出した。「C賞ですね、お待ちください」とローソン店員。ありがとうございます。果たしてレジ奥の棚から出てきたのは、プーアルドラゴンボール)のフィギュアだった。
 あ、いえいえ(笑)
 あの、違います~。
 これじゃないです~。
 バンダイデジモンのくじだから、ジエスモンの・・・。
 「あー、これですね、バンダイのくじだから、デジモンドラゴンボールが半々で出るんですよ~。今回ドラゴンボールのほうですね」
 てめえ、なめやがって、ふざけんなよ。そんなこと許されるわけねえだろ。
 金返せ、ぶっ飛ばすぞ。なめんな。
 でもまあ、プーアルもかわいいし、好きだから、持って帰った。
 でもジエスモンが欲しかった。
 しくしく。

 

2/9 「今じゃない」「だとして譲れ」「だからお前はダメなんだ」

 登山に来ていた。雪山登山だ。現実では、立て続けに知り合いが厳冬期に事故死したこともあるし、僕も所帯持ちとしてもう潮時だと思い、辞めた。夢ではそんなことも起こる。未練だろうか?まあいい。
 珍しく(というかほぼやったことがないが)山小屋に泊まっていた。理由は単純で、山頂までアタックしたあとスキーで降りようという話になっていたからだ。テント泊だと、アタックに大業な装備を持っていくわけにいかないのでベースキャンプにいくらか置いて軽装で向い、キャンプ地に戻ってきて物資を回収して帰るわけだが、それだと山頂からスキーで降りることができない。というわけで、物資を極限まで減らして最初から最後まで歩くために山小屋を利用したということである。
 早朝、というか未明、ベストコンディションだ。無風、無雲、快晴にしてかつ、昨晩の降雪が固まりきっていない。おい、いくぞ!最高だ!!すると仲間がぽつり。
 「うん、じゃあ風呂入ってくるわ」
 なんで昨日入ってないねん。
 「眠かったし」
 そうか。そうかじゃない。何を言ってんの。今から行くとこやんか。
 「でも風呂はいってないし」
 それはお前の都合やんけ。全体のことを考えろ。
 「入ってないと気持ち悪い」
 だとして、今は全体がこうやから、行こう。
 「先いっといて」
 アホなことぬかすな、山頂で待ち続けろっちゅうんか。
 「先降りといて」
 雪山なめんなよお前。

 

 なんか最近こういう、「ダメなやつ」にむかつく夢が多い。よくない。

 

2/10 言われてもいないのに誤魔化してしまうことが、人生にはよくある

 京都発の大宮行きのバスに乗っていた。途中で名古屋に寄るが、ピックアップは予定されていないので名古屋で降りる人がいなければ高速から降りないで済む、だから名古屋で降りる人がいたら言ってね、と運転手。よく考えたらそんなわけないのだが、夢とはそういうもので、僕が高速バスに詳しくないというのがそのまま反映されている。
 それで、その日僕は名古屋で降りようとしていた。だから後輪近くの、運転席からほどほどに遠い座席から手を挙げて「はい、名古屋で降ります」と言ったのだが、気づいてもらえない。何度もやっても気づいてもらえないので、周囲の座席から「いつまで言ってるんだ、うるさいやつだ」みたいな非難の視線を浴びせられる羽目になった。
 いたたまれなくなった僕は、シートベルトを外して、運転手のところまでヨタヨタと歩いた。「何してるんですか!運転中は座っていてください!」と怒声を張る運転手。はあ、と溜息ひとつついて、僕は、大声を出した。「すみません!名古屋で降りるんですが!」運転手は、「早く言えよ、チッ」と言った。
 舐めてんじゃねえ、とは思ったが、まあ現実、こういうクソみたいなやつはいくらでもいるな、と思った。ちょっと考えたら、「聞こえなかったから歩いてきたんだな」とわかるのだが、そのちょっとが考えられない人は結構いる。まあいいや。なのでこいつの横暴も許してやろう、そんな風に思った。
 すると、運転手は不満げな顔を浮かべたまま、「なんで名古屋で降りるの?」と聞いてきた。その瞬間、僕ははっとなった。
 なぜか僕はその日、セントレア空港から羽田に飛行機で向かうことになっていた。だが、どう考えても関空から直で飛んだ方がいい。なぜこんな愚かな選択をしてしまったのだ?自分でもわからない。京都からバスに乗って名古屋に向かう意味などないのだ。ちょっと考えたらわかることである。しかし、そうなると、まさかとは思うが、ここで素直に「セントレアから羽田に飛びます」と宣言すると、「京都から関空に出ているシャトルバスと間違えて、このバスに乗り込んだアホ」と思われたりしないだろうか?などと、意味のない思考が高速回転する。
 僕は「仕事っす」とうそをついた。
 別に本当のことを言ったって、誰も困りはしないのに。心底自分が嫌になる。

 

2/11 車のアクシデントは、後ろ向きな性格を反映している

 ドライブ中、ちょっとしたアクシデント。ふと気を抜いた途端、縁石に乗り上げてしまった。ありゃりゃ。ハンドルを切り返しながら少し戻ろうかと後方確認をした途端、聞きなれぬけたたましいビープ音が鳴り響く。
 そんなものはあるわけがないのだが、どうやら「自己の過失で事故を起こしたときに押すボタン」を誤って押してしまったらしい。それで通報が警察に向かって飛んでいるということだ。急ぎ慌てて、キャンセルキーを打ち込んで停止する。
 ビープ音は止まったが、心臓はバクバク鳴っている。通報履歴がどう記録されているのかはわからないが、Callが入ったことは間違いないだろう。それは記録として残るはずだ。そんな風な思考が駆け巡る。知らぬ存ぜぬを通すこともできるが、それで黙っていて数年後に追徴課税だの行政処分だのなんだの言われたらたまらない。ここは、自分から行って、弁明の機会をもらおう。そんな風に考えた。つくづく真面目な男だ。
 専用の、何と言ったらいいのか、そういう時に罰金を払うためだけのドライブスルー施設のような場所に向かった。そこはきわめて効率化されていて、レーンの色ごとに罰金の額や罪状、行政処分が区分けされているような場所で、これらと先ほど鳴ったアラートシステムの画面に表示された色や識別子を比較することで迅速にETCから罰金が払えるというものだと見受けられた。なんだか、車社会ディストピアここにありという感じだ。
 ただ、「縁石に乗り上げてしまっただけで、何も損壊とかしていないし、ただ押し間違えただけ」という条件に合致したレーンはなさそうだった。普通フェイルセーフとして「その他」というレーンを用意しておいて、それが事実上わからない人のための救済措置となるはずなのだが、そういったものがない。右往左往していると周りの車からクラクションを鳴らされる。どうしよう、まいったなあ。
 ほどなくして、職員らしき人が駆け寄ってきた。よかった、助かった。あのですね、かくかくしかじかの理由で・・・。「そういう区分はないですね、ここにきてしまった以上仕方ないので、緑の一番安いレーンで10万円払って、それで帰ってください」職員さんは、冷たい視線と冷たい声で、その事実を告げただけだった。
 そ、そんなぁ・・・。 
 いやはや、いやあ、うーん。仕方ないのかな。僕が悪いのかな。なんだか仕組みが間違っているような気がする。10万円は大金だ。大金だが、大金だから払いたくないのではない。「負けた」気がするから払いたくないのだ。
 だが僕は払った。何か疲れていたのかもしれない。クラクションを鳴らされると、冷たい視線を浴びせられると、人は弱ってしまう。心の元気がなくなって、へとへとになると、どうにもこうにも助かりたくて、とりあえず罰を受けてしまうということがある。帰りたいんだ。罰を受けてでも、罪人になってでも、僕たちは帰りたいと願う。そんなことは、何も自分の人生を良くしないことはわかりきっているのに。
 僕たちは軽はずみに何かをして、軽々に何かをやらかしてしまう。それは、いつも軽いものだが、降りかかる結果は実に重い。点でしか起こらない「ミス」に対して、降りかかる責任は同時代の他人という「線」に伝播し、負債の清算をするのはさらに人生という時間軸をかけた「面」だからだ。
 ぼんやりと、熱に浮かされたような自我で緑のレーンを通り抜ける。ポーン。バーが上がる。日髙のり子さんの声が、「10万円、利用しました」と言っていた。
 ――そうですか。
 目を覚ました時、深々と溜息をついた。僕はつくづく、後ろ向きな人間だ。

 

おわり


 今回は、現実的な夢が多い。宇宙だのなんだの、あまり行かなかった。普段はもっとひどいということでもあるが、とにかく今回は支離滅裂というほどでもなかった。ナンセンスではあっても、骨子に「何か」がある。
 自由ではなく抑圧されていて、発散ではなく規則されていて、奔流ではなく鬱屈とした「何か」が、今の僕にはある。

 その何かは、本来拾い上げなければならないもので、それができていない自分の能力の低さにはうんざりする。
 だが、拾い上げたところで、あなたがそれを「理解」することはないし、拾い上げていないままでも、あなたはこれを「解釈」することができる。
 これはつまり、そういう性格のものである。

 

 僕は今でもゴドーを待ち続けている。
 だから僕は夢の話をするのだ。

なぜ勉強をしなければならないのか・解説篇

 

いつもより少しだけ、読まれることを意識して書く。

 

もう大昔の話になるが、『なぜ勉強をしなければならないのか』というテーマで真面目に話したことがある。

「書いたことがある」ではなく「話したことがある」なのは、親友との対談形式をとったからだ。

 

その頃の記事は消してしまっているのだが、対談の内容は書き起こしていたから、素材としては残っている(またどこかで日の目を見るかもしれないが)。

 

そこでは、「自分の中身を詰めていく作業全般がとにかく人生のどこかのタイミングで必要なのだが、そのためには体系があった方がいいに決まっているし、早い方が有利だろう」というようなことを言っていた。

 

分解してみよう。

自分の中身を詰めていく:①人生の肯定と祝福には自我の獲得が必要だ。

作業全般:②別にそれは学校の勉学である必要はないという意味で「全般」。

人生のどこかのタイミングで必要:③後からやり直すこともできるという程度の意味。

体系があった方がいい:④基盤としてゼロから物を作るのは大変だ。

早い方が有利:⑤まあ常識的に考えて若い方がアドバンテージがある。

 

②以降は普通のことしか言っていない、と思う。何かを目指して何かをやる、という行為全般において普遍的なことだ。逆説的には何も言っていないのと同じだ。

 

特段、やや引っかかる人がいるとしたら④だろうか。

体系的に、規則と規範の中で学ぶ方が良い、という点。

 

これは、ある一定の「型」を修めたことがある人にとっては当り前の話だが、だからこそポジショントークに見えてしまうものかもしれない。

僕らの場合は学術という型があって、それの前提土台となった学校教育というものを、ある意味「効率がいいよな」と信じている側面がある。当時からも誤解されていたが、僕らがそういうポジションにいるために、この話は学校教育に乗っかっている奴が偉いというような気色を帯びていると捉えられがちだ。

ただ、ここで言いたいのはそういうことではない。デスクにかじりついてガリ勉するのが正しいと言いたいのではない。前提として、たとえば「自然の中で体を動かす学び」にだって体系が必要だと思っている、ということだ。ボーイスカウトとか、オリエンテーリングとか、なんでもいいが。スポーツだって「競技種目」という型、体系があって初めて学びの効率がよくなると思っている。そういう話だ。

料理だって「勉強」をした方が上達が早いに決まっている。

「型破り」というのは、「型にシッカリとハマったあとで、それでも型から飛び出した分の個性」のことを言うと思っていて、型がこなせないやつはただのカタナシだ・・・という、おやじギャグだが、まあ、そういうことだ。

 

というので、④の誤解もすぐ解けたと思う。

まあ、信念をもって「型にはまらない」ことが大切だと思っている人はいるだろうから、そういう人とは、これ以上議論をする気はないが。

 

で、問題は①のところだ。ここのところの話を、しばらくぶりにしようと思う。

 

 

畢竟、人生の肯定と祝福には、自我が必要だ。それは、星のようなものだと思う。

 

 

それは今でもそうだと思っている。

そして自我の獲得のためには、人間はその中身に何かを詰めないといけない。

 

では、「中身に何かを詰め込む」ということが、一体何を意味するのか、というのが問題だ。抽象的な話ばかりしていても何の意味もない。

かといって、それがそのまま具体的な言語表現として受け入れられるわけもない。まさか頭を割ってやって、脳のシワの隙間という隙間に単語カードを差し込むというわけではあるまい。

ということで、この「中身に何かを詰め込む」という言葉は適切な翻訳を必要としていた。だのに、それが為されていなかったように思う。それは我々にとっては当たり前のことだったし、当たり前のことすぎて、特段、何も言わなかったのだろう。

 

というわけで、今回は、(きっと相方は頷首してくれるだろうというある種の身勝手な信頼を勝手に立てて、その上で)ひとりでその続きの話をしたい。

 

といっても、自分の中に何かを詰め込むという作業は、実は、そんなに難しいことでもないのだ。それは普通の人間が普通にやっていることだ。

それは、とても簡単に言えば、何かを好きになったり、その好きなものを推したり、愛したり、夢想したり、そのものがあることで人生が救われるな~と思ったりする

 

こと

 

では、

 

断じてない。

 

 

 

ぶっ飛ばすぞ、ゴミども。

 

これから授業をはじめます。

着席しなさい。

 

それか、死にてえやつだけかかってこい。

 

 

 

1. 自我とは何か

1.1. 自我を定義する

 自我とは何だろうか、ここで言う自我とは(あ?Man of la Manchaか?)。第二次性徴期に獲得される自意識、自己同一性、統合された何かを、すべてひとからげに自我と呼んでも良いのだろうが、明確に用語として違うそれらのものを同一視していいとも思わない。だから、ここでは、まずは原義的な意味での自我を取り上げてみる。

 自我(Ego)とは「主体が、自らを『私』と指し示すことができる能力」であろう。それは単なる心理的印象ではなく、「経験を統一し、時間的に持続する自己意識」という哲学的意味を持っている。

 

 ソシュールを知っている人からすれば、もうこの時点で結論は分かり得るものだろう。そういう話をしようとはしている。だが、「無限の否定」が持つ性質をベケットのナンセンス劇のように展開することでわかることもあるだろうから、少し冗長な語りを許していただきたい。

 

 さて、デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と言って、これだけの短文で「我」なるものの存在を予言したが、それはある意味で楽観主義というか、信仰心が強すぎるというか、とにかく論証にはない得ないのだとニーチェは痛烈に批判している。

 つまるところ、「思う」しか表象はないのだから、その裏側に「『思う』には主語が必要だよね、誰だろう?誰って何?わたし?」というのは過度に宗教的な推論(動作には動作主体が必要だという実存から学んだ推論が、”神のあたえたもうた”文法構造というシステムに過度に依存しているの)ではないかということである。自認である「自己同一性」と「自我」を同じにしてはいけないということはここからもわかる。

 

 カントはさらに、「我」なるものがあるとして、それはデカルトの言うような実体ではなくって、統覚として「経験を一つの意識のもとにまとめる力」の総体、認識上の、思考作用そのものでなければならないと言った――。これをデカルトが存在にさえ気づいていなかった、我々の思想の死角に潜む、ある種アプリオリな機能だと言ってもいいのだろうか、というだけの話だ。

 

 このあたりで、ほとんどの人がブラウザバックしたかもしれない。

 でも、こういう話なんだよ、今日は。

 

 自我とは、認識上の、思考作用であって、「私」を指差呼称し得る契機だ。

 その契機はアプリオリなものかもしれない。いずれにせよ、それは死角にある。だから、実践のためには、この契機としての自我を話しても仕方ない。射程を伸ばす必要がある。

 

1.2. 心理学的な「自我」理解

 

 哲学的なお遊びはいったん休もう。 カントが言うような「統一の原理」だとか、デカルト的な「実体」だとかいう話は、どうにも浮世離れしていて、というか、明日使える雑学感が皆無で、食指が動かないという手合いもいるだろう。

 なのでまあ、もう少し、手垢のついた話をしよう。

 心理学(クソ)の出番だ(カス)。

 

やったぜ。

 

 哲学において自我が「世界を認識するための統一的な視座」であるならば、心理学、とりわけ精神分析的な文脈において、自我(Ego)はもっと世知辛い「中間管理職」のような仕事をしている。自我は常に摩擦の中にある。

 フロイトを持ち出すまでもなく、我々の精神は常に分裂の危機に瀕している。 腹が減ったらすぐに飯を食いたい、ムカつく奴は殴りたい、スケベを見たら致したい、という動物的な本能衝動(エス/イド)と、「ダメよ」と上から目線で無限時間マジレスを垂れてくるクソの道徳的規範(超自我:スーパーエゴ)。 この板挟みの中で、冷や汗をかきながら現実との折り合いをつけている調整役が「自我」だ。

 自我は常に摩擦の中にある。

 

 フロイトは『自我とエス』の中で、「自我は現実原則によって支配される」とした。 要するに、快楽をむさぼりたいだけの獣ごころをなだめすかし、外界のルールと正面からは衝突しないようにハンドルを握る機能のことだ。

 

 ここにおいて、自我の定義は少し拡張される。 それは単なる「私」という認識の点ではなく、「世界と衝突する最初の境界線」として立ち現れる。 世界という硬い壁にバチボコにぶつかり、その痛覚によって初めて、「あ、ここから先は『私』ではないのねん」と知覚する。その摩擦熱が生じる場所こそが自我だ。

 結局のところ、問題となるのは常に「境界」なのだ。 精神の死角にある、アプリオリな契機そのものがイデアだというなら、我々に見えているのはプラトンの洞窟の壁に映し出された影法師に過ぎない。 我々は、世界という壁に映った自分の影を見て、ようやく「私」の輪郭をなぞることができるのである。それは「境界」に畳み込まれた「がらんどう」にすぎない。

 ここからは、そういう意味での、「自我」=「意識としての価値主体」を、それは本来なんであるか、それは(どういう意味において)「がらんどう」なのかを話していくことになる。

 

1.3. 「私」と「非私」の境界線

 

 さて、自我が境界をもつ「がらんどう」であるならば、その成立要件は「自己を他から区別すること」に他ならない。まあ、それは「境界」それ自体の定義でしかないから、自明だ。

 ハイデガーが言ったように、我々は好むと好まざるとにかかわらず、この世界に「投げ出された存在(被投性)」だ。 「おぎゃりんちょ」と生まれたその瞬間から、我々は「私」と「私以外(世界)」を切り分けるという、無限うんこゲームを時の果てまで遊ぶことを強制されている。

 

 ここで、フッサールは『イデーン』の中でこう定式化した、「意識とはつねに何かについての意識である(Bewußtsein ist immer Bewußtsein von etwas)」と。

 これは非常に重要な示唆だ。 自我というのは、真空パックの中で「我あり!」と叫んでいる自己完結的な存在ではない。 常に何かに矢印を向け、何かを志向し、対象と結びつくことによってしか存在し得ない。

 つまるところ「思う」とは他動詞だったのだ、残念だなデカルト。安村は”パンツを”履いているのだ。”履いている安村が提起される”のではない。

 

 対象(世界)との関係性の中にしか、人間存在の居場所はない。

 つまり、自我が「機能している」ということは、「がらんどう」の相互作用として意識があるということであり、意識があるということは、必ず「何かに向かっている」ということだ。そうであるならば、人間存在の意味的な単一性、あるいは「私らしさ」という独一性は、「何に意識を向けているのか」というベクトルの向きにしか見出すことはできない。

 自分が何を見ているか。何を対象として切り結んでいるか。 それこそが、自我の正体だと言っていい。この「がらんどう」にはアプリオリにそういう機構が備わっている。

 

いいのか?

 

いい。

 

とする。

 

2. 自我の獲得がなぜ人生の肯定と祝福につながるのか

2.1. 自我と世界肯定の接点・節点

 

 自我を持つとは、単なる生存維持機能の実装ではない。「自己」と「世界」を別々のものとして捉える、その不可逆な契機のことだ。

 自己は『世界でないもの』として定義され、世界は『自己でないもの』として定義されるほかない。これは言葉遊びではなく、論理的な必然だ。我々は、「私」という輪郭線を引くために、その外側にある「世界」という画用紙を必要とする。画用紙がなければ、線など引きようがない。これはすべて我々が地下牢獄の格子からしか死角の光をみることができないためである。

 したがって、世界を否定することは、自己の輪郭を形作っている鋳型そのものを破壊することと同義になる。「世界なんてクソだ」と唾を吐く行為は、そのクソによって象られている自分自身をもクソだと規定する自己紹介に他ならない。

 世界への呪詛は、そのまま自己否定へと跳ね返り、自己否定は認識世界そのものの崩壊を招く。我々はこの循環構造から逃れることはできない。

 しかるにこれは絶対矛盾的自己同一西田幾多郎)を導く。絶対に同じではない分かたれた別存在である「私」と「世界」は同一のものである。

 

 その意味において、もっとも不幸なのは、自我を持たないものだ――それは世界を持たないことと同義であるからだ!(ニーチェがこういうときよくエクスクラメーションマークを使うのが好きで、僕も真似してみた。)

 

 セーレン・キェルケゴールは『死に至る病』において、絶望にはいくつかの形態があるとしたが、その中でも「自己をもっていることを自覚していない場合」もまた絶望であると喝破した。これは、いわば精神的な無感覚状態だ。世界と自己の切断が行われていないがゆえに、苦悩もない代わりに歓喜もない。ただ環境に流され、世界と未分化なまま漂うだけの存在。それは平和に見えるかもしれないが、人間としての実存が欠落しているという点において、深い絶望の淵にある。世界を持たない者は、人生を肯定することも、祝福することもできないのだ。

 逆に言えば、自我が確立され、世界と自己が鮮烈に切り離されているならば、そこには肯定の回路が開かれる可能性がある。自我が「世界肯定」の中でしか定義できないのであれば、その美しい世界、あるいは過酷だが意味のある世界を認識している「自我」というシステムそのものもまた、肯定されるべき対象となり得るからだ。

 世界が素晴らしいものであると認識できるならば、それを観測しているレンズ(自我)もまた、その素晴らしさを構成する一部として祝福される。あるいは、その逆もまた然りであろう。自己を真に肯定できる者は、その自己を生かしめている土壌としての世界を、無下に扱うことはできないはずだ。

 

 畢竟、人生の肯定と祝福には、自我が必要だ。

 それは「自分大好き」というナルシシズムの話ではない。世界と対峙し、その摩擦に耐え、独立した観測者として立つこと。その孤独な直立不動の姿勢だけが、逆説的に世界を受け入れ、祝福する準備となり得るのである。

 たぶん!

 

2.2. 孤独と「仕事」の価値

 

 自我をひとたび持てば、その人は満たされた隔壁の中で、完璧に「孤独」となる。これはセンチメンタリズムではない。構造的な事実だ。

 世界と自我はすでに分かたれてしまった。切り分けた果実の片方のように、あるいはへその緒を切られた母と子のように、二度とひとつに戻ることはない。人間が他者と完全に融合することなどあり得ないし、世界と一体化して安らぐこともできない(それを目指すのは、もはや神秘主義か死への衝動だ)。我々は皮膚という境界線によって、外界から残酷なまでに切り刻まれて遮断されている。

 

 だからこそ、ショーペンハウアーは「仕事」の価値を重んじた。彼が言及したのは、日銭を稼ぐための労役や、一時の名声や拍手喝采を得るためのパフォーマンスではない。遥か彼方の未来へ向けて、夜空の星のように静かに、しかし永遠に残っていくような「仕事」のことだ。

 彼は文学や詩歌、哲学や科学の探求を(そこに彼なりの順列をつけこそすれ)そのような高貴な仕事として認めた。だが、現代を生きる我々において、それは何も高尚な活動に限ったことではない、と僕は考える。そもそも自己とは世界なのだから、世界の要素はどれも本来「仕事」足り得るのだ、ということだ。

 とどのつまり、結局、「ガワ」などどうでもよいのではないか。ショーペンハウアー自身、ヘーゲルが称賛されたことに対し、上っ面の社会的評価などクソくらえだと唾棄していたのだから。

 

 上っ面などどうでもよい、世界の表象はどれを切り取っても「仕事になり得る」だろうが、それを満足に「仕事」とするためには、それに「中身」がなければ話にならぬ。

 たとえそれが釣りであろうと、散歩であろうと、あるいはただの石拾いであろうと構わない。それは「仕事」である限りにおいて「仕事」である。それを、メソポタミアの古代人が粘土板に楔形文字を刻み込んだときのような、切実さと密度を持って、祈りの中に位置づけて行えるかどうかが問題なのだ。

 そのような強度の伴わない行為は、ただの暇つぶしか、逃避に過ぎない。

 仮に社会から報酬をもらおうとも、それは「仕事」足り得ないのだ。

 

 これは、卵の殻を割らなければ、中にどんな黄身があるか(あるいは存在そのものがあり得るのか)はわからない、ということに似ている。我々は、他人の卵の殻を割って中身を確認することはできない。他人の頭を物理的に割るわけにはいかないし、精神的に割って入ろうとしても、「誤った無限回の統合」によって崩壊を起こす(似た話を最近した。それを読め)。

 他人の殻の中にある宇宙を、完全に理解することなど永遠に不可能なのだ。だとするならば、我々に残された道は一つしかない。常に我々は境界の内側にある「自己」という内殻だけに集中し、その閉ざされた孤独な空間の中で、誰に見せるためでもなく、ただひたすらに自身の「黄身」を練り上げていくこと。

 その孤独な作業だけが、唯一、自我という空虚な器に質量を与えるのである。そうしなければ、「がらんどう」は「がらんどう」のままである。

 虚空には、中身がなければ「意味」が生まれない。

 

2.3. 肯定の力としての「創造」

 

 本来的な意味で中身を与えられた自我を持つ者にとって「創造」とは、特別な偉業ではなく、呼吸と同じくらい自然な代謝活動である。

 だが、ここで誤解してはならないのは、その創造が決して「世界の否定」であってはならないという点だ。往々にして、人は現実の過酷さに耐えかね、そこから逃避するために自分だけの城を築こうとする。しかし、世界を遮断し、拒絶するために行われる「創造」は、実のところ創造の名を借りた引きこもりに過ぎない。それはただのシェルターであり、自我の拡張ではなく、自我の閉塞であり、それは、そのまま自我の自壊でもある。

 

 真に肯定的な創造とは、むしろ世界への侵襲であり、それはとりもなおさず自己への革命である。肝要なのは、「自己と世界は決定的に違う」という断絶を前提としながらも、その「自己の創造性」をもってして、「世界そのもののあり方を定義する」ことだ。

 自分が世界から切り離されていることを嘆くのではなく、その切り離された個としての特異性を手掛かりに、世界という巨大なシステムに介入する(曼荼羅として拡張展開された自己そのものへと挑む)。自分の内的な論理や美意識を、外的な世界に溶かし込み、世界の一部を自分の色で定義する。それが「中身を詰める」という行為の実践的な側面である。

 これは要するに、西田幾多郎の哲学に通底する話だ。西田は、個物が世界によって限定されると同時に、個物が働きかけることによって世界もまた形成されるという相互限定的な関係を説いた。世界が私を作り、私が世界を作る、というのはチープな翻訳だろうか。どちらかといえば、「世界は私であり、私は世界である」だろうか。

 

 ただ単に知識を詰め込むことでも、消費財をコレクションすることでもない。内面化した世界を、自らの炉で溶かし、鋳造し直し、再び世界へと還流させる。その「作業」のサイクルの中にしか、自我の健全な居場所はない。

 そう、自我とは固定された「物」ではなく、虚空の宙(ソラ)を回転し駆動続ける「機構」なのである。

 

 ――それは、はじめから星である。

 

3. 中身を詰めるとは何か

3.1. 露払い(頑迷を解こう)

 

 「中身を詰める」という言葉を聞いて、何かの資格試験の勉強だとか、あるいはトリビアの泉みたいに無駄知識を脳みそに詰め込むことだと思ったなら、今すぐその思考をドブに捨てて、ついでに自分もドブ泳ぎをして、いったんそのまま沈んでいって、帰ってこないでほしい。

 それは「詰める」のではない。ただの「情報の不法投棄」に過ぎない。また、好きなアニメキャラのプロフィールを暗記してニヤニヤすることでもない。それはそれで結構だが、今回の話においては何の意味もなさない。残念ながら。僕もよくやるが!

 

 ここで言う「中身を詰める」とは、「一度自己から切り離した『世界』という体系を、もう一度、自らの腹の内に再構築する作業」のことだ。

 思い出してほしい。我々は自我を獲得する際、世界と自己を切り分けた。あるいは、切り刻まれた。その時、多くの未熟な精神(ミニマム精神おちびちゃんたち)は、こう考える。「自分は特別で複雑な存在だが、世界は単純で退屈なものだ」と。

 世界を矮小化し、自己を極大化する。世界の解像度が低いまま身体だけ大人になった連中は、この全能感にしがみついたまま、「世界は俺を理解していない」などと寝言をほざく。だが、それは単に、おちびちゃんの目がちいちゃーくて、でかすぎる世界が見えていないだけだ。

 

バカでかい 帽子の君が
でかいマリーゴールドに似てる
あれはそれがデカい夏のこと
バカでかいと笑えた クソでか恋

 

ドでかマリーゴールド/でかあいみょん

 

 真に創造的であろうと欲するならば、一度切り離して「他者」としたその世界を、ふたたび己の口から飲み込み、腹の中で消化し直さなければならない。それは不快で、熱く、身を焼くような作業だ。

 複雑怪奇で、理不尽で、広大な世界という体系を、自分の内臓としてインストールし直すこと。それが「中身」だ。星の駆動機構を、無理やり拡張するということであって、がんばれば星の命の終わりまでに恒星になれるかもしれない。重力崩壊には気を付けたほうがいいが。

 

 なぜそんな面倒なことをするのか?もう簡単な足し算だ。「世界の中にいる自己」の中に、「参照されるべき世界」が入っていないのであれば、その自己が叫ぶ「自我」の正当性は、一体誰が保証してくれるというのか。内なる世界地図を持たぬ者が、外なる世界を歩けるはずがない。

 地図を持たずに遭難しているのを「孤独な冒険」とは呼ばない。それはただの迷子で、まず、ほとんどの場合、意味のないものである。

 

3.2. 世界の内面化作業と、創造的世界の外面化作業

 

 何度も繰り返すが、「中身を詰める」とは、外的世界を自分の内に取り込み、そこに独自の「意味の体系」を築き上げることだった。これはとても能動的で、暴力的なまでに主観的な、「世界を自己の内部言語へ翻訳する」という作業だ。

 このとき、自我は外界をありのままに映し出すだけの、行儀のよい「鏡」であってはならない。投げ込まれたスクラップ(世界)をドロドロに溶かし、まったく別の合金へと作り変えるための、高熱の「炉」になる必要がある。それは星の内核である。その凄まじい熱と圧力による創造をもって、はじめて「炉心」は「中身」を吐き出すのだ。

 

 世界が十分に相互作用され、定義されなおしたとき、そこには「創造的に世界を翻案する自我」と、同時に「創造的翻案者そのものとしての世界」が立ち現れる。自我は世界の要素なのだから、自我が創造的であるのならば、世界もまた創造的であるはずだ。これは堂々巡りの議論だが、どうにかしてその円環の中に入り込まなければならない。  つまりこれは、西田幾多郎の言う【創造的世界の作業的要素である】ことの必要性、要件定義についての話である。

 

個物は何処までも個物として創造的であり、世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。

 

西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』

 

 では、どうすればその「作業的要素」になれるのか。

 ここで、キェルケゴールの『死に至る病』における絶望の三形態が、逆説的なヒントになる。彼は絶望を以下の三つに分けた。

 

 1.絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。
 2.絶望して、自己自身であろうと欲しない場合(弱さの絶望)。
 3.絶望して、自己自身であろうと欲する場合(反抗の絶望)。

 

 重要なのはここからだ。西田の言う「創造的世界」とは、この三つの絶望の形態を、すべて「反転」させた地点にのみ出現する。

 世界と自我が「分かれていない(1)」か、世界から自我が「離れようとする(2)」か、自我から「世界を離そうとする(3)」か。これらはいずれも、世界と自己の健全な代謝不全を起こしている。だから絶望なのだ。

 この三つの病理をすべて克服し、裏返したとき――すなわち、自己を自覚し、自己を引き受け、かつ世界との相互作用の中に自己を投げ出したとき――初めて我々は「世界の作業要素」としての自己を規定し得る。

 絶望の三形態の完全な逆転、その一点においてのみ、世界は創造され、我々は世界を創造することになる。それが完全に――あるいは部分的にでも、できている人間がいるとは、あまり断言できないが。

 

3.3. 体系の受肉がゆえに、創造的要素足り得る

 

 何かを自己の炉心に溶かし、ドロドロの鉄水にしてから新たなものを鋳造して吐き出すためには、やはり「体系」――すなわち様々なものごとの「型」を学ばねばならない。これは、精神論ではない。物理法則に近い。

 栄養学で言うところの、必須アミノ酸のようなものだと思えばいい。体を構成するためには、体内で合成できないアミノ酸をすべて外部から摂取し、揃えなければならない。どれか一つでも欠ければ、タンパク質の合成はそこでストップする(アミノ酸の桶の理論だ)。

 精神の「中身」も同じだ。世界という巨大な他者を解釈し、再構築するためには、歴史が積み上げてきた「体系」という必須アミノ酸を、好き嫌いせずにすべてぶちこまねばならない。偏食のクソガキが、強靭な精神の肉体を得るはずがないのだ。

 

 全くの無体系から何かを吐き出すことは、まあ、あってもよいが、それは「創造」ではない。単なる「エラー」か、あるいは「奇跡」だ。なぜならば、体系を持たない出力は、他者(世界)との共通言語を持たず、論理化し得る相互作用(インタラクション)を引き起こせないからだ。世界に干渉し、世界を書き換えるコードになっていないデータをばら撒いても、それは世界のバグとして処理されるか、神話となる。

 

 体系を外部の知識としてではなく、自らの血肉として内面化し、それが胎の内で脈動するに至った時――すなわち「受肉(Incarnation)」した時、初めて人間は「世界に対する作業的要素」としての自己を定義することができる。

 それは、過去という莫大な死体(歴史)に片足を突っ込んで立ち、未来という未確定な虚空を睨みつけながら、今という瞬間において、狂ったように回転する歯車になる、ということに近い。その回転の摩擦熱こそが、生きているという実感を唯一提起する。

 

 災厄の堰、嵐の境界で歯を食いしばって立つことだ。そこにだけ「自我」がある。

 

 外界から遮断され、なにものにも侵されず、無菌室で培養された「純粋な自己」や「純粋精神」などというものは、この世にはあり得ない。もしあったとしても、それは免疫を持たないひ弱な胎児であり、外に出た瞬間に死ぬ運命にある。

 木っ端みじんに切り刻まれ、体系に押しつぶされ、なおそれらに食らいついて回転し続ける何かだけが、人間存在として証明され得るのだ。

 

4. なぜ何かを愛しても何も得られないのか

4.1. 他者依存の充足には果てが無い

 

 「推し活」に限ったことでもない。古今東西、人間の「他者に祈って救われる」という病的な活動は、社会が病理にとらわれるたび表象化する。ニーチェがさんざん言っても、人類はそれをやめられない。

 こういった行為は、一見すると熱心に自分の中に「好き」や「情熱」を詰め込んでいるように見えるかもしれない。だが、その甘美な魅力に決して騙されてはいけない。あれは実際には、空っぽの自己を直視する恐怖から逃れるために、外的対象に自己を丸投げしているに過ぎない。つまり、何かを自分に取り入れているのではなく、自分を切り裂いて何かの器に注ぎ込もうとしているのだ。

 これは緩慢な自殺行為である。

 

 それは「自我の厚み」を形成する栄養素にはなり得ない。他者の圧倒的な価値や輝きを借用し、それを身に纏うことで、あたかも自分自身が高尚な存在になったかのように錯覚する。それは自我の構築ではなく、単なる「価値の賃貸契約」だ。

 そこにあるのは、自らの足で立つことの放棄であり、「素晴らしいあの人を推している私」という、依存によってしか成立しない仮初めの自己定義である。結局のところ、それは理想の姿を眼前に置くことによって、片時、未完成で不格好な自己を忘却しようとする行為に他ならない。

 すなわち、キェルケゴールの言う「自己自身であろうと欲しない絶望」の、現代における最もポピュラーな変種である。自分という重荷を背負うことから逃げ出し、他者の物語の中に埋没して「自分を無くす」ことを願う。それを彼らは「愛」や「救済」と呼ぶかもしれないが、実存哲学はそれを断固として「絶望」と呼ぶのだ。

 残念だったね(笑)。

 

4.2. 作業的要素の欠如

 

 真の「中身を詰める」とは、世界を内面化し、それを血と汗と涙の混合物によって再構築する「体系化」の作業であると定義した。それは文字通り、身を削るような苦痛と、創造の熱を伴うダイナミズムだ。

 翻って、他者依存の世界とは何か。

 それは、「わかってもらう」「同調する」「尊いと叫ぶ」という、極めて受動的で、安直で、かつ一方的な「消費」の関係に過ぎない。にもかかわらず、その行為をSNSで喧伝し、自己肯定の武器として用いようとする緩慢なる自殺志願者の多いことよ。

 

 ここにあるのは「共感」という名の、精神的マスターベーション、あるいはその契約的愛人関係にすぎない。

 それは鏡の間で踊っているに等しい。自分が見たいものだけを見て、聞きたい言葉だけを聞く。そこには、他者という絶対的な「異物」との衝突がない。衝突がなければ、摩擦熱も生まれない。摩擦がなければ、変容も起きない。苦しくない。生み出そうとする力が働かない。

 「与えられたものが【自分に刺さる】=あらかじめそこにある穴に収まる場合」だけ、それが自分にとって尊いものであるとのたまうことは、「世界の創造化」とは全く異なるものである。

 そこには能動的な創造の苦しみも、体系構築のたうち回りもなく、ただクレジットカードを切ってドーパミンを垂れ流す。そのプロセスを経て、自我が形成されるわけがないことは、もはやくどくど説明する必要がないだろうから、しない。

 君たちは世界に対して働きかけず、世界から働きかけられるだけの存在。それも、自分という穴にはまる鍵が、どれか一本はだれかが投げてくれるだろう時代に生きているから、口をあけて待っていて、鍵がはまったとたんに、その鍵穴以外の自分の構成要素を邪魔だから、物語化に合わないからと切り刻んでは捨てていくだけの、哀れでみじめな家畜にすぎない。

 

4.3. 無限の提供は、円環が閉じる場合にのみ肯定されるが、普通死ぬ

 

 もし、「他者依存の充足」が真に成立する世界があるとするならば、それは以下の条件のいずれかが満たされた時だけだ。

 一つ、他者とのつながりが永遠に抜けも漏れもなく、エントロピーの増大を無視して構築され続ける場合。二つ、君たちが無限大の出力を持ち、外部からの供給なしに永久機関として回転し続けられる場合。

 私はここで、それが不可能であるという、当たり前の物理法則を言っている。

 

 他者は去る。コンテンツは終わる。推しは結婚するし、引退するし、あるいは君たちの期待を裏切って人間的な側面を露呈する。漫画はつまらなくなるし、アニメは思ってた演出と違うことをするし、――ていうか、その前に君が飽きるだろ。イナゴし続けても、今度は「何も一つのものを好きじゃない自分」というダメージを負うことになるのだし。そもそも、「そんなことばかりしていて中身がない自分」みたいなものって、やっぱり自覚的に苦しいだろう。

 そうやって「正気に戻った」その時、外部に接続コードを繋いで生命維持をしていた君たちは、当然、死ぬ。あるいは、供給が続く限り運よく生き延びられたとしても、それは「管に繋がれた脳」が見ている幸福な夢と何が違うのか。円環が閉じている世界、すなわち外部との摩擦がなく、自己完結した(ように見える)系は、熱力学的には「死」の状態と同じだ。

 我々は万能者ではない。神でもないし、永久機関でもない。欠落を抱え、寿命を持ち、限られたリソースしか持たない、哀れで不完全な有機物で、それが生命体だ。

 我々は、今いるこの場所、このどうしようもない現実という座標軸の上で、咲くしかないのだ。泥にまみれ、クソのような制約の中で、それでも自分の根を張り、自分の養分を吸い上げ、自分の花を咲かせる。

 

 地を這って、泥をすすることしか、人生ではないよ。

 そのほかは全部嘘だ。

 

5.おわりに

 

 別に、「何も好きになってはいけない」ということを言っているのではない。そういうことを言っている哲学者は、ちょっと病んでいる。病んでいるし、その虚無主義もまた、絶望の形態にすぎないのだ。

 実際のところ、恋人でも、家族でも、ペットでも、趣味でも、自分の中にそういった「何か」があることは、それはそれなりに「何か」である。

 ただそれは「何か」であって、好ましい何かであっても、それが「自分」そのものを規定する存在証明の根源規定であってはならない。それは決して「中身」ではない。それは「中身」でもなんでもなくて、ただの鍵である。それも、自分という忸怩たる身に空いた様々な穴に、偶然ぴったりはまっただけの鍵である。鍵を大切にしてもかまわないが、鍵が開けるべき箱の中身に結局何もなければ、それは意味がない。

 

 誰かを愛することは、何かを愛することは、自我の作用的要素であってよい。それによって「愛される世界」が自我を規定するのであれば、それもひとつの創造化作用である。だが、愛される世界に自己が存在していないのであれば、つまり、「自己の(世界の)創造化のために何かについて意識する」のでなければ、それは自殺である。

 「これを好きでいることで、自分の人生が満たされる」は一見この要件を満たしたように見えるところに注意しなければならない。それは、生の駆動が、機構として回転していないからダメだ、と言った。世界の中に自己を意味付けたとき、その自己が世界を代表しなければ、その「満たされた人生」は虚構にすぎない。

 

 人生が祝福されていなければならないわけでもないが、されていたほうが良い。されていたほうが良いのは、それが、人間という存在の遠い遠い滅びの旅を唯一慰めるからで、これは僕の願いに過ぎない。ただ、そりゃそうだろ、と思う。

 

 人生を祝福するのは、身売りでもなければ、緩慢な自殺行為でもない。人生を肯定し、祝福し、駆動するために必要なのは、自我である。自我の獲得には、「中身」――逆説的にそれは世界の構築・創造化そのものである――が必要なのだ。

 この身は、初めから星であり、星は天体に対して常に孤独であり、その回転は、熱的死へ向けて炉を燃やすことでしか「説明」ができないのだ。その炉心の点火をして、「仕事」であると呼べる作業が定義される。

 

  であればこそ、これは今度こそ当然の帰結だが、あなたにとって「勉強」が畢竟そういう「仕事」でないのであれば、勉強でさえ、中身を詰めるための炉心の点火にはなり得ないのである。それは世界との相互作用が生まれるはじめの地点が間違っていたということだ。

 机にかじりつけばいいというのでもない。

 

 

 

 ・・・というようなことを、以前は書かなかった。というか、書く必要がなかった。

 自明だと思っていたからだ。

 

 その点は、さすがに、反省している。

 あと、僕も全然まだまだ、完璧にできてなんかいないから、そこは偉そうだな。

 

 ともかく、結論は凡庸だ。

 僕はどれだけ擦り減っても、まだ中身が欲しい。だから「勉強」をする。

 ――これは、つまるところ、それだけのことだ。

 

(おしり)

独白・随筆・推敲のなく

 

週末、数年ぶりに『serial experiments lain』に触れた。

 

アニメーション作品の方は「つじつまを合わせようとしすぎている」か、さもなくば「良い子ちゃんの終わり方をしている」ので僕の趣味でなくて、ゲーム版の方が気分良く話が入ってくる点からも、僕にとって『serial experiments lain』(以下lain)はゲーム版のことを指す。

lainにとっては、どちらが原作というようなことはなくて、雑誌企画・アニメ・ゲームが全て位相の異なる「玲音」の偏在性を描こうとしていたのだが、僕にとっては最も思想が色濃く反映されていたと考え得るゲーム版を取り沙汰したいということだ。

まあ、そういうことはいい。

lainというのがどんな作品で、どんなものかをここでイチから説明するようなつもりは無い。

外部リンクなんかを貼り付けて「これ読んどいてくれよ」と導くのも考えてみたが、やはりというかなんというか、「誰にでもわかりやすく説明したもの」という性質の物が持つ暴力的な切り口が、魂の外殻のようなものを捉え尽くすことはあり得ないのであってみれば、『鬱ゲー』だの『怪作』だのって言葉でそれを評価されるのも鬱陶しいと感じるべきだろうし。

だから「アンテナを張っていなければまるで意味が無い」という手合いのものとして、それはそういうものなのだから、ここにこのままの形で加工せずに置いてあるものだけで何かを取り上げればいいし、全くブラウザバックでも良い。

誰に何をしてもらうでもなく、させたいからでもなく、ただ僕はこれを「書くということ」それ自体を趣味として書いているのだ。評判に左右されるようなものは無粋だ。

 

さて、

「精神の接続」というものが本来的に持つ意味を取り上げてみると、それは性的連帯を介在しなければまるで意味が分からないものである。

性的連帯はブロマンスにおいてもロマンスにおいても重要であり、あるいはそうでなくても、ある種の親子関係というものがエディプス・コンプレックスによって連帯されることを考えると(または破綻した関係にしばしばみられる父母から子への性的な倒錯を客観的に観察しても)、性というものを中枢にとらえなければ本来まったく意味が分からないものである。

と、少なくとも90年代においては真面目に考えられていた。

 

となると、玲音がある種の汎化自我側面(「すべての場所とすべての時間のすべての人」にとってのスーパーエゴ)に成り得たのは、NAVIというインターネットインフラストラクチャの「せい」でもなければワイヤードの「せい」でもない。それは装置として「そういうことを可能にした」ものが「そうであった」ということ以上の意味はない。

たとえばそんなものが無くとも、人間の認知機能の接続をトランス状態によって為し得た任意のシャーマニズムにおいては、楽器や香、そしてドラッグがワイヤードということになるだろう。

玲音や柊子の末路を見るに明らかなように、最後の跳躍は最終的には肉体性の破却によってのみ為し得たことなのだから、人間が意識として等しく偏在化するために必要なものは肉体的な接触の破却による入出力の同一性担保、すなわち「プログラム化された応答そのものが人間である」という統合である。

そしてこれは肉体性の亡失によって「のみ」トリガーする。

 

「統合」それ自体とは本来、自己同一性の獲得のことであろう。幼少期から第二次性徴へと向かう肉体が自然と獲得する自己同一性――一説によると、解離性こそが人間の本質であって、同一性の獲得とはドミナントの確立に過ぎないという話もあるが、そのようなことを暗に含んだ話である――ここに、他者が入り込んでしまうことの恐怖が、lainにはある。

自己同一性の保証機関こそが自我だが、その自我の構成要件に、いともたやすく他者が入り込むことができてしまうことが、ある種のオカルティズム化された精神分析が陥りがちな失敗だろう。カウンセラーがクライアントと接続されてしまう、というのは、良くある話なのだという。ここも、カウンセラーがクライアントとの間に設ける壁、防壁としての「身体非接触」が逆説的にそれを亡失させる危険性を孕んでいるということではないのか。(だからといってクランケと寝ろとは言わない。それはそれで別な依存の方向に話が転がり、危険だ)

 

lainにおいて繰り返し描かれていたのは、玲音が自己の疾患に起因する機能不全家族のせいで、第二次性徴期に正確に性欲というものを学習できなかったことである。このことが玲音に最終的な破綻を運命づけていく。

つまり玲音は人間存在というものがバーチャルなまま、人間というものを理解し得る万能性を獲得していくのだ。そうして見える世界には魂や情報だけの存在(として認知されている)他者他人、共鳴と肉体の亡失によって可視化されたデジタル化された人間が、無尽蔵にうごめいている。玲音の「統合」に際してそれらが人格の一構成要素として取り込まれていくのは当然のことである。当然、玲音は「自分を流し込む」方法も理解していくことになる。

 

――人間と人間が肌で触れあうことによってのみ為される情報の交換、交感というものが、ある意味では残念ながらグロテスクなままこの星には残されていて、それ以上のものはない。それは「皮膚の壁をすり抜けてひとつになることはできない」という断絶の絶望であると共に、偏在や無尽蔵の誤った他者との統合を許さない身体のセキュリティ機構ということでもある。

であればこそ、西洋的には身体は精神や魂の乗り物にすぎないと考えるわけだが、その思想は無限の接続と統合を可能にしてしまう恐ろしいものではないのか。

 

玲音は拳銃自殺の前、震えていた。明らかに死を恐れており、肉体の抹消にあらがおうとしていた。だが結局は、自己の胎の内側で育てた「レイン」にあらがえず、その肉体としての生を終えることになった。あの時目の前で肉体が消滅したことを、僕は意味のない自惚れと感じたから、「レイン」は僕の脳内には住んでいない。

それを亡失したとき、した人の脳内には、今も「レイン」が住んでいるだろう。

 

解離した自我の統合というと、『ゼノギアス』もそういう話だから、簡単には触れなければならない。あれは、フェイとエレハイムの性交渉が明確に描かれている。

それ以上の説明は必要ないと思うが。

したがってフェイは人格統合に成功するし、玲音は人格統合に失敗する(というか、無限に成功し続けてしまう)し、柊子はセックスを失ったとたん、瞬く間に大崩壊する。

 

誓って言うが、「思春期にセックスしろ」と言っているのでもなければ、「ゼノギアスの方が優れている」と言っているのでもない。

問題は、「あらゆる意味で性的な意味での身体性」を介在しなければ、自我統合は成し得ないということである。この意味で、自我・自己同一性・精神鑑定の要素を含むあらゆる創作物に性、特に肉体性の要素がいやおうなしに入り込むのは当然である(ものすごく無理やりオミットしたFinal Fantasy VIIというのもあるが、あれもまあ、「作中で言われてないだけ」で、そういうことである)。というより、入っていなければ、それはある意味ペテンというか、lainに対して誠実ではない。

まあいつまでも90年代ではないのだから、そんなこと気にしなくてもいいんだけどね。

 

まとめると、人間存在同士が「ちいさな2つのかけら」「比翼連理」になるには、「欠落」そのものが持つ意味を理解しなければならないという話だ。

ゼノギアスは身体性の限界と、肉体が壁となるどうしようもない不整合、欠けたまま生きなければならない人間の業(原罪)と輪廻を、荒漠な世界に映し出し、そこに甘美な孤独と性愛の美しさを見出す物語だった(ゆえにこの作品で母親と恋人と妻と子はすべて同じ要素を持っている。男と女という2面性だけに集中している。)

男と女が比翼になるには誤った統合を正さねばならないので、「自己同一」に巻き込んでいた父親を「父殺し」によって分離して、それによって過去生として再統合する。まあそんなところだろう。

 

lainはそれを拒絶した者(知らなかった者)が、あらゆる箇所にあらゆる時間にあらゆる人に接続を試みて、それがことごとく成功してしまう(自ら縛りを設けなければ人間は存在が雲散霧消するのだというような・・・)話だった。男と女という二元性をことごとく廃絶し、最終的に女同士が肉体を排除した世界で統合(誤った、いや、ある意味で本人たちにとって正しい――)されるということが、この作品では明らかに起こっている。

 

やはり自己同一と精神の接続・連帯の根幹には性的連帯があるべきだろう、あるいはその欠損が。

欠損とはただ「無い」のではない。「あったはず、の、あるべきもの」であるのだ。

 

という話をつらつら書いてきて、思うのだが。

このあたりのお話が、近年、あまりにもインスタントな「鬱」「エロ」「病み」そういうものに堕してはいないだろうか。馬鹿にはわからないくらいの本物の話を出すのが、お前らの仕事ではないのか?お前らが馬鹿でどうするんだ。

と、思わなくもない。

 

それもまた僕のもつ暴力性で、

ただ、

肉体を知っているオジサンの僕から出るそれは、幾分互いに痛い。

格物窮理とは世界最強の夢日記。

 

前人未踏、万古不易、清音幽韻にして冠前絶後の夢日記

 

あなたの街にも夢日記

一家に一台、夢日記

流れる川に熊のくるぶしの毛を流した夜は、温かいミルクティーに限るのだ。

さながら、空(くう)にコマンドを打ち、地球のシェルを動かすがごとく。

 

「地球がこの日を待っていた」、この言に障りはないだろう。

 

05/30 太陽に吠えるってそういう意味ではない。

ハゲ散らかしたジジイが、太陽に向かって吠えていた。鳴き声は、ちょうどウルトラ怪獣に似ていて、変に甲高い音だった。僕は彼が天使であることを理解していた(天使についての複雑な定義は、過去の夢日記を参照してほしい)ので、少し気まずかったが、話しかけないわけにはいかないという「感じ」を持っていた。

往々にして、天使というものは回避することができない。そしてまた、往々にして「良いこと」を持ってこないものだ。まあ、それはいい。僕は人生からいいものだけを取り出したくはないと思っている。天使に話しかけるが、天使は太陽に向かって吠えるのが忙しいらしく、僕の声には反応しない。こういうとき、「聞こえていない」のか、「聞こえているけど無視している」のかが判別できないというのが、人間関係の――失礼、人間・天使間の、最も重大な問題なのだと思う。

というか、ウルトラ怪獣の鳴き声ってなんであんなに高いのだろう。ゴジラもわりと高い。だが現実に考えて数十メートルの生物から発せられる音が甲高いというのは違和感がある。陸生生物に限らず、地球生物のだいたいのトレンドとして鳴き声の周波数は全重に反比例する。――ただ、ああいうアンギャ~~!って嘘みたいな声を聴かないと、どうも怪獣ものを観た気がしない、というアンビバレントな情感というものがある。

まあ、人間はイストワール=【歴史(ヒストリー)と物語(ストーリー)】を分離できない生き物だから、それでよいのかもしれない。それにしても、なぜこのハゲたジジイ――失礼、天使は、太陽を睨んで吠えているのだろうか。

ハゲは太陽を憎んでいるという、僕の浅薄な先入観が反映されているのだとしたら、僕に怪獣の鳴き声を議論する資格はない。

 

来たな。こういう「分厚い」のが。

こういう分厚い夢をひとつ見ることは、続く継続した夢の世界を示唆する。

僕の夢日記が再び時を刻み始めた――。

石破天驚の夢物語が、いま始まる――そんな予兆を感じた朝は雨だった。

 

05/31 AIを教えてやりたいんだが口が臭い。

なめんなよ。

石破天驚の物語はどこに行ったのでしょう?――だが、ないものをいつまでも求めていても意味はない。

地元の、ボーイスカウトをずっと一緒にやっていた旧友――言葉の定義など人によって違うものだが、僕が日常会話で「ダチ」という薄恥ずかしい言葉を使うときには、おおむね、この属性の人間を指している。すべてのことには例外があるものの――に、AI技術というものがなんであるか、というのを教えてやる、という夢だった。

まあ、ここにある種の醜悪な知のエスノセントリズムだとか、知性のコロニアリズムだとかを垣間見ることは不可能ではないのだが、少なくともこの夢では本題にはならなかった。AI技術とかっていうと実装の話だとか、使い方の話だとかばかり取り沙汰されるのは僕は結構うんざりしているので、基礎的な数理を説明しようという会が持たれていた。まあ、そんなもの現実に「気になるから教えて」って言うやつがいるわけがないし、いたとしても僕は僕より詳しい専門家に話を投げるだろうから、こんなこと自体が「夢すぎる」のだが。

だが、ここは夢なので、そういうこともある。しかもみんなやる気満々だ。Tai-Danaeのアプローチがソシュールの言語空間概念に近いというような話を真面目に聞いていた。だがそれもこの夢の主題ではない。ひとりが、あまりにも真面目過ぎた。ダチのひとりが、やたらとこっちに前のめりだった。椅子に座っていられず、どんどんこちらに接近した。隣に立っていた。端的に言って、顔の距離が近かった。鼻息も荒かったが、何より口が死ぬほど臭かった。吐きそうだった。甘臭苦い匂いがした。なんなんだあれ。いままで嗅いだことがない悪臭だ。たとえるなら、ケーキ屋の砂糖くさい空間の中に排水溝のヘドロをぶちまけたあと、生の魚の内臓だけを口いっぱいほおばって食べたような匂いだった。

まだ、生成AIは人間には勝てない。こんなドブケーキ屋さんの内臓臭を生成できる口を、彼らは持たないのだから。

 

06/01 ゼッテリアでぜってーリア王を読むやつ。

ゼッテリアに初めてやって来た僕。ゼッテリアに来たことがない、というのは現実ともリンクしていたので、夢である自覚は全くない。すぐ行けるところにいくらでもあるんだが、何か間が悪くて行ったことがない。

ここからの描写は全て夢なので許してほしいのだが、ゼッテリアに入ると、僕はまず身ぐるみを剥がされ、人間ドック同様の検診衣を着せられた。どうやら危険物の持ち込みに加え、健康状態がよろしくない場合にはゼッテリアのチーズバーガーは食べられないということだった。なるほど、それはしかたないだろう。

案の定僕は、「胃が弱いですね」という診察結果を受け取り、ゼッテリアのチーズバーガーはフルサイズ食べさせてもらえないよ、ということになってしまった。ハーフサイズならなんとかいいですよ、と、看護師にさげすむように言われてしまった。僕に渡されたチケットは薄緑色で、どうやらそれが「ハーフサイズがギリのやつ」、ということらしい。周りのみんなは金色のチケットを持っている。ああ、恥ずかしい。来るんじゃなかった。だいたい、僕だけ一人で来ていて、みんなは仲間内で写真を取ったりしている。やだなあ。

カウンターに座ってしばらくすると、ゼッテリアのハーフサイズのチーズバーガーが運ばれてきた。ハーフサイズは、だいたい半径4mくらいの大きさで、チーズの厚みは半分の40センチにしてくれていた。これはありがたい。だが僕は1リットルくらい食べたところでおなかを壊した。たぶん、のこり5万リットルくらい残っている(計算はしていないが、直感的に5万リットルくらいだと思う。だいたい合ってるはずだ)

残したので、賠償金を払う必要があった。200万円。しかたない。

 

割と手にも足にも負えない夢なのでちゃんと説明する。

ゼッテリアに行ったことがない、という僕の認識ひとつからこの夢が生まれた。僕は基本的に前向きな人間なので、未知があれば解き明かしたいし、不知があれば学びたいと常日頃から思っている。いつも新しい情報に飢えていて、本を読みたい、勉強をしたいと思っている。それはファストフードだろうが同じで、基本的に食べてみたい、行ってみたいという欲は尽きることがない。だが、僕はそれだけ前向きな人間であると同時に、同じくらい地獄のように後ろ向きな人間でもある。どうせ分かりっこないと思いながら哲学書を読むし、どうせ解けっこないと思いながら勉強をしている。どうせ生き残れるわけがないと思いながら研究を続けているのも、根っこは同じだ。

まわりからみたら鬱陶しいだろうか。「そうはいっても人よりは出来るじゃないか」と言われたこともある。だが、この不釣り合いな認知が僕そのものであることに、誰も疑問を差し込む余地はないように思うのだ。

僕は行ったことのないゼッテリアに「行きたいな」と思いながら、「食べきれない上に200万円払わされる」と思っている人間なのだ。つまるところ。

 

06/02 螺旋階段で会っただけで死刑になるわけではない。

ゼッテリアのショックが抜けていないのだろうか、この日はとても短くて、支離滅裂な夢だった。

螺旋階段を登っていくと、各フロアの踊り場があるだろう。あそこに一人ずつ女性が立っていた。軽く挨拶をしたり、何か尋ねられて簡単に答える、というようなことをした。内容までは覚えていないが、豚というものは家畜としては良いが乗り物としては――なんだろう、そんな会話があったような、なかったような。

いや、夢だから、無かったんだけど。

それを繰り返して、8階くらい登って、屋上に出た。するとそこには審査員が5人いて、それぞれ手元のフリップに何か書きこんでいた。司会の東野幸治が合図を出すと、一斉にフリップがおもてを向く。

「死刑」「死刑」「死刑」「死刑」「死刑」

満場一致で、僕は処刑台行きになった。審査員が思い思いの講評をして、それを聞いた東野幸治が「えーそうですかー」と何の興味もない時のMCのアレをやっていたが、僕にとっては死刑になることのほうが問題だったので、ほとんど何の話をしていたか覚えていない。

死は恐ろしい。恐ろしいと思えるほどにこの体が元気なうちは、死は避けたいものだ。死への反抗が肉体から損なわれるほどに老いさらばえるか、衰弱し切って苦痛が生の渇望を上回るまでは、他者都合で死なされるというのは、僕でも耐えられない。というか、耐えられないから僕はここまで後ろ向きな人間になっているんだと思う。よ。

 

……嗚呼、勘弁してくれ。

起きた時、コーヒーを飲んだ時。――現実世界の圧倒的な合理性の構造美の前に、震える思いだったよ。

Ich liebe Realitätskonstruktionismus.

 

06/03 はっきり申し上げてこの国は異常だ。

車を運転して、遠くへ出掛けていた。今思うと車で出かけるのにひとりぼっちだというのは不思議な夢だと思うが、夢の中では気にしない。そういうものだ。

テキサスのような荒野を走っていたのはどう考えても「遠出」などというレベルではないが、気にしない。こうして振り返った時に我が身の世界の解像度の低さというか、突拍子もなさに辟易することはあるが。まあ、夢の中ではそういった恥にはまだ気づかないわけだ。

しばらく砂煙を巻き上げながら車を転がしていると、ペッパーくんの大群が道路を塞いでいた。車を止めて窓を開ける。僕は砂塵から身を守るため、サングラスをしてスカーフで口元を覆っていた。

「あの、なんですか?これ」

ペッパーくんの一人に聞いた。一体か?

「あ、はい、あの。これ、えっとですねー、あーー、ちょっ、、、っと待ってもらっていいですか?」

ペッパーくんは、新人のレジ打ちみたいな反応であたふたしたまま、手元の書類をパラパラと捲っている。お前デジタルデータで入れとけよ!とは言えない。僕もレジ打ちなんて出来ないもんな。人にそういうことを言う資格はない。出来たとしてもだ。

「ああ、いいですよ、ゆっくりで」

「はい、はい、はい、はい……」

心ここに在らずだ。ペッパーくん、急がなくていいんだよ。確かに僕はとても怖そうな見た目をしているし、たぶんサングラスをはずしたら、余計に目つきが怖いと思って萎縮するだろう。だが、声だけは優しくあろうとつとめる。

……しかし、ペッパーくんはページをいっては、かえり、めくり、もどし。要領を得ない様子だ。たぶんパニックになっている。

……うーん。

……待てど暮らせどとはこのことか…。

「あー……でも、あれですかね?なんか通行止めとか?」

しまった。沈黙に耐えられなくて、つい。

「あ」

ペッパーくん…?

「あ、あ、あ、ア」

ペッパーくん!

「ア、ア、Ah、A、亜、痾、鴉、阿」

ギチギチと首を回すペッパーくん。

Microsoft」※

ペッパーくん!!!

ペッパーくんは爆発した。

大群のペッパーくんも、連鎖的に爆発した。荒野には僕の車だけが残された。僕はエンジンを掛け直した。

車を走らせながら、僕は思った。労働とは、業務とは、何か。人生とは何か。僕たちにはあまりに時間がなくて、あまりにもこういう形式の暴力が見過ごされている。この国では、こんなことが日常的に許されている。

はっきり申し上げてこの国は異常だ。

 

※注釈: ここが大サビというか、一番いいタイミングだったのだけれど、彼(または彼女)が何と言ったかどうしても思い出せないので、普通に爆発しそうな言葉を代わりに置いておきました。

 

06/04 銀河ヒッチハイク・ガイド、あるいは、あなたの人生の物語

よく見る形式の夢というのは人によって違うと思う。そうそう、この夢よく見るんだよ、と、他人の夢日記に対して思うことはあまりないだろう。皆無と言っていいのか?それはわからない。人間社会の限定化されたバイアスのループが、構造上人間の認知の形式を限定するなどして、見る夢にもパターンを作る……ゆえにフロイトはそこに何かがあると信じたわけだが、まあ、それは良い。僕にとって「よく見る夢」というのは天使の夢か宇宙の夢だ。そして大概、いずれの場合も「よくないことが起こる」。

宇宙船に乗って、αNNN1星(Nの数はちゃんと覚えてない)とかいう惑星に向かうミッションを与えられた僕は、同乗者の男(知らない人だった)と宇宙船でチェスをやっていた。宇宙でやる意味は全くないと思う。僕も。亜光速へ加速する船内では、チェス駒はマグネットがうまく盤面の窪みにハマらないと、ちゃんと盤上に止まってくれないし。

僕側の先手で、ほとんど勝てるというところまで来ていた「感じ」だったが、小さなミスを連発して、気づけば負けていた。チェスをやっていて先手でゲームを落とすというのは基本的にあまり格好のつく事ではない(チェスは先行完全有利なのだ)。ちぇ。僕は不貞腐れて、宇宙船のなかでぐるぐると回った。

同乗者の男もあまり嬉しそうではなさそうだった。勝ったんだから嬉しそうにしろよ、と思ったが、無理もない。こんな閉鎖空間で、加速のため外に出ることもままならず、そもそも出たところで身体は宇宙服に閉じ込められたまま。チェスなどもう100回はやった。人間は未知を損なうと急速に疲れ果て、老け込み、そして気力をなくしていく。ここに自由などありはしない、あるのは疲弊と怠惰の時間。それが宇宙、絶無の世界だ。

地球から外に出れば重力から自由になれる、という考えは、そもそも嘘だし、古臭い思想だと僕は思った。人間は本当に何もかもが自由だと幸福を感じられないものだし、そういう意味ではこの宇宙船の閉じた世界もまた、幸福の檻なのかもしれない。どちらもが檻なのであれば、地球のゆりかごと、絶無への棺桶のどちらに、我々はいるべきなのか。

宇宙船は銀河の果てを目指して飛んだ。いや、滑った、あるいは、落ちた。それらの違いは瑣末なものだ。我々は、カレルレンの見た空を見ていないのだ。

 

06/05 賃貸借契約書に絶対に書いてはいけないこと。

そうだ、家を借りよう。という話になった。家を借りる理由としては、なんか日差しが良くなるからだとか、そんなことだ。

賃貸借契約書というのは、基本的にみんな真面目に目を通さないものだろうが、僕は楽しくてついつい全部読んでしまう。ふんふん、と言いながら、わかったり、わからなかったり、するのが好きだからだ。

契約書の隅の方に、変な記述を見つけた。その時はあまり気にせず、そんなこともアロワナ(爆笑ギャグ)くらいに思っていたのだが、起きてから凄まじいことに気づいたので、書いておこうと思う。

そこにはこのようなことが書かれていた。

「毎月200万円がもらえたり、もらえなかったり、します」

そんなこと書いたらダメだろ。

 

おわりに

 

初めて夢を見た日のことは覚えていない。

人生の最後に夢を見ることはあるのだろうか。

 

もし、あるのだとして、それを誰かに言ったら(天使とかに、言ったら)やめてもらえるのだとしたら、お願いだけでもしたいものだ。

僕が夢を見るのは生きるためだ。死ぬ時には自分の生を眺めたいではないか。

 

どんなに惨めで忸怩たる生でも、意味のないカオスの中に、何かを拾い上げようとするのが、基本的な夢の構成要件だと、僕は思う。

ゆえに、その終わりには、夢を見る必要はない。

 

僕は人生から良いものだけを取り出したくないのだ。聳え立つクソの山でも、そこに僕の名札が付いている限りは僕の人生なのだから。

 

(おわり)

なりたかった職業とそれを辞めた理由

 

タイトルの通りだ。

たまにはパーソナルな切り口もいいだろう。

 

幼稚園

ゼロ(ロックマンX

いきなり何を言ってるんだろう。でも本当なので仕方ない。2歳ごろだったと思う。

遊んだことこそなかったが、兄の児童誌に燦然と輝くロックマンXのゼロに釘付けになった。

真紅のボディ、金色のポニーテール、そして何より持ってる剣が光ってる(カッコよすぎ)。しかもこのゼロというのは数字の0のことらしい。数字の0というのはよくわからんが、なんかすごい。壁キックができるらしい。壁キックというのはよくわからないが、とにかくキックはかっこいい。仮面ライダーもキックするので、すごいんだろう。

そういうわけでゼロになろうと決意した。なぜこんなことを覚えているかというと、幼馴染に吹聴していたからだ。あとから、ゼロはロボットだと知り落胆した。なれないからだ。

というわけで、

 

辞めた理由: なれないから

 

なりたかった職業と銘打っておいていきなりこの体たらく。さすがに現実を見て、パイロットとか警察官とかいうようになってほしい。親はそう思っていたことだろう。

 

カメックス

どうして人は過ちを繰り返すのだろう。なれないだろ、常識的に考えて。ゼロはロボットだからなれない、じゃあカメックスならなれるやろ、ポケモンやから、ということである。

とにかくキャノンが2つついており、かっこいい。水が出るのも涼しげで良いじゃないか。皆が好きなリザードンに勝てるというのも良い。この頃から、すでに「みんなをどうやって負かすか」ということを考えていた。しかし自分がやっていたポケモンは全然「緑」バージョンだったし、相棒もフシギバナだった。こういう、「なんでそうなるんや」というのが、僕の今も昔も変わらない個性といえよう(言えるのか)。

あと、たぶんだが、ガメラが好きだったことも影響している。アホなのだろう。

 

辞めた理由: なれないから

 

最高のレプリロイドからハイドロカノンへ華麗な転身を遂げた(遂げてない)激動の幼稚園生活を終え、私は一体どこへいくのか。

 

小学校

宇宙飛行士

君にはがっかりしたよ。随分つまらない男になったものだ。

いや。これもまあ、大人の基準からすれば十分に大言壮語で、ありもしない夢物語のうちのひとつなのだが、とにかくここへきて急に僕は「本当に職業であるもの」を掲げ始めたということである。

ここからは記憶が定かなのでやや詳細に書くことになる。

宇宙にそれほど思いこがれていたわけでもないし、星が好きだったというわけでもない。今でもあんまり星に詳しいわけではない。この頃はどちらかというとメインとしてはジュラシック・パークとかにハマっていたハズである。ただ、恐竜はもう居ないから俺はなれないな、やれやれ、他の夢を探すか、ということである(そしてこの判断が誤謬であったことを大学生になり知る。恐竜は鳥類となって現存していたので、僕はこの時「鳥になりたい」と思うべきだった。)

京都大学に在学した頃、学友の驚くべき共通点を見つけたのだが、それが「学研の科学図鑑が家にあった」ことだった。要するにこのくらいの時期に家にそれがあって、それに触れて、そういう人間が形成されるということだろう。文化資本の話がしたいわけではないのだが、とにかく科学とかってカッケーな、と思っていたわけである(よく考えるとポケモンもオカルトSFだったし)。

そんなわけで、漠然となんとなく「星の世界」とか「宇宙と書いて『そら』と読む感じ」とかに憧れていたのだと思う。手塚治虫とか星野之宣とか藤子・F・不二雄とかを読み始めた頃だったと思うし、ガンダム、キャプテンハーロック宇宙戦艦ヤマトなどに触れた頃でもあった。好きなSFの中ではもうすでに絶滅した(と思い込んでいた)恐竜の夢を追うよりは、未来のことを考えよう、これからの僕たちは…ということである。

ただ、なんというか、SFというものにハマり込んだのはよかったのだが、『2001年宇宙の旅』を見たのがまずかった。

 

辞めた理由: 宇宙、マジで怖い

 

医者

医者になろうと思った動機は明白で、大好きだった祖父が肺がんになったことだ。

祖父は僕に何かを強要することも、与えることも、尋ねることもなかったが、ただ僕の話をにこにこして聞いてくれた。僕を連れて買い物に行った時、僕がペットショップの柴犬の前から動かないでいると、その場で購入を決めてくれたような人だった。よくある「孫に骨抜き」ということでしかないのだろうが、僕にとっては両親以上の存在だったのは間違いない。

それが、どうやら悪い病気になったということだ。僕は宇宙へのトラウマは克服しつつあったし、流石にカメックスになりたいほど子供でもなかった。さすれば、医者とやらになり、この悪性新生物とかいうやつと戦うのが筋だということである。

ここでまたアホ丸出しのことを言うが、当時は、癌が英語で「キャンサー」、僕も蟹座の「キャンサー」だからな、とか本気で思っていた。何が「だからな」なのか全くわからないが、とにかくそういうことである。ざっくり12人に1人はそうなので、日本人の8.3%は医者になっている計算になる。

とまあ、志や理由づけはどうにせよ、想いは純粋だったはずだ。しかし想いが純粋すぎるというのも考えもので、あっさりと純粋な動機は消え失せた。

 

辞めた理由: 祖父が死んだ

 

中学校

内閣総理大臣

祖父が死んで狂った。

この日本は基本的に全員バカであるため祖父が死んだのだから、俺が導くのは当然だよなあ、というわけである。

だが別に政治家の二世とかでもない。佐々木源氏の血は引いているが、江戸時代に全財産をなくしてる、武門のお家柄を守れたとしても新政府軍にすぐ合流しなかったのでそういう意味でも筋違いである。まあそんなことは当時の僕は知らない。要するに全体を通じてクソバカであって、世の中が自分よりアホだと思い込んでいるだけのガキであった。

不思議なもので、世の中というものが内面に存在していた年齢なのだと思う。つまり、自分の頭の中に想像する他者、自分の頭の中に想像する社会、自分の頭の中に想像する世界というのは、自分の想像力の産物であるから、自分の想像の限界を超えないということだ。それが間違っているというのは大人になってみれば当たり前のことで、他者、社会ひいては世界のことを僕たちは外部として正しく「わからないものだ」と認識しなければならなかった。過度に世界を大きく見積もると身動きが取れないが、全てを自分の脳内に落とし込むと全てが愚劣な自分の目で見た愚劣な世界にしか見えない。

まあ、厨二病というやつだな。

しかし、それなりに根拠というか自分の中で確証のようなものがあった。それは卒業文集で、ミニコーナーとして「将来この子がなりそうな職業」みたいなものをクラスの他の子たちに書いてもらって、上位3つを書くというものがあったのである。今の時代だとそんな偏見といじめの温床のワークはありえないが、とにかくそういうものが当時あって、僕のところに集まったのは1位「総理大臣」だった。苦しうない。

ちなみに2位は「詐欺師」で、3位は「小説家」だった。まあ、ある意味で2位と3位は叶ったと言える。慧眼だな、集合知というのは。

 

辞めた理由: 厨二病が終わりました

 

高校

小説家

別の病気にかかった。

小説家といっても、厳密には小説家そのものになりたかったのではなく、頭の中にあるひとつの「物語」を出力して、それで食いたかったというのが正しい表現になる。何を偉そうに言っているんだこのガキは。

その物語についての詳細を書く気はさらさらない(無限枚の原稿用紙が必要となるため)が、それはある意味でファンタジーであり、ある意味でSFであり、もろショーペンハウアーニーチェの哲学であり、とにかく自分が影響を受けた全てを注ぎ込んだものだった。キモすぎる。当然壮大で莫大なストーリーで、まともに読めばしばらく娯楽には困らないほどのものだった。ゲボ吐くほど文章がキモくて読むに耐えないということを除けばだが。

で、実際、書いてしまった。

聳え立つクソの山を、書き上げてしまった。

高校生特有の無限の時間を浪費して、僕はその当時の瑞々しい感覚を全て叩き込んでしまった。今読み返すと青臭くてキモくて恥ずかしくて、とんでもない共感性羞恥に襲われるものだったが。

書き切った僕が思ったのは、生意気にも、「もう後にも先にもこんなものは書けない。筆を折ろう」だった。何を偉そうなことを言ってるのだこいつは。バカなんじゃないのか。

ただ、今思っても、この頃考えていた物語は(語り口や語彙を抜きにして物語だけを取り上げたら)、悪くないと思う。いや、めちゃくちゃ面白いと思う。だがそれを形にする力が今の僕にはもうない。情熱というのか…そういうものがない。そうなると必然、小説家にはなれない。

思えばこの頃から、「じゃあ僕はいったい何になればいいのか」は全くわからなくなっていた。

そして「別の何か」を探して、僕はすぐ最悪の人間になる。

 

辞めた理由: 書き切って、萎んでしまった。

 

大学

インターネットの有名人

今度は大二病を発症した。助けてくれ。

インターネットの有名人というのは、要するにインターネットで名を上げていく人たちのことだ。世代的にもゲーム実況の全盛期を見てきたし、自然なことだった。小説家にはならないとわかったし。やれやれ。

たとえば僕は、ツイッター(いまのX、とか言う気はない。僕にとってはツイッターだからだ)で「アルファツイッタラー」と呼ばれる人間になった。恥ずかしい。本当に恥ずかしいのでさっさと書くのを辞めたいが、説明はしないといけない。当時のツイッターは今ほど人口が多くなくて、一般の普通の人々が情報収集に使っているSNSではなかった。どっちかというとチャットルームのような感覚で使っていたはずだ。そこで、「ネタツイート」というものを書いて、今でいうところの「バズ」を目指すというのが僕が最初にやったことだった。まあそれは、だいたいにおいてうまくいって、当時数千人フォロワーがいたらマジですごい!ってな時代にそれくらいは当然いて、1000ふぁぼ(いいねではない)を毎日作るぞ!みたいな下品でくだらない遊びを延々やっていたというわけだ。うーん、死刑。

配信にも手を出した。ラジオが中心だったが、何を勘違いしたのか偉そうにダラダラと世相を切ったりチャットに突っ込んだりとしていた。他にもあれやこれや、できること、やれること、それなりの範囲でだが、いずれもそれなりに規模の大きいアカウントだったと思っている。

まあぼかして書いてるが、本当にいろいろやったのだ。ゲーム実況とか(消えたい)。

どれも当時の水準ではかなりの人間を集めていたと思う。しかし、心のどこかでずっと違和感があった。本当にこれでいいのだろうか。こんなことで何になると言うのだろうか。これは僕にとって楽しいのだろうか。

本当にそれが生き様とわかっているなら悩むこともないだろう。こんなことを悩むから僕は「本物」にはなれなかったわけだが、言い訳材料がひとつだけある。できることが多すぎた。適当にツイートすれば面白いようにフォロワーが増えたし、適当にラジオをやれば面白いように人が集まった。現実の勉学もそつなくこなしたし、大学でも顔がそこそこ広かった。徹夜の飲み会のトイレ休憩にネタツイートを…やめよう、本当に恥ずかしくなってきた。

加えて、何者かにならなければという焦りがあまりにも強かったのも悪かった。そして少しやれば何かができる僕。「僕は何か特別な人間であるはずだ」「特別でなければならない」「そうでなければ意味がわからない」「僕は何をしたいんだ」「僕はどうなりたいんだ」その模索が、自分の得意分野をどう伸ばすかという自惚れた方法論と合致して、色々なことに手を出したわけだ。そして、見事にすべてが中途半端、軸のない空虚な人間になった。そもそも「何かにならなければ」というアイデアはそれ自体が内面的な動機ではないし、内面的な動機など無くていいという事すら、この時の僕はわかっていなかった。まあ、今思うと何もかもが違った。

経緯ははっきりとは覚えていないが、とにかくそれらが自分にとって全く楽しくなくなったとき、僕は現実に帰ることにした。インターネットの唯一の戦利品は今も続く親友ができたことだろうか。この前もキャンプにいった。

現実に帰った僕は、勉強をそれなりにして、まあ、流されるまま大学院に進学することになる。それで良かったと思っている。

 

辞めた理由: 何になるべきかわからなかった

 

大学院

とくになし

そうして、冗談ではなく本当に、本当に何かになりたいと思わなくなったのだ。

ぼんやりとのらりくらりと、それほど大きな動機やビジョンがあるでもなく、ただ目の前にあるものが「なんであれ」、無限のエフォートで取り組めばええのや、ということを学んだ頃だった。

もう少しだけ掘り下げると、僕は強い意志を持って研究室の扉を叩いたわけではなかったということだ。意志の強さだけでいうと、カメックスや宇宙飛行士になろうとしていた頃のほうがずっと強かった。不思議なもので。なんとなくピンとくる分野に、何となくできそうだから足を踏み入れて、何となくできそうな課題を決めて研究を始めたわけだ。

ただ、人生は何もかもを自分の意志で選べるようで、その実、現実には何も選べないようなものなのだと思う。いや別に「自由意志を否定〜」とか「世界3秒前仮説〜」とか、そういう話をしたいわけではない。なるようにしかならん、なるようになって今の僕になっている、ということである。

それは、世界に対して自分がどういう存在なのかすら、自分自身にはわからない、というある種の世界の反転を実感していたと言えなくもない。ガキの頃は自分の中に世界があったが、それが反転して、自分は世界側から自分を観察しようと躍起になるが、どうもその姿はよく見えない。そうなると、自分とは何者で、何をすべきで、何がしたいかなど、もう意味不明なエニグマだった。

カバラ神秘の真髄に至ったものからするとお笑い種だろうが、とにかくこの時の僕は世界に対して自分が小さすぎて、何も選ぶことができなくなっていたのだ。まあ世界を内面化する愚図が、別種の愚図になっただけではあるのだが。

しかし、そんな愚図にでもできることがひとつだけある。目の前にその都度転がってくる課題を、やる。全てを捨てて、フォーカスしてやる。まあこれだけだ。それはつまらないことかもしれないが、無限のエフォートをかければそれだけで充実が得られるはずだ。というのはまあ持つものの論理かもしれないが。

いままであらゆる才能に向かっては飛び、カオスの中に雲散霧消していた「無限大の可能性」がひとつに集約され、「目の前のタスク」にフォーカスした時、無限のエネルギーが別次元から取り出され、僕を突き動かした。

修士では僕の研究は終わらないと僕は感じた。まだ目の前にタスクがある。その先のことはその先にならないとわからない。だから博士課程に進学した。本当にそれだけだ。研究が楽しかったわけでも、研究者になりたかったわけでもない。

大業な理由づけや動機づけは、自分の内面世界をうつしたくだらない合わせ鏡でしかないことを、僕はすでに学んでいた。ただなんとなく、僕は、「続ける」方に体が動いたわけだ。

 

現在

だもんで、いろいろあったが研究者になった。良いように言えば「その道のプロ」だ。

嘘みたいな嘘はついてないそれなりに本当なんだけどとても誠実とは言い難いかも知れないこともないかもね的なギリギリの文章を書き国から予算を取るということをしていて、夢みたいなことを詰め込んだ論文をひーひー言いながら毎年書いている。つまり、だいたい「詐欺師」と「小説家」である。うーん、「総理大臣」ではなかったか。

ふと思うのだが、もし僕がこうなっていることをガキの頃の僕に読ませても、もしそれをガキの僕が100%納得したとしても、それでも僕はゼロになりたかっただろうし、カメックスになりたかっただろうと思う。永劫回帰ではないが、それで良いのだ。そういうものの中で、何か今の僕に繋がる何かが作られたのだろうし。

最後に書くのはこれからのことだ。

別にいい歳こいて、夢と言えるものではないが、妻と仲良く生きていける今の生活の基盤を守ろうとは思う。永遠には生きられないので、妻や家族や友人たちを大切に、まあ真っ当に、道義に悖る生き方はしないと決めているくらいか。

まあそういう意味では、

 

まっとうな人間

 

くらいが今の夢である。研究者をいつやめたっていいと思っている。その先に道があるかは知らないが。

僕の夢は、最終的にはロボットから人間になったのだ。

 

いいのかなあ、こんなので。

でもこうしかならなかったんだよ、俺は。

 

(おわり)

 

佐伯・ネバー・マインド

 

大雨の日だった。視界は灰色のストライプで覆われて、街灯のブラーが壊れたブラウン管のようにちらついていた。僕は蕎麦屋の軒下で息を整え、自前のシャグ混ぜに火をつけようとしたが、豪雨の中を傘もなく走ってきた僕のポケットはすでにずぶ濡れで、その中に乱雑に突っ込まれたシガーケースが濡れそぼつのは必然だった。ジッポライターの火だけが赤赤と揺れていた。

 

佐伯・ネバー・マインド

 

その北白川の蕎麦屋は、僕にとっては蕎麦焼酎の湯割りをやるための店だった。煙草は軒下に出なければ吸えなかったが、暖房と湯割りで内外から熱った身体を覚ますのに丁度よく、そのコントラストを僕は気に入っていた。

「傘のひとつも持ってないのは、文化人のあり方ではない」

先に店に来ていた佐伯は不服そうに腕を組んだ。佐伯は僕の手巻きを「アテ」にしている。僕が吸えないということは自分も吸えないということで、それで不当にも眉を顰めていた。

「ヤニ欲しいだけのカスが偉そうな口を叩くな」

僕は吐き捨てるように言って、財布から英世を取り出した。

「何、君、そういうこと言う気か」

「ん」

僕は右手の漱石を突き出した。それを言うだけの権利は僕にある。佐伯は一瞬眉を顰めたが、すぐに傘立てに乱暴に斜め差しになっている彼の番傘の取手を左手で掴み、僕が差し出した英世をもう一方の手で奪い取るように取り上げた。

大雨の中を、背を丸め、佐伯は手塚治虫の漫画の「ヒゲオヤジ」が如く、足を左右に放り投げるようにバカラバカラと歩いて行った。白川御蔭の(北白川別当町と言った方が通りは良いのだろうか?)ファミリーマートまでは5分もかからない。湯割りを運んでもらうだけの時間は十分にある。

 

ほどなくして、店の外で紅漆の番傘がはためいた。わざわざそんなものを使っているのは佐伯が他人からの奇異の目を向けられることに快感を覚えているからであって、袴の上に寒色のネルシャツを着ているのも、つまりはそういうことだったのだろう。

僕は芳しい蕎麦の香り漂う湯割り(素晴らしい)を二度ほど傾けたが、なかなか入ってくる気配がない。ああそうか、あいつライターも買ったのか。あれほどひとくちめの味がどうのと言うくせに。僕は三くちめの湯割りを大袈裟に流し込み、喉と腹を焼く。

アメスピ買うなていつも言ってるやんけ」

ガラリと戸を開け、僕は佐伯に言った。

「お先」

佐伯は、か細い棒きれの先の残火を右手団扇で消しながら、にへりと笑い、ひとくちめの煙をどろりと垂れ流した。僕は、

「いいよな、ひとくちめが」

肩を窄めた。正直言うと、ジッポよりはマッチの方が火が美味いというのは、僕も同意見だ。佐伯はアメスピターコイズを一本箱から出すと、僕に差し出し、すぐに両手でマッチを構えた。火をつける。僕は頬いっぱいに煙を吸い上げた。ひとくちめの香り、硫黄のツンとした、それでいてどこか駄菓子のように甘い香り。

煙草の後の部分は、全部ただのおまけだ。

「佐伯さあ、いつまで楽器やんの」

佐伯が行って、帰ってきても、京都の大雨の打音は以前として変わり映えなく、鈍色のストライプも絶え間なく、その繰り返しはボレロのようで、終わりはないように思えた。

「無論、死ぬまで」

るろうに剣心はええねん」

「きーーーみは見事にやめたねえ」

「壬生の家が楽器禁止やねん」

それは後付けの理由だ。

僕は四回生になっていた。工学部の学生は、ほとんど吉田から桂に移る。かといって桂に住むのはあまりに京都の中心から離れるようで気が引ける。だから僕は吉田と桂のちょうど真ん中、壬生に引っ越すことに決めていた(これはあまり普通の選択ではない、ふつう無理してでも吉田に住み続けるか、潔く桂に住むかのどちらかだ)。

「足利の次は壬生狼か。三歳からやってたピアノなのに」

「まあな」

ターコイズは12ミリ。僕にはやや重い。アメスピの難燃性に、肌にまとわりつくような湿気も相まって、口でフカしていないとすぐに消えそうになる。紫煙の粘度は高く、まとまりよく、街灯に向かって空中を滑るように流れていく。ブラーの塊の中に流れ込んでいくそれは、何かの魂のようでさえあった。僕は頬を膨らました。火口が赤から緋色へ、黄に灯る。

「結局、」

言いがてら脇を見やると、佐伯はもう二本目に行こうとしている。まあ、ひとくちめのためだ。人の金で買った煙草をよくもまあ、そうも贅沢に使えるものだ。僕は続けた。

「お前らのそれと違ったんやとは思うわ」

「それぇ」気の抜けた声で応える佐伯。

「何か、そういう何かをやってないと気が済まないってことも別にないし」

吐露、というならこういうことだろう。隣からシブッ、という音。僕は街灯だけを見ていた。佐伯の吐き出したひとくちめがまた、大きな人魂のように蠢きながら、街灯へと溶け込んでいく。

「なんかあるといいな、研究で」

珍しく、佐伯は穏やかな声で言った。僕がどうなろうと、佐伯は気にしないだろう。

「いいな」

とだけ答えた。僕のアメスピはまだ3割ほど残っていたが、フカし損ねて消してしまった。佐伯は気づいていない。僕はバツの悪い思いはしたが、ポケットからジッポを取り出した。2回生の夏に友人からもらった、オーダー彫りのアーマーだ。その重さが、今はどこかわざとらしかった。

その経緯も、逡巡も、佐伯は何も知らない。

フリントとホイールの摩擦音に気づいた佐伯は、

「二度付けは肺に入れるなよ」

と言った。

ああ、知ってるよ。

 

僕はそのあと、壬生から通える学習塾にバイトを移したり、大学院に進学したり、博士号を取ったりした。そのことが僕にとってよかったのかどうかは、わからない。それは「何か」だったのか、答えはもはやわからない。少なくとも、僕は生活をしている。

 

当時あの研究室を選んだ理由もあまりはっきりとは覚えていない。なんとなくは、やりたいテーマがあった。だが、それが情熱でなかったことは確かだ。結局そのテーマにはつけなかった。配置されたタイミングで当該テーマを持っている教員が異動したからだ。代わりに入ってきた准教授について、僕は研究のフィールドを海に定めた。それでも何の落胆もなく、僕は生活をした。だからそれが情熱でなかったことは確かなのだ。それからは自分の肩書きや立場、同年代の他の学生と比較して得られる経験に酔って大口を叩いたこともあったが、それがすべて「与えられたもの」だとわかっている今では恥じこそすれ、その過去に感じ入ることはない。つまり、僕はただ生きていて、生活をしただけで、そこには特筆すべき何かはなかった。

ありていに言うと、僕は適当に生きていた。北白川を離れる頃からはずっと。後付けの理想や理念は口でいくらでも語れるが、僕という袋の中身にはもともと何もない。風前の灯の忸怩たる我が身をなんとかつないで、生活を続けている。消さないためだけに。

その在り方は数少ない友人たちに「ストイック」だとか「一本気」だとか言われてきたが、たぶんそういうことでもない。

 

佐伯と次に会ったのは三十路を過ぎてからだった。それはうだるような暑さの東京で、スーツ姿の僕たちは、何もかもが変わってしまっていた。佐伯はそこにはなく、僕もまたある種の「私」になっていた。

それは正しかったのだろうか?もとより答えはない。努力も、情熱も、賞賛も栄光もなく、ただ僕たちは今の僕たちになった。自然とそこに辿り着いただけのことを、こんなふうに書いてもどうにもならない。

 

あの日の佐伯は、

「さ、蕎麦食おうぜ」

と言って暖簾をくぐった。僕だけは燃え尽きそうなアメスピが惜しく、そのことは少し情けない。

 

大雨の日だった。

視界はモノクロのストライプで覆われて、街灯のブラーは白く揺れる。蓋を閉じることのできない僕の手の中で、ジッポライターの火だけが、赤赤と揺れていた。美味いのはいつもひとくちめだけなのだ。そのことが、どうにも悲しい。

 

賞賛も栄光も、中身のない空洞には受け止めようがなく、僕はただ踏切や、積乱雲や、あの日の大雨を眺めながら、生活をしている。

 

そんなことを、佐伯はきっと気にしない。