そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

シン・世界最強の夢日記

 

僕は、空が落ちてくる夢を見た。 

それは、福井県に恐竜を見に行った時のことだった。

 

現代に生きている恐竜というのは、基本的には「ハト」とか「スズメ」とかいって、「トリ」(一般には空を飛ぶ形態の恒温動物全般を指す言葉――もちろんペンギンやダチョウのような例外は置いておいて――で、学術的な話とは結構違うが)の形態をとっている。まあ敢えて言ってしまうが、鳥類は恐竜だ。ヒトが霊長類なのと一緒。一方で、非鳥類の恐竜というのは、K-Pg境界で絶滅してしまったわけである。

これを現代で観察する方法は、化石博物館を訪れることである。自明だな。

 

しかし、どうも不思議で面白いのは、約65.5 Ma(1Ma = 100万年前)より前にしか非鳥類型恐竜は生きていないわけであるから、今生きている恐竜(繰り返しになるが鳥類のことだ)は目で見て触れて時には食べることもできるのに、非鳥類型恐竜を見る時にはかならず化石頼りになるという点だ。

これはかなり面白い。「人間は生きていて、触ったり叩いたり撫でたりできるのに、類人猿は全部化石ですね」と意味的には同じ。ニンテンドーswitchはどの家庭にも1台はあるが、Atari 2600は博物館にしかありません――みたいな?

 

まあ、喩えは喩えでしかないから、この話にはあまり意味がない。

僕が主観的に「おもしろいな~」と思っていることを表象化したにすぎない。だが、恐竜の化石を見ながらにして、今僕らが自由自在に食ったり焼いたり追い払ったり撮ったりできる恐竜に思いをはせるのは面白い。

 

そういえば、食堂のメニューにはあまり恐竜が出ていなかった。せっかく恐竜博物館なのだから、恐竜尽くしのコースがあってもよかったように思う。

まあ要するに焼鳥丼とか、鶏肉のフォーとか。カオマンガイとかカオソーイに蒸鶏載せるとか、そういうのがあってもよかったんじゃないか。

まあ、一応、カレーの上に鶏の手羽先が乗っていた。手羽先は恐竜の進化の歴史においてはかなり重要な器官だと言える(羽毛と翼の獲得の歴史の話をしている)ので、アイコニックな料理としては合格点かもしれないけれど。

 

僕たちは、今、恐竜を食べることはできる。だから味もわかっているつもりだ。だが、ひとくちに鳥類と言ってもいろんな味があるように、きっと恐竜にはもっといろんな味があったことだろう。

特に竜盤類と鳥盤類の違いなんていうのは、どんな味の差を生んだことだろうか。なんとなくだが、Stegosaurus stenops(ステゴサウルス)はワニみたいに淡白な味がしそうだし、Triceratops horridus(トリケラトプス)は若いほど臭みが少なくて、肉質が柔らかい、そういうラムとターキーの間みたいな雰囲気を感じる。

 

ああ、一応言っておくけれど、恐竜という生き物は大きく分けると竜盤類と鳥盤類という2種類に分けられて、これは骨盤の形をだいたいの基準にして分類される。で、竜盤類の中から現代まで生き残っている鳥類が発生していて、鳥盤類と鳥類には何の関係もない。

これははっきり言って、ちょっと最悪だと思う。

 

もっと言うと、最近は「竜盤類」ー「鳥盤類」の2種で分類していたのを、「竜盤類」ー「オルニソスケリダ類」の2つに再分類しようではないか、というような話もある。これもまあ先発後発の問題と、日本人がテクニカルタームをどう接収してきたかの歴史的変化の影響もあって、名前の付き方が結構最悪だし、なにより竜盤類だった連中の一部(獣脚類:ティラノサウルスとかだな)が鳥盤類と合体してオルニソスケリダ類に再分類されるために脳みそがクソバグり出す羽目になった。

 

あと、たぶんなんだが、「恐竜」という言葉そのものの定義(鳥盤目の周飾頭類[トリケラトプス]と鳥類の最も近い共通祖先のすべての子孫)を書き換える必要がある。

最悪だ。

 

だが、こういう最悪な感じも、恐竜の面白いところだ。

 

前置きが長くなったが、そんなことだから、また夢日記をつけてみることにした。

それも、世界最強の夢日記を。

 


 

3/10 空

空が落ちてくる夢を見た。それだけの夢だ。すべてが終わって推敲をする今となっては、しこたま酒を飲んでくらくらしたまま寝不足の頭が、また酒を入れられてしまったものだから、こんなバカな夢に落ち込むのも無理はないと理解できる。だが、夢を見ていた当時の僕はどうだったか。「空が落ちてくる」という観念的なワードは実際のところ大したことではなくて、空というものが持つ巨大な空虚に耐えられない人間の心の弱さを表現した便宜的な名辞にすぎないのである。僕は不安を感じていた。とても大きな不安を。ぽっかりと空いた天の穴、それがふさがってくれと願う。曇れ、曇れ、曇れ、大雨が降ればなおよい。

 

そして僕の夢日記がふたたび始まった。

 

3/11  アホの考えるエンジニアリング

大規模地下空洞の建設に携わっている夢。大学生になりたての頃の僕の将来の夢はこういうことをするエンジニアだった。何がどうして、何がどうなってこんなことになったのか。それをつまびらかに語る必要もなければ聞きたいものもいない。そういうことが人生にはたくさんあるな、と、夢見ながらに思った。

そう、明晰夢というやつだ。珍しく、僕は僕自身を俯瞰して見ていた。明晰夢ならある程度コントロールできただろうか?だが、そういう発想は湧かなかった。明晰夢と言葉で言うほどは明晰ではないということだ。そもそも、この世は何もかも、バイナリなものではないと思う。

とにかく、全く専門的知識が欠落した状態で見る夢なもんだから、何もかもがファジーでいい加減だった。たとえば、重機の名前とかがめちゃくちゃ(なのだろうと思う)で、作業員の格好も現場を舐めたヘルメットに作業着だけの格好で、かろうじてハーネスはしていたが、今思うと反射板とか何もつけていなかった。まあ、そんなものだろう。

将来の夢といえばまあ、ややこしいことに、小学校と中学校と高校と大学と今とで全部違う。だがそれを語る機会はない。そういうものだ。こっちの夢の話はするが。

 

3/12 大破壊の星!

大変だ!大地が割れ、海が陸地を飲み干した!かすかに残っているのは山脈の尾根のような切り立った陸地と、いくつかの荒廃した建造物の跡地、そして嘘のように青々と生い茂る新緑の自然だけだ。どうもごつごつしたカルストの稜線だけが残されて、あとは削れ落ちて数百メートルは下の荒れ狂う海に飲み込まれてしまったようだ。風吹けば人も草木も飛ばされ、奈落へと落ちてゆくような過酷な状況。僕はすっかりあきらめてしまっていて、廃墟の一角にできた人間の集団からは(何かこの状況を「わかっている」かのようなことを言ってしまうことで、希望の光として設置されるのが嫌だったので)少し距離を置いて海を、正確には海に太陽が沈んでいくのをぼんやりと見ていた。潮風が岩肌を乱雑になぜて、吹き上げる泡は粘性が高い。鼻腔をくすぐる微粒子は、いつも嗅いでいる港町の汚れた潮風の臭いそのものだった。星の終わりに、人類の身勝手で、何もかもがきれいになるわけではない。そこに一筋の流れ星。いやいくつもの流れ星。流れ星、流れ星。視界を左から右に切り裂いて、無数の流れ星。まあ匂いは減点だったが、こいつはこの世の終わりの景色には相当相応しい隕石群。あ、メテオライト欲しいな~。と思っていると、ぼんやりと滲んだ北の水平線が突然赤く腫れあがって、黄と白の明滅のシグナルがナンセンスなモールス信号のように網膜を焼いた。そして、幾ばくもなく、光と振動の雪崩の中に僕たちは消えていく。

 

今更だが、宇宙を漂流する夢を見ても、死ぬこと自体はさっさと受け入れてしまっているわけで、僕という人間の根底の厭世観というかもうどうしようもないイキったペシミズムは、激臭をはなちつつも僕の味わいになってしまっているなという感じだ。

 

3/13 アホの森

酒をしこたま飲んで寝たため、サイケデリックな森の中で歌を歌ったりした後で、何か大きな流れと言うようなものに巻き込まれる形で僕以外の人間だけが楽しみはじめた。すると、僕は死ぬほど不愉快な気分になった。そして起きると片頭痛がした。僕は、心底単純な人間だと自分で自分を嗤った。やれやれ(だが、ちょっと待ってほしい、そういう意味ではない)。

 

3/14 無(という字が持つ圧倒的な有存在性に辟易する日)

夢を見なかった。疲れ果てていたためだ。

 

3/15 天使不在のカフェテリア

カフェテリアで何かを注文していたが、一向にそれはやってこなかった。ウェイターが何か僕の存在のすべてを軽んじている雰囲気で、僕は憤懣やるかたないという気分であったが、しかしスーツを着てさあこれから仕事をするぞという雰囲気の僕はウェイターに抗議することもなく忍耐をした。さて、僕の今までの夢の傾向をとらえれば、ここらで天使が出てきそうなものである。しかし天使は現れなかった。『ゴドーを待ちながら』のような不条理。あるべきものがあるところにない瞬間の世界の不成立。そんな時間は大型トラックの横転で終わった。トラックが高速回転しながら、カフェテリアに突っ込んできたのだ。僕は、宇宙人との和平条約を結ぶ必要があったため、その場を後にした。カフェテリアには悪いが、宇宙という規模の方が重要に思えてならなかったのだ。僕を無視する世界のすべてよりは。

 

3/16 初めてのこと

妻と大喧嘩をする夢を見た。タイトルに語弊があるので補足しておくが、「初めて妻と大喧嘩する」という類の夢はよく見る。逆説的には、少なくとも僕の個人的な認識において、現実の世界では、妻という生き物と僕の間でこれまでに「大きな喧嘩」という種類の争いは一度も発生したことがない。おそらくお互いに気を遣いすぎているからかもしれないし、実際はその逆で、双方に限界までひずみエネルギーが蓄積されていて、もうすぐ爆発するという類の状態かもしれない。とにかく僕は後者を深層心理で危惧しているわけである。それが、「初めての大喧嘩の夢」と言う形で表出する。とはいえ、怒りくるっている妻の姿は見たことがないので、「信じられないくらい拗ねている」とか「完全に開き直っている」とかいう、かなりふてこい状態として描画される。ちなみに、喧嘩の原因だとかそういうことは一切わからない。とにかく「喧嘩状態である」ということだけを認識しているわけだ。よくわからないかもしれないが、つまりは、僕はネガティブな方に想像力が働くわりには、他人に対して作為的な妄想を抱かず、確定している情報だけで夢を組み立てるほどにはリアリストだということである。これを「誠実だ」と言う人もいる。そういうわけではない。

 

3/17 宇宙ネズミの大冒険

おい、リアリストはどこに行ってしまったんだ。僕は宇宙ネズミの相棒となって、銀河をバイクであっちこっち行く立場にいた。そういう立場を表す日本語は現在のところ存在しないので、可能な限り誠実に書いたらこうなる。宇宙ネズミは名前を「ティンパニー」と言って、僕はそれを口に出すたびにいろいろとモヤモヤした。宇宙ネズミはヘルメットをかぶらなくても宇宙空間を行き来できるのだが、バイクを操縦する――ということは僕はもしかすると「アッシー君」なのかもしれない、宇宙ネズミの――僕としては完全防備でないと死んでしまうから、防護服を着る時間がかかる。そのたびにティンパニーに小言を言われる。こんなことなら纐纈クジラ運送に任せればよかった、などと失礼なことをほざく。うるせえ、俺だって自分が最高品質の仕事提供者でないことはわかっている。馬鹿にしやがって。それでもこうして、それなりの仕事はしてるんだ。

 

いつものことだが、こういう夢を見ると起き掛けに思うのだが、結局のところ、僕はネズミを食べたことは一度もないわけだ。

 

 


 

 

最悪な人間には最悪な夢が相応しい。

今回の夢日記は最悪が多かった、そんな話としてまとめられるだろう。

 

最悪な夢を見た人がその次に考えるのは、たとえば食事の味の話だ。

恐竜に思いを馳せて、太古のロマンがどうのというよりは飯のことを考えている。巨大な海洋に想像を膨らませて、汚い潮が口に入った時の苦辛い味を思い出している。

 

世界の解像度が上がれば上がるほど、僕たちは「それそのもの」が持つ単一的な意味性ではなく、世界と接続されたすべての包絡線の合流地点、窮極の一(いち)、つまり一如(いちにょ)たる宇宙を見る。

 

その宇宙には自分自身が接続されているのであってみれば、僕たちは正気であればあるほど自分自身の身体性に向き合わなければならない。全天空の彼方、マクロコスモスの向こう側に歴然と存在するミクロ。宇宙よりも大きな自己意識という、その不合理のカルマと。

要するには、僕たちはどんなに高尚なことをほざいていても、その根底に生の本質を切り離しえないということではないのか。

 

それは愛と性を切り離すことが絶対にできないように、友情と打算を切り離すことが絶対にできないように、成功と苦悩を切り離すことが絶対にできないように、未来と死を切り離すことが絶対にできないように、そうして、ずっと僕たちの生の目の前に横たわっている。

だが、それが僕たちが最も愛してる人の愚かさ、「カオス」ではないのか。人間の語るべき言葉とは本来、そのカオスを採り上げるためにあるのではないのか。

 

僕は、人生から良いものだけを取り出したくないだけなのだ。

 

世界の曼陀羅はきっと、クジラの化石の形をしている。

だから僕は夢の話をするのだ。

 

 

(おわり)

ポケモンSVひと段落なので感想など書く日。

 

番外編、全体的にずっとバカっぽくて良かったですね。ポケモンってキャラゲーなんだなあと改めて思った次第です。

DLCも(たぶん)終わったと思うので、SV全体振り返ります。

 

個人の意見と憶測とその他もろもろのエゴに満ちた文章です。内部情報を何も知らない人間による好き勝手な記事です。

シングル対戦が比較的好き寄り(SVは1650~1850くらい)な社会人ユーザーですが、ストーリーやシステムについても当然触れます。

「普段から『ポケモンは対戦がすべて』とか『数値以外の何を見ろっていうんだよ』とか言ってそうな心を失くした哀れな大人から見ると、ポケモンというゲームはこういう世界なんだなあ」ということは、あくまで一例ですが、わかるかも。

 

最初に総括を書き、以下は良かった点、悪かった点をだらだらと書いていき、最後に「そういえば…」と思いついたことをつらつら書いていきます。要するに、とりとめがなくて、まとまりがない。

あと、本筋としてはそんなに大事じゃないんですけど、一応出さないと話ができないことがあるので、三値などには触れますし、俗語で書きます。特に種族値に関してはバリバリ公式用語でなくて申し訳ないのですがこの用語が明確に示されていないので使います(個体値は「生まれつきの強さ」、努力値は「基礎ポイント」と言うことはできますが、食い合わせが悪いので俗語を使います)

 

 

ポケモンSV総括

 

はっきり申し上げて神ゲーです。

ポケットモンスターという作品にこれまで触れてきた自分の人生の思い出が鮮明に蘇るほどに、ゲーム体験としての「ポケモンの一体何が面白かったのか」を誠実に表現しつつ、新たな試みとして(剣盾でユーザーからの不満が最も多かったであろう点を解決するということもあってか、)現代のゲームユーザー、特にライト層の肥えた舌に叶うナラティブを提供した点は(短い納期を考慮するに)賞賛に値します。

グラフィックスと処理に全力投球してそれ以外がほとんど顧みられなかったように見える(まあ、だからこそ対戦に関しては結構よかったと個人的には思ってるんですが)剣盾と、ゲーム性を開拓することに主軸を置くあまり現代的とはとても言えないゲームクオリティだったレジェンズアルセウスを高レベルに合流させ、さらにブラッシュアップすることで新ビジュアルを提示するとともに、得られた没入感をうまく活用してナラティブ、インタラクティブなストーリー体験まで発展させていると言えるでしょう。

ただ、これは「そういえば」でも触れますが、本当に開発がギリギリのカツカツでめちゃくちゃなんだろうなというのは感じました。第10世代の完全新作まであと2年弱しかないわけですが、この点はどうなることやらという感じです。

対戦面も(いつの世代も賛否はあるのでいちいち書かなくてもいいのですが)賛否の「否」は大いにあるものの、テラスタルシステムによる切り返しの要素、対面性能の高い攻め駒による崩し、耐久の全体的な弱体化による単純な受けループや無限型の咎め、サーフゴーとかいう必要悪(使いますが)の存在のすべてを1世代で完成させているのは恐れ入りました。過去最高クラスにバランスが取られているように思います(第6~第8世代が終わってただけかもしれません)。ただ、これも「悪かった点」で触れますが、「バランスが取られすぎている」ことがここまで窮屈だとは思わなかったので、この点はパッチを適宜当てて種族値を調整するとか、選出段階でテラスタイプが開示されてるルールを期間限定的に検討してみるとか、そんなことも必要だったかもしれませんね。そんなことする予算がどこにあるんだと言われれば、まあ、Homeの料金を上げるしかないでしょうし、難しいとは思いますけれど。

 

良かった点

 

ストーリー構成が絶妙

端的にいえば、ストーリーのが思いもよらない意外なところから生まれて、気づけばそれに没入していく「導線を感じさせない構成」の妙だと思います。

このゲームのストーリーは「ザ・ホームウェイ」がほぼすべてと言っても過言ではないと思うのですが、周回プレイをしてみると、意外にもこの「本当のストーリー」が序盤は見事に全く無視(というよりも隠蔽)されているということがわかります。

もちろん、ペパーという少年に何か秘密があるんだということも、博士の息子であるということも最初から分かっていますし、コライドン/ミライドンの存在を知る者としてもペパーは紛れもなくキーパーソンであるはずなのです。しかし、序盤では驚くほどあっさりと(ネモがぐいぐい引っ張ってくれるおかげで:ここ重要)この要素は無視されます。そのうえ「宝探し」が始まるやいなや「ペパーは3つあるルートのひとつにすぎない」という印象を与えられます。

いざ「レジェンドルート」に入り、ペパーのストーリーを深堀りしてみても、そこには思っていたような過去の秘密や博士との確執はほとんど描写されず、ペパーという健気な少年の思慮深く愛情深い、それでいて向こうみずで負けん気の強い性格が描かれていき(マフィティフの再生の物語という位置づけは、ペパーの立ち直りをミラーリングしていると言えばそうなのですが)、「ペパー良かったね」で話が片付いてしまいそうになるのです。

ただ、結果的には、この一連の過程は「ペパー良かったね」となることに最大の重きを置いているわけでもあり、同時に「ザ・ホームウェイ」の深みを高めるための施策であるということもわかるわけです。

現代的なゲームの宿命とでも言うのか、プレイヤーは何よりも自由が提示されることを望みますし、その中で自分がどのような体験をしたいかに重きを置きますよね。ただ与えられた本を読むような旧来のJRPGのナラティブ感というのはあまり取り沙汰されなくなったように思います。この点は「ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザ・ワイルド」が国内市場に提供したものというのがかなりゲームチェンジャーだったと思いますが。

プレイヤーは自分の意志で3つのルートを攻略し(まあ義務感もそれなりにありつつですが)ペパーのストーリーを進めていきます。この過程で、プレイヤーはペパーの人生そのものをただ読まされるのではなく、まずペパーという少年の動機に共感し、助けてやりたいと思うようになります。愛犬の病気を治してやりたいと言われて全く興味がわかない・共感できない人というのは、まあ、うーん、それなりにいるでしょうが、そんなに多数派ではないでしょう。この辺は緻密に計算されていると思います。

つまるところ、プレイヤーはペパーを友人のように思い、その動機にも目的にも共感するというところが最初にあるわけであって、その後で「本当に読ませたいストーリー:ザ・ホームウェイ」が展開されるからこそ、彼の苦悩や決断といった在り様から深い感動を得られるのだと思います。

これが、最初から「このゲームはペパーが主人公です。この男の人生の物語です。プレイヤーはそれを見て助ける者です。他はサイドストーリーですが一応作りこみました」などと誰の目にも明らかなように定義されれば、おそらくポケモンSVは「感動の大作」と評価されることはなかったと思います。導線を感じさせないで、自由に選択する物語の中で自然に感情移入をさせる。SVはこの難題にうまく答えたわけです。

(あまり詳しくは書かない方がいいと思いますが、この点、ポケモンSMで一部からボロカスに批判されているところを見事に解決したと思っています。)

なお、DLC「ゼロの秘宝」のストーリーについては、特段私が語ることはないかなと思いますが、最後の方でちょっとだけ書いてます。

 

サウンドが極めて高いレベルのゲーム体験を作っている

音が良かったねってだけの話をややこしい言葉で書いているだけです。Toby FoxのいわゆるToby節がビンビリに効いている楽曲はやっぱり花形で、「南エリア」(最初にコライドン/ミライドンと冒険を始めるであろう場所)の旋律が、楽園防衛プログラム戦(「戦闘!コライドン・ミライドン」)でアレンジされて流れるというのは、古き良きJRPGの素晴らしさ。あそこは耳で多幸感に満たされ、頼もしい相棒の姿に視覚的に胸を打たれ、仲間たちのテキストで涙腺が緩むという、まさに「ナラティブのなんたるか」を体現しているようなシーンだと思います。

個人的には(多分、佐藤仁美担当だと思うんだけど)「決戦!ネモ」のキラキラしたエレクトロニカのステップワークとでもいうべき音の跳ね方が、一番好きなポケモンBGM「戦闘!チャンピオンアイリス」を彷彿とさせてすごく良かったです。どちらのバトルも「純粋なバトルそのものを心の底から楽しむためには、真に優れた(あらゆる意味で)トレーナーと、極限まで鍛えられた(あらゆる意味で)ポケモンたちがそれぞれに必要」という文脈が同じなのもいいですね。健全いいよ。

あとは、テラレイドバトルという苦行のBGMをポケモン音楽史上屈指の名曲として美麗かつ勇壮に仕上げてくれたおかげで、あの遊びの不快感がずいぶんマシになりました。藍の円盤の最後、「戦闘!ゼロの秘宝 テラパゴス」でアレンジされた時も、すんなり入ってきたし、ちゃんとクライマックス感と高揚感を感じられたのは良かったと思います。テラスタルの総本山感がちゃんとあった。

 

ポケモンたちの魅力と世界感の高レベルのマッチ

ポケモン、まあ、俗に言う「パルデア戦闘民族」のバトルフェイスの連中ですが、彼らがみんな生の躍動ありありと生きている自然感・野生感は素直に感動しました。表現的にゼルダの影響はかなり受けていると思うんですが、モーションも細かく設計されていて、生息感を感じられる点もよかったです。デザインもみんな良かったですね。あきらかに「外しにきてる」スコヴィランとか、性能はこれ以上盛れないけど愛で使ってくれって顔をしている仮面ライダーブラックサンとか、キモがられてるけど俺は好きなヘイラッシャとか。あとただの鳥とか、ギリギリ著作権セーフねずみとか色々いましたね。ラウドボーンのおしりがかわいくて大好き。

そして、そんな初めて出会う生きているポケモンたちの魅力と、「こいつらはなぜここに生きているのか」というのが直感的に矛盾しないこと。これもかなり素敵でした。特にいいなと思ったのはナッペ山に向けて登山を開始した時ですかね。雪山に初めて足を踏み入れた瞬間に、アルクジラの大群と遭遇するわけですよ。ぽてぽて歩いていてとてもかわいい。「標高が上がって、植生も変わって、ポケモンの生息域も変わるんだなあ」というリアルな肌感覚がありました。なんでこういうのレジェンズアルセウスではあんまり感じなかったのか不思議なんですが、まだ言語化できてないです。

あと細かいところですが、ゴーストタイプのポケモンは廃墟や人の手の入っていない場所に集中していたり、ぱっと見て野生生物感も鉱物感も薄い、たとえばスリーパーやらサーナイトやらといったポケモンたちの多くも廃墟や街の近くに住んでいたりなど、生態系の雰囲気をなるべく壊さないように配置されているのもお見事でした。ガバイトやヤトウモリがちゃんと洞窟にいるのって当たり前なようで当たり前じゃないですからね。

とか思ってると、逆に湖に寿司に擬態したドラゴンポケモンが落ちていて「なんだポケモンかと思ったら寿司か…」ってなるわけですけど、そのギャップをつけるという意味でもかなり良くできてたのかなと思います。

 

対戦が楽しすぎる

対戦が楽しすぎますね。(もちろん悪いところでも触れるので安心して欲しいんですが、)環境が目まぐるしく変わり、3日前の戦術がもう通用しないなんてことはザラにあるっていう、webサイトやYoutubeを中心としたインフラの普及とそれによるメタの回転と、適時最適な解を探すという試みの駆動感がすごくよかったです。私はシングルバトル:ダブルバトル=8:2くらいでやってるのでダブルについてはあまり語れるところがないんですが、シングルって完全に構築ゲーだと思ってるので、構築にずっと頭を悩ませることができるのは本当にいいなあと思います。

ラスタルも最初は「こんなのただのじゃんけんじゃないのよさ」と思っていたんですが、結局は理にかなってないテラスタルは駆逐されていきますから、そこそこの順位より上ではびっくりテラスクソバトルみたいなことはあんまり起きない(起きないとは言ってない)ので、いかにして負け筋を潰すかという健全なポケモンが比較的できていたと思います。零度パオジアンだけはちょっと、かなり、絶望的に不健全なので没収していいと思いますが。

対面テラスじゃんけんが発生するリスクを立ち回りでどこまで下げるかとか、どの程度のリスクは割り切ってどの程度は受け入れるのかとか、相手の構築見てテラスタイプをだいたい割り出しちゃおうぜとかっていうのは本質的にはメガリザ検定と同じなので、そこまで苦痛ではないむしろ楽しい、って感じでした。

今作に限ったことではないですが、ちゃんと構築を練れば、使用率50位くらいのマイナーを組み込んでも、それが理にかなってさえいれば、まともに勝ちを量産できるという経験は結構気持ち良いですね。HBベースのブジンでパオウーラぶっ飛ばすの本当に気持ちいいです。一番勝率が良かった時はレギュEの初期で、ブジンセグっていう誰も使ってない並びで13連勝とかして気持ちが良かった。でも本当はカイリューサーフが好き。

 

悪かった点

夥しいバグ、細かい仕様と意味不明なUIの不便

はい。今更言うことでもありませんね。だいたいはパッチで修正されています。ですが、未修正のものをお出ししている歴史上の事実そのものは変えようがないので一応触れます。

バグに関してはもう本当にお粗末以外の何物でもないです。ランクマが開幕するまでの間みんながあれこれ試して遊んでいたオンラインカジュアルマッチで対戦開始時の乱数が固定されているという意味不明なバグ、増殖バグ、グラフィック面では地面に埋まるバグ、浮遊バグ(たぶん仕様と言い張ってこのまま続く)、主人公の体が愉快なことになってしまうバグ。バグではないですが、初期版では処理落ちがひどすぎて野生のポケモンと遭遇するのが苦痛なレベルでした。

仕様の不便さは慣れてしまえば…と言いたいのですがいまだに不便さを感じ続けています。代表例はLRページ送りが全体的に廃止されているという点です。ポケモンに道具を持たせるときに爆速でスクロールする道具欄から目星の道具のアイコンを瞬時に見抜いて目止めする技術だけが高まりました。「よく使うアイテムをピン止めする方法がある」とか言われるかもしれませんが、普段の努力値振りのために上の方はすっきりさせておきたい関係上、固定できるのはせいぜい珠と拘り3種にチョッキくらいが関の山で、たまに使う粘土とか脱出パックは結局探す羽目になります。他にも選出画面の仕様の意味不明さ、対戦画面のタイマーの不備・不在…。まあ、いいです。

意味不明なUIは枚挙にいとまがないので2つだけ本気でうんざりしていることを書いておきます。ひとつはマップの最大引き画面で「空を飛ぶ」ができないことです。これに関しては技術的にどうこうではなく、こじゃれたグラフィックを優先して利便性を切り落としているとしか思えません。もうひとつはカメラ機能からトレーナーカードの更新に直通させる方法がないことです。「偶然取れたこの写真いいね」となる可能性が考慮できないのはどう考えてもおかしいですし、そもそも同じシステムを使うはずの機能を最終的な格納先が違うだけで2系統(アイコンも含めると3系統)用意しているのが実装上意味不明です。

この辺は新しいものをリリースするたびに今後も向き合うことになる現象だと思います。全体的な作りこみがコンシューマのフルプライスとしてはかなりありえないレベルになっていると言わざるを得ません。藍の円盤でもマーイーカバグが有名ですよね。

 

ユーザーを舐めているとしか思えないお遊戯レベルのミニゲーム(レイド含む)

はい、ジムチャレンジとサンドイッチに代表される虚無時間のことです。ジムチャレンジについてはもう語りたくもありません。ミニゲームのどうしようもなさはSMからずっとそうですね。

サンドイッチについては、剣盾のカレーの頃からかなり嫌な予感はしていたのですが、ここまで意味のないものを提示されると正直、大変な気分だなということです。(悲しいかな色厨なので)繰り返し試行により作業が最適化され全く気にならなくなりましたが、それは虚無時間を作業的に済ませることが可能になったというだけで、ゲームの面白さには一切貢献していませんし、むしろストレス要素になっています。

これが、過去のポロックなどのように「完成品をストックできて、いつでも使うことができる」という形式であれば、おそらくここまでストレスは溜まらなかったと思います。むしろ友人とサークルを囲んで高ランクのサンドイッチを量産するというような遊びが成立したかもしれない(ランダム要素もつけて)。効果時間が30分のパワー要素を適宜料理してつけるというシステム、そろそろやめられないかなあと思う次第です。まあサンドイッチは操作性とレスポンスが終わってるのでどうせアレですが。

レイドバトルも全く同じ理由でダメですね。剣盾からずっと言われていることですが、ポケモンのゲームシステム上、同じ作業を延々と繰り返しやることになるわけですから、「失敗:何も得られないで時間だけが無駄になる」があり得る構造のゲームを作った時点でストレスにしかならないです。私含めハピナスレイドしか周回しないという人が多いのは、動作が不安定でひたすらに時間のかかるゲームをやらされているのに「たまに負ける」のが不快でしかないからです。例外は「最強レイド」や「イサハ・ミナモレイド」でしょうね。あの辺は「ただ1度きりの獲得」を目標に据えているものが多いので、そこまで嫌われていない印象です。

鬼退治フェスは難易度調整がされて比較的クリアし易くなったと聞きましたが、結局木の実全部回収してからはやってないですね。あまりにもつまらない。アッキが全然でなくて吐きそうになりながら何周もしました。募集掲示板がなければ心が折れていたと思います。ご一緒した皆様に心より感謝します。

 

(シングル)対戦環境のバランスが(一部の強ポケのみによって)取られすぎている

正直言って、贅沢な悩みであることはわかっています。が、これは結構多くの人が感じていることだと思います。このゲームは環境上位のポケモンたちによって作られたメタが極めて強固であり、「何かしらの一点の対策によってマイナーポケモンが輝く」という可能性をボコボコに封殺しています。カイリュー・ハバタクカミ・オーガポン・パオジアン・ウーラオス・サーフゴー・テツノツツミ・ガチグマ・ディンルー・ランドロス・塩…。

だれか1匹が化け物じみた強さを持っているわけではなく、こいつら全員が化け物です。並以下のポケモン1.5匹分どころではない、2~3匹分の強さを持っています。このうちのだれかにガン刺さりするマイナー戦術を閃いてウキウキでレートに潜っても、まずその仮想的が必ず出てくるわけではないですし、運よく仮想敵と当たっても、仮想敵と一緒に出てくる他の連中もちゃんと化け物なので、3秒でプラン崩壊、そのまま世界崩壊でswitchを投げてさようならです。こんなことに軸足を置いていたら一生まともに対戦が成立しません。

もちろん、こういうことを言うと、「レート上位報告のPTにマイナーが入っているのを見たことがある」「んんwww役割論理で2000達成報告がありますなwww」「厨パを知らんのか」「サンダー時代を知らんのか」という意見が出てくるとは思うのですが。まあ、個別の回答は控えますが、そうはいってもみんな窮屈さは感じているはずです。そう、とにかく窮屈なんですよね。

もちろん、環境は回っています。ハバタクカミの電磁波採用などは初期ではあまり見られなかったもの(シーズン3での電磁波の採用率は10%;シーズン12では驚異の30%)ですし、パオジアンのテラスタイプの流行り廃れは毎シーズン変化します(シーズン10とシーズン11の間だけで悪テラスが22%も増えています)。他にもウーラオスがパンチグローブを捨ててスカーフを巻きだしたり、ディンルーのテラスタイプが毒になったり妖になったり、カイリューの型が200色あったり。ブエナツツミがアンコールしてくるよなあ、というのがかなり常識に近くなった後で、眼鏡ツツミがドロポンで全てを破壊してきたりすると。こういったメタの回転はかなり目まぐるしく、環境変化は確かにあります。

ただ、それはこいつらの中で変化を回しているだけです。この点は、テラスタルはもとのポケモンが強ければ強いほど真価を発揮するシステムだからというのが大きいです。

ましてや「出し負けたら最後、半端な耐久では半減だろうと絶対に受けきれない」ほどに崩し性能の高い駒や、「変化技効かないのに火力も耐久も耐性も申し分ないサーファー」が追加されていますから、マイナー戦術の苦しさたるやということですね。要するに、強いポケモンたちの層が厚すぎて、一般ポケモンのほとんどは何もできることがないという状態になっているわけです。人外魔境です。

まあ、私自身はこの「最強ポケモンたちが身内ノリでお遊戯を回している」感じの環境は正直めちゃくちゃ好きなので、マイナーポケモンなぞ使えなくても一向にかまわないのですが、「動画ネタを欲している実況者」様がたと、「それを見ている視聴者」様がたは、かなり苦しいだろうなあと思っています。また、ここが苦しいとコンテンツのブームが冷え込むのが早くなりそうな気がします。

 

パケ違い準伝説(本編クリア必須)という狂気

あまり長く書くと怨嗟の声で危険な記事になってしまうので、この件についてはできるだけ控えめに書きます。

これだけは、正直、端的に申し上げて「うんち」です。イサハとミナモは期間限定レイドで捕獲数固定でしたが、サブロムとアカウント(およびswitchオンラインファミリープラン)を必要数用意するだけで複数個体を瞬時に獲得できる仕様でした。まあ皆さんだいたいそれぞれ2, 3匹は捕まえたと思います。イサハにそれだけの価値があるかどうかは別として、交換の種にはなりますしね。ただ、ウガツホムラ、タケルライコ、テツノカシラ、テツノイワオに関しては、絶対に本編のストーリーを進める必要があります。そのうえでバージョン違いです。そのうえ、USMの頃のように無制限捕獲でもありません。1周につき1匹です。こんなのダメだって。ダクマだってもっと良心的だったよ。涙を流しながら年末年始に周回しました。バッジのレベルキャップ制度も判定基準が親IDでなく入手レベルに変わったので、周回すら面倒くさい…カラミンゴRTAにはお世話になりました。

 

そういえば…

 

伏線って全部放り出した感じで良いんですか

藍の円盤が終わり、番外編も終わりましたね。これ以降、SVとしてのストーリーテリングは出さないということでしょうか。まあ公式からのアナウンスが何もない以上は「わからない」で終わらせていいのでしょうが、少なくとも私が認識している限りでは以下の内容については一切触れずじまいというか、わからないままで終わっています。

 

パラドックスポケモンの時系列上の矛盾(特に未来組)の理由は?

・(ネットの邪推や考察レベルですが)大穴とカロス神話と厄災、相互の関係は?

・なぜテラスタルエネルギーがタイムマシンを可能にしたの?(テラパゴスには願いをかなえる力がある?)

・オーガポンと共に生きた異国の男とは?(ヘザー?)

・あいつらなんで生き返った?

スグリのアレなに?(十中八九αのアレだろうけど)

etc. etc. etc....

 

特に「パラドックスポケモンの時系列上の矛盾」についてはかなり重要で、これはつまり「未来(過去)のポケモンを現代の博士がタイムマシンで呼び出したのに、それよりも200年ほど過去に生きていたヘザーがそのポケモンたちの存在を知っている」という点です。これは作中でペパーがわざわざ言及しています(エントランスホールのバイオレットブックのシーン)。

 

時空のゆがみでうんぬん。

実際は過去とつながってうんぬん。

またはヘザー自身が未来に行っていてうんぬん。

あるいはタイムマシンがポケモンをヘザーのいる時代に送ってしまってうんぬん。

 

いうような説明をするなら、それはそれで1文で済むので、どこかでして欲しいなあと思います。こういうのアニメで回収というのはちょっとナンセンス寄りですよね。ひとつの作品で閉じてないというのが。

まあ、全部まるっと投げられて終わりなのかなという感じもします。少し残念。

「いやもともとポケモンなんてそんなもんだろ」と言われればそうなんですが、少なくともUSMの頃なんかはウルトラビーストの起源だとか、どんな世界から来たのかとかを説明する気概があったじゃないですか。HGSSアルセウスイベントをリッチに作ったりとか、XYはストーリーもそれなりに決着のつく形で終わっていますし、ポケモンも物語の表層の人間関係描写だけでなく、世界の深奥とか伏線についてちゃんと語っていこうというのは流れとしてはあったと思うんですよ。何より、神話を読み解いたりする過程って「冒険」のすごくワクワクする要素なので、ポケモンの原体験としては残してほしいなあという要望もあります。レジェンズアルセウスなんかもそこは比較的真面目にやってましたね(増えた謎の方が多いとか言ってはいけない)。

答えが厳密に提示されていなくとも、冒険でそのヒントを明かす過程があれば良いのです。ミュウツーが生まれた経緯を手記から読んで「はえ~~」ってなる、点字を読んで「はえ~」ってなる、ああいうことです。

ただ、そういうのはかなぐり捨てて、とにかく次の作品を作らないといけないというのがあるのでしょう。このコンテンツ、まず第一に優先すべきは「ポケモン」という不思議な生き物たちそのものであって、次にポケモンたちの生きている世界、次に魅力的なキャラクターたち(おそらく剣盾はここでもう力尽きてしまって)、その後にそのキャラクターたちの魅力を引き出すストーリー(SVはここまではほぼ完璧でした)があって、最後に世界の謎とか伏線とかの冒険要素、おそらくこういう構造ですよね。並行して対戦要素まで作らなきゃいけないのだから作り手は大変ですよ。

現代的なクオリティのゲームを作らなければならないという品質上の課題と、ポケモンの完全新作を3年おきにお出ししないといけない、そうしないと世代交代に対応できない、というシリーズものの淘汰圧とがあり、納期のギリギリまでは何とか作るけれど、これ以上は遅くできないというデッドラインがあるわけです。今ごろはメインのスタッフは第10世代に駆り出されていることでしょうし、SVをこれ以上引っ張って語っても、それはポケモンというコンテンツ全体の発展や寿命にほとんど寄与しない、要するにペイできないと判断されるのは当然のことだと思います。

なので、藍の円盤がああいう形で(スグリの成長までを描いて)終わったのは納得しています。まずはSVが本編でもしっかりできていた「キャラクター+ストーリー」の要素をしっかりと書くことまでを完品とする、とでも言うのでしょうか。そのような着地点の取り方は、完璧ではないにせよ妥当なものです。

 

※余談で、しかも妄想ですが、「博士の存在そのものがタイム・パラドックスのトリガーになっている」というのがストーリー的には一番きれいな落としどころだとは思います。このためにはテラパゴスの覚醒によって得られる真のテラスタルエネルギーの神髄が「持つ者のいかなる願いも叶える」というものであるという前提が必要です。まあ、だから確度は低いですが、「なりたい自分になる」という文脈で語られてきたテラスタルとの相性は良さそうです。以下、妄想。

まず、ヘザーという男が「ゼロの秘宝」を求め、パルデアの大穴に挑みます。ヘザーはそこでパラドックスポケモンと出会います。ヘザーの書き記したスカーレット/バイオレットブックを読み育った博士は「その書物に書かれたポケモンに会いたい」と思うようになり、結果的にテラスタルエネルギーを使ってパラドックスポケモンを自分のいる時間軸に呼び出しました(と、博士は思っています)。

その後、博士は自分自身の時空間転移を試みることになりました。それは自由の利かないわずかな時間でしたが、テラスタルエネルギーがそれを可能にしました。博士は最初の転移で、キタカミの里の「てらす池」にたどり着き、テツノオロチを連れている謎の少年/少女と出会います。彼/彼女から『ゼロの秘宝』なる書物を手に入れた博士は、次にヘザー(まだ探求の旅を始める前)のいる時代に飛びました。そこで博士はヘザーに『ゼロの秘宝』を見せる。ヘザーはそこではじめてパルデアの大穴に何かがあることを知り、その名が「ゼロの秘宝」であることを知る。パラドックスポケモンについても博士に教わり、それを「見たい」と願うようになる。ヘザーはパルデアの大穴にたどり着き、テラパゴスの持つテラスタルの力により(おそらくは本人も無自覚に)、この世界にパラドックスポケモンたちを生み出します。

この考えでは、パラドックスポケモンというものは未来・過去に実際には実在しておらず、ヘザーの願いを叶えたテラパゴス(偶発的かどうかはこの場合問題ではない)によって生まれたものであり、そのヘザーによって夢を見せられた博士がタイムマシンを生み出し、パラドックスポケモンが呼び出される(これは正確には、博士の願いに呼応して生み出されたと言えるでしょう)、そして時空間の転移により博士はヘザーと会う、それによってはじめてヘザーの願いが生まれる――。これがどうどうめぐりで、これこそがタイムパラドックスであると。

藤子・F・不二雄的な意味での。

 

閑話休題

 

そろそろ長期リストラがシャレにならなくなってきました

いや、別にバオッキーを最新のグラフィックでみたいと思っているわけではないんですよ。いや、ちょっと見たいな。腹出して寝ててほしい。というのはいいのですが、長期リストラがそろそろシャレになってないなという点です。僕の勘違いじゃなければ、ミネズミとかコラッタってポケモンが存在しましたよね?というようなぐらい、彼らが遠い記憶の存在になってしまいました。対戦だけが魅力ではないゲームですから、姿だけでも見たいんですよね。

ポケモンはたしかに本編ゲームだけではないし、レジェンズシリーズ(なんかこれ公式の認識では本編扱いらしいですが)やアニメ、カードゲームといったマルチメディアのどこかで活躍してくれれば良いとは思うんですが、それにしたってナンバリングの公式ゲームに音沙汰なしというのは少し寂しい気がします。確かに今後もポケモンの数がどんどん増えていったらこういうことは避けようがないとは思います。たとえばコラッタが第10世代で登場したあと、次に登場するのは第15世代(第10世代の15年後です)とかになるかもしれません。

今は受け皿としてポケカレジェンズ、アニメが存在しているとは思っているんですが、そういう形の受け皿を本当に作ることができなくなったときに、ポケモンって悪い意味でデジモンみたいになってしまわないかなという不安があります。キャラクターが散逸して、まとまりがなくなって、世代間の分断も大きくなりすぎて、各世代が「自分たちのコンテンツだ」と思うようになり、懐古ばかりが美談となり・・・。よそう。

まあエントロピーが増大していくように、いつかはポケモンというコンテンツも散逸化していって、最後には宇宙が無になるようにゼロに向かっていくのでしょうけれど、それまでの時間はせめて、いろんな子たちをコンスタントに見れるといいんですけど。

 

パルデア戦闘民族について

上の話とちょっと関係しているのが、パルデアのポケモンたちはそれぞれ性能が戦うことに特化しすぎているので、これもコンテンツの消費を速めている気がします。今作では爆裂に急速にしかも理不尽なほどにインフレが進みました。このことを「パルデア戦闘民族」「パルデアの器」(相変わらず言われ続けている「ガラルのヒョロガリ」も)などいろんな言葉で表現しているわけですが、要するにこれってポケモンというキャラクターを新しく生産するときに、「バトルでの性能」がありきになっているということです。

まあ、わかります。「ホウエン種族値」のような悲しみをもって生まれてくるポケモンが少しでも少なくなる方がいいというのは、対戦勢からしたら共感できることです。しかしこれは裏を返せば、「ポケモンには対戦以外に自分の相棒の個体を活躍させるコンテンツがない」ということでもあります。それで、極論ではありますが、結局それでも勝てないと判断されて使われなくなったポケモンには、居場所がないわけです。

バオッキーが活躍できるコンテンツ」が、「マスキッパが環境を取れるコンテンツ」が、「ポケモン本編の中」にあると嬉しいんですよね。そんなものを作るのはとても難しいとは思います。しかも対戦以外で・・・何かしらの方法で。たぶん、そんな「何か」の先駆けとして、お試しで作ったのが「シンクロマシン」なんじゃないでしょうか。あれを使って何をするのかはわからないけれど…。

 

おわりに

 

長くなったので最後はごく短く。

とにかく、無数の不満と夥しい不快感はあれど、本当に楽しいゲームでした。個人的にはこんなにポケモンというゲームのストーリーパートを楽しいと感じたのはBWシリーズ以来でしたね。神ゲーといって差し支えないです。

 

以上、ポケモンSVがひと段落したので感想を言う記事、でした。

とりとめのない文章なのに最後までお付き合いいただいた方はありがとうございます。

 

またこんど。

続・世界最強の夢日記

 

全世界待望、世界最強の夢日記、再び。

 

簡単なメモを残しておいて、その日のうちにまとめなおしている。さすがにこんなことを寝起きに書いていられない。僕が起きて3秒でできるのはラジオ体操ぐらいだ。

 

5/8 天使

 

天使と逢う夢を久しぶりに見た。以前も説明したと思うが、僕の夢に出てくる天使というのはリングも翼もつけていない。温水洋一とか、滝藤賢一とかが天使として出てくる。なんか本物は逆に「そう」なんだろうなという妙な納得感があって、僕はそれらが天使であることを疑わない。その日の天使は、偶然同じ喫茶店にきていた中学時代の恩師だった。僕はお世辞にも素行が良いタイプではなかったので、良く問題を起こしては彼の世話になったものだった。とっさに僕は「お久しぶりです」と言って頭を下げた。恩師は、いや、天使なので、「誰?」と言った。しまった、天使だったか……。僕はとっさに「すみません、人違いでした」と言った。「人ぉ?」天使はキレた。天使の地雷を踏んだ。すみません、すみません。

 

この夢を見たので、久方ぶりの夢日記生活がスタートした。

 

5/9 天と地のまにまに

 

とてつもなく大きな沼に向かって空中を真っ逆さまに落ちていく夢を見た。前後の文脈は覚えていないが、飛行機から落ちたのだろう。いつもの僕なら怖いな~と思うはずなのだが、その日はなぜか「これもまた自然の成り行き也」という態度だった。こういう豪胆な男にあこがれた頃もあったが、身に余る自信を持つとろくなことにならないので、どうも自分はくだらない人間だと思っておく方が良い。結論だけ言っておくと、僕はそのまま沼に激突して死んだ。ダイラタンシー流体という類の話ではなくとも、空高くから海に落ちたらまず助からない。

 

起きた時、「あ~~~~よかった」と言った。本心では怯えていたのだろう。それでよい。人は。

 

5/10 ティンバーマン

 

薪を割る夢をみた。来る日も来る日も薪を割る。振りかぶった斧で薪を割る。割った薪でまた薪を割る。薪割りを効率化しようというような向きもあるが、僕はそういうものがあまりピンとこない。薪を割るというのは、メソポタミアの民が粘土版を作ったのと同じような意味で、本質的な労働であって、対価を求める事業ではなく神に対する奉仕のようなものではないのだろうか。それを効率化していくというところが、最終的には工作機械が出てきて、工場化して、結局は非本来的な人間の在り方を呪うという円環に閉じ込められるような薄気味の悪さ、暗闇に向かう意味のない行脚のようで、僕はいつも苦手だ。というようなことを思っていたが、話をする相手もいない。森には僕の斧の音だけがこだまする。僕は屁をこいて、それで目が覚めた。

 

5/11 無と長い髪の女とあいつ

 

見た夢の大部分を忘れた。

他者とのかかわりについて考えさせられる夢だったような気もするが、そうではなく、結局は孤独な内面の在り方を見せつけられるような、実によくある、いつもの夢だったような気もする。そういう夢に共通するのはいつも、長い髪の女が出るという事だ。

つくづく、人間はどうして人間関係というものに最大のドラマを見出そうとするのだろうか。個人の為すべき仕事があまりにも見えていない気がする。僕もまだよくわかっていない。よくわかっていないから、こんなものを書いている。

 

世界最強などと嘯いて。

 

5/12 医者というもの

 

なぜか病気でもないのに病院にいった、という夢を見た。というのは、病院で働いている友人を訪ねたからだ。そいつは僕が中学3年生から仲良くしているやつだ。今書いていて驚いたが、中学3年生というのは、つまり、17年前か。いつのまにか人生の時間の半分を超えていた。ともかく、彼は医者なので、病院で働いている。ちなみに、僕は彼の職場をよく知らない。2年ほど前にどこで働いていたかは聞いていたが、今もそこにいるのだろうか?まあ良い。このままでは、ただの日記になってしまう。日常的に人の生き死にに関わっている彼は、どんどん疲れがたまっていっているように見えた。僕は彼とコーヒーを飲んで、仕事の話をしていた。よくわからない単語がたくさん彼の口から飛び出したが、僕の口からも飛び出したので、たぶんない言葉だと思う。その日は、人がたくさん死ぬ日だった。大型トラックがたくさん死んだ人を運び出していた。

 

なんてことはないそれだけの夢だが、示唆に富んでいる気もする。だがその示唆はずいぶんと言外のことだと思うので、意味はそれぞれ考えてほしい。

それにしても17年か。

 

5/13 僕は後ろ向きな人間だと思う

 

僕とはあまり興味も関心も会話内容も噛み合わない人々の輪の中に入ることになった(ずいぶんと語弊のある言い方になるかもしれないが、僕にとっては、たとえば親族というのがそういう空間である。)そういうとき僕が何をするかというと、ただひたすら黙って相手の話を聞き、合いの手を入れることになる。その日の夢の中でも僕はひたすらに身の無い相槌を打っていた。ただ、その日は、僕が「へぇ~~」という時は本当に何の興味もない時だということが、その場にいた全員にバレていて、馬鹿にするな、見下すな、調子に乗るな、いろいろと怒られた。すみません、そういうつもりはないです。空虚な謝罪が浮かんでは消えていった。つまり、僕は自分の内面で、僕は周りの人にこういう怒りを向けられているのだろうと、自分で勝手に思っているわけである。

 

ちなみにその時の周囲の人たちの会話内容というのは、「カリフラワー星人の不倫について」だった。どうでもいいだろ、カリフラワー星人の不倫は。

 

5/14 宇宙シリーズ

 

僕は宇宙空間をただよう漂流船の最後の生存者だった。変な言い方になるかもしれないが、僕はこういう時はぜんぜん孤独を感じないのだ。僕にとって、孤独とは、相手との相互理解の不可能性に直面してはじめて感じるものだからだ。相手がいなければ孤独もない。やるべきことがシンプルで、欲望などひとつも抱く余地のない逼迫した状況は、居心地がいい。ただ、ひとつだけ困ったことがあった。星々を眺めながら宇宙を漂うのは、想像以上に暇で退屈だ。星々の景色というのは、全く変化のないものだからだ。200キロ以上続く一直線の道路を車で運転していて、周りの景色が何も変わらないというのに近いと思う。それがあまりにも退屈なので、僕は、やはりもう一人くらい生きていてくれたほうが良かったと思った。食糧もそろそろ尽きるが、そうなったらコールドスリープ装置で冷凍保存している他の乗組員の死体を食べるしかないな、と思った。さながら、『アンデスの聖餐』だ。幸か不幸か、デブリが接近している警戒音がした。僕は何もしないことにした。本当はできる限り、死ぬときはシャチに食われたかったが。

 

今思えば、星の海を航行するのは実に退屈だとか、デブリがどうとか、食糧が尽きるとか、夢なのだからもっと自由な世界を創造すればいいのに、僕の脳というやつは、何故こんなことまでちゃんとするのだろうか。

 

5/15 鉄(くろがね)

 

地元の、ケイゴという名前の一個年下の幼馴染がザリガニを手掴みで食べていた。まあこいつだからそれくらいのことはするだろう、と思った。僕は「そんなことしてないで、手伝ってくれ」と言った。ケイゴは眉をひそめたが、口からザリガニの鋏をチロリと出して首を縦に振った。僕はその日、ボロボロに壊れたロボット(清水栄一がデザインするような、下腿部がひし形になっていたり、肩当てが顔の4倍くらいあったりして、顔に牙の意匠が盛り込まれているようなやつだ。ていうか、まあ、まんまラインバレルだった)を解体する作業に参加することになっていた。僕とケイゴはその日の僕の夢の中では腕利きのメカニック(この言葉、ロボットアニメでしか聞かないな)だったので、解体作業をてきぱきとすすめたわけである。ロボットの回路がギリギリ生きていたので、外部制御でコックピットを開ける。コックピットの中は肉の焼けた匂いがした。人がここで死んだのだなとわかる匂いだ。シートには皮膚が張り付いていた。それを報告すると検疫官がかけつけてきて、サンプル収集のために僕たちは外で待機を命令された。念のため全身洗浄も行った。行政命令ということらしい。まったく、仕事というのはいつもこうだ。

 

・・・

 

今回は思ったより愉快な夢を見なかった。いつもはもっとばかばかしくて、愉快で、良いことがたくさん起こるはずなのだが(良いことというのは、別にワハハとかムフフとかそういうことではなくて、たとえば天使にフライパンで殴られるとか、400階建てのマンションから野球を盗み見して怒られるとか、とにかくそういうことだ)、今回はどうにもくだらないことばかりだった。

このままでは世界最強の座を奪われてしまうかもしれない。とはいえ、いまのところ夢日記が「面白さ」や「悲しさ」ではなく「強さ」で競っている例は聞かれないので、いまのところまだ僕が世界最強ということになるだろう。

 

 

そういえば、長らくケイゴとは会っていない。あいつは元気にしているだろうか。まあ、元気にしているだろうし、そんなことは気にする必要はない。あいつに元気がないなら、会いに行けば良いだけなのだから。

 

それをどうやって知るのかというと、実を言うと僕には友達がたくさんいる。

 

僕は後ろ向きだが、それと同じくらい、前向きなのだ。

 

(おわり)

『熊出没注意』を観た。という話。

 

『熊出没注意』という映画を、あなたは知っているだろうか。

 

品川智樹主演、越本春治監督の、あの『熊出没注意』だ。(つまり、ここでは1972年版ではなく、1998年版について話したいのだ。)

 

鐘状蠅太郎の小説『熊出没に注意されたし』を現代的な解釈により美麗にして緻密な映像表現に描き出した本作は、しかし原典の「人間の闇の真髄」とも呼ぶべきグロテスクな心理描写を完璧といっていいまでの相似性でもってその内面に秘めている。

密閉された環境で人々が疑心暗鬼に飲まれる究極の「抑圧」はアルベール・カミュの『ペスト』にも通じる。箱庭的政治においては論理ではなく共同体的結論が優先されるというポリティカルフィクションとしての側面も持つ本作は、ジョージ・オーウェルの『1984年』にその原型を求めることもできるだろう。

90年代後半の終末的世界観を描画したサブカルチャー的世界にも大きな影響を受けていると思われる本作は、エンターテインメントの枠に収まらない、ある種の思考実験的・文学的な意味で「終末世界のシミュレーション」とも呼ばれる。

 

かように多面的な深みを持つ今作を、タイトルだけで敬遠して観ていなかったという人もいるだろう。あるいはそんな映画の存在すら知らない、と言う人も多くいるだろう。というよりはむしろ、「そんな映画があったなら、見たい」と思う人だって多いはずだ。

それほどまでに、この作品は大衆に知られていない。なぜだろうか?

 

それは当然だ。

だってそんな映画はないから。

 

そんな俳優もいないし、そんな監督もいない(もしかしたら僕の勉強不足で、同姓同名の方は活躍していらっしゃるのかもしれないが、この発言にはその方々の名誉を傷つける意図はない)。

だってそんな映画はないから。

 

とにかく、そんな映画はこの世に存在しないので、誰も知っているわけはない。

だが、僕はあらためてこの『熊出没注意』という「ない映画」を鑑賞したいと思った。「ない映画」の鑑賞は、ぼくの趣味の中の大きな部分を占めている。

 

さて、ひとたび『熊出没注意』を観ると決めたなら、最高の状態で観たいと思うのが映画好きの性(サガ)というものだ。願わくば、ポスターとパンフレットをそろえたい。こういうのは儀式的なものだから、意味とか生産性とは関係のないことだ。

パンフレットはさすがにインターネットのどこを探しても見当たらなかった。多分コレクターアイテムだからだろう。そんな映画は存在しないとしても、さすがに値段すらついていないというのは面食らった。ロサンゼルスのアカデミー映画博物館には所蔵されているだろうか。

仕方が無いので、ポスターをAmazonで取り寄せることにした。6800円と高値がついていたが、ない映画であるという希少性を考えるとそういうものだろう。こういう類いのマニアックな商品を頼むには、メルカリなどのフリマアプリは、ただデータを紙ぺらにコピーしただけの粗悪品を押し付けられることがままあるのだ。

 

1週間ほど待って、とどいたポスターは色あせていたものの、果たして想像力をかきたてるだけのものではあった。

ツキノワグマの出没を警告する標識がぽつんと立つ山間林の車道、これだけを映したキービジュアルは、圧倒的な没入感とリアリティでもって視神経から侵入し、僕の大脳をいやがおうにも刺激してくる。文字は広告デザインのようなゴシック体で『熊出没注意』、これだけだ。俳優も写っていない、監督の名前すら書いていない。こんなにカッコいい映画ポスターを作れていた時代があったとは。今の日本には無いものだ。

 

タイミングを合わせて購入していた『熊出没注意』のDVDをビデオデッキに滑り込ませる。Blu-rayが出ればいいのに。やはりない映画のBlu-rayというのは、作るのが難しいのだろうか?採算の問題とか、権利の問題とかがあるのだろうか。僕は映画を観るだけの人だ。評論も、流通も、てんでわからない。

 

さて、あらためて観た『熊出没注意』は、やはり圧巻だった。

 

あまり詳細に書いてしまうと実際に皆さんが『熊出没注意』を観る時に、ネタバレになってしまうから(僕はネタバレというのはあまり気にしない人間だが、僕が気にしないからといって人に気にしないようにしろ、と強要するつもりはないのだから)、大まかな流れを簡潔にまとめようと思う。

 

まず、この映画は、広葉樹のうっそうと生い茂る山地の登山中、濃霧に巻かれて道に迷った男女4名の登山グループが、偶然見つけた小川沿いのペンションに身を寄せるところから始まる。ペンションの管理人(右足が不自由でいつも右足を引きずるようにして歩いているのだが、そのことがこのキャラクターを味わい深くしている)を演じるのが主演の品川智樹だ。当時42歳だったと思う。

品川演じる「管理人」は、その仏頂面の眉をこれでもかとひそめて言うわけだ。「あんたら知らなんのか。知らずにこの山に来たのか」「おれは、人を泊める気はないぞ。おれは物を取りに来ただけだ」「1週間前、ここの下流の村で3人が喰われた」「”ガチリン”だ。ツキノワグマ。」身にまとわりつく濃霧さえ肌で感じるような演技の妙。寒気が画面の中央を横切るように走り、この物語がサスペンスであることを告げる。ほぼ100点満点の導入だ。

強いてケチをつけるなら、不安にかられてペンションを見つけたはずの登山グループのうち、女B(サヨコ、という名前が一応あるらしい)を演じる山田美南の演技がやや軽く、品川の作る世界観にうまく溶け込み切れていないということ、そしてこの映画が実在しないことだろう。

 

ここで重要なことを言っておく必要があると思う。この映画には熊が登場しない。

いや、この映画がないことの方がもっと重要な気もするが、ここではその件についてはないものとして扱う。

 

熊、”ガチリン”(月輪)、規格外の巨大なツキノワグマ。この映画の象徴ともいえるクリーチャーは厳密には「登場している」のだが、その姿が描かれることはない。原典の『熊出没に注意されたし』にて描かれていた熊の視点からの山林の描写を大胆にもすべて削ぎ落している。熊は実体が登場することはなく、ただ自然災害のようなものとして、その予兆と、嵐のような「破壊」と、結果だけをもたらす存在として描かれる。

 

この「削ぎ落す」ところに越本春治の妙がある。というのは、なぜ鐘状蠅太郎が『熊出没に注意されたし』において熊視点の描写を行ったのかを考えるに、「我々にそれを想像させる」意図があったのではなかろうか、というのが越本の解釈であると思えるからだ。鐘状蠅太郎がやろうとしたのは、熊を描くことではなく、熊の息遣いを想像することで読者である我々に対して「未知なる巨大熊の恐怖」というイメージを想像するよう強制したのではないだろうか。その未知性、想像力の内面、デカルトのように言うなら「自己の知性の内側」にだけ存在する象形としての「熊」。

越本春治は、小説をただ映像に起こすことで熊を映画に登場させる(1972年版がまさにそういうもので、正直、着ぐるみの熊の出来の悪さに辟易する)のではなく、この「想像」の怖さ、感覚の部分を映像を通して描こうとしたのだろう。

 

そうだ、ちょうど、僕がない映画の話をしているいまの状態と、かなり似ているものがある。僕としては敬愛する越本監督にシンパシーを感じてほくそ笑むわけだが…。

 

いずれにせよ、熊そのものを出してしまえば、そこに「理解」による安堵が生まれる。これはたとえば宇宙人が地球に侵略してくるというようなスペクタクルの映画を描いたとき、宇宙人の生身の姿が見えてしまった瞬間に怖くなくなるので、可能な限り隠したほうが良い、という構造だ。

 

ともかく、このようにして映画は始まり、男女4人と「管理人」が、熊という抑圧に閉じ込められたクローズドサークルもののサスペンス、ということを丁寧に丁寧に描いていく。管理人がなぜ男女4人をペンションに招き入れたのか、というのは最初「くだをまいているだけで根は良い人が、若者を助けてくれた」というものして描かれるわけである。良い人だから、男女4人を見捨てられなくてペンションに招き入れたのだと。だが一方で、「管理人」はこのペンションに何かを取りに来たのだという。それが何かは教えてくれない。「あんたらには関係ない。おれは飯の準備をする。」これである。

とはいえ、男女4人にとってこのペンションは、ただ一晩を明かして、明るくなれば帰ればいいだけの、寄りかかっただけのいっときの宿だ。ただそれだけのことである。「管理人」の都合がなんであろうが関係はない。当面、ただ面倒を見てくれる良い人、である。

しかしそれだけでは映画にならない。当然、「熊」が襲い掛かってくるわけである。最初の犠牲になるのは男女4人のうちのひとりだ。薄暮時、その人物は外に出て煙草を吸ってくると言って聞かなかった(ここまで言っても、キャラクタの特定はできないので良いだろう)。「管理人」は執拗に、ほぼ怒号に近い剣幕でがなり立てる。「死にたくなければ部屋で吸え。換気は期待するな。あんたの命のことだぞ。」だが、未来の哀れな犠牲者はというとこうだ。「知らないね。」「だいたい熊のことだって、あんたが言ってるだけだよ。そんな話知らない。」「はめ込みの窓で、煙が逃げもしない。部屋で吸えるか。」軽薄なやつだ。だが、仕方ない。最初に死ぬやつというのは軽薄なんだ。

 

ドスン、という鈍い音。ガラガラと何かが崩れる音。漏れ聞こえる嗚咽のような短い、泡立った呼吸音のような断続的な悲鳴。

「管理人」が慌てて、しかしやはり右足を引きずりながら、左手に薪折り用の斧を握りしめ、玄関を押し開く。山間林の夜が来るのは早い。いくつも折り重なった周囲の山の尾根が太陽光線を遮蔽するからだ。まだ午後5時だというのに、あたりは20メートルと見渡せない闇のなかにあった。見えない熊の存在に怯えながら、「管理人」は斧を両手で引き絞るように握りしめた。周囲を見渡し、右足を引きずりながら、「管理人」がようやく発見したのは、ただ体を鋭利な爪で引き裂かれ、ぼろ雑巾のようになった犠牲者の姿だった。

 

そして、ここでようやく『熊出没注意』のタイトルが現れる。

完璧だ。そう、完璧なのである。

 

この映画が主題とするのは熊による襲撃の中におかれた人々の恐怖だけでなく、その中のお互いの疑心暗鬼でもある。サスペンス劇・ミステリ劇を盛り上げる要素は枚挙に暇がない。惨殺されたにもかかわらず、ただのひとかけらも「喰われた」跡の見られない犠牲者、ペンションの玄関階段をくぐるように流れる小川の砂利にこびりついた赤い血と肉片、「管理人」がいつも持っている斧。そして姿の見えない「熊」という存在(言うまでもなく、この「姿が見えない」ことそのものに意味がある)。

 

事実として「熊」は存在するのだ。

「そのような熊がいなければありえないほどの破壊」が、ペンションを襲い、その砦を破壊していく。ただしその姿は最後まで見えない――。

 

人々は恐れ、憂い、互いに疑い、また熊という存在にも怯え、あるいはそれらがすべて虚構である可能性について神経を研ぎ澄ませる。全員が全員に対して「秘密」と「疑念」を持つ状態が自然とでき上がってしまう。「熊」という外部からの抑圧と「人」という内部からの抑圧によって押し引きされるこの極限の箱庭。夜が明けるまでのわずか9時間という時間の檻。手に汗握る人々の舌戦・いさかい・そして極限ストレスにさらされた人々の性的交わりの中で、あらゆる感情が火花を散らすように明滅する。

 

次のシーンが特に好きだ。物語の中盤、朧げながら「管理人」の人となりが、その目的がわかってきた頃。ある登場人物は彼に問いかける。「なぜ、あんたはここに帰ってきたんだ。」この問いに答える「管理人」の瞳は、静かな「諦め」と、しかし燃え盛る「怒り」の光を湛えていて、まるで黒曜石のようにギラついている。答えはこうだ。「おれはどこへもいけない。だからここにいる。」「理由なんてあるか。ただ、おれはここにいるんだ。」

 

何故、「熊」は執拗にペンションを襲うのだろうか。「管理人」は何をしにこのペンションに「帰ってきた」のだろうか。果たして残された男女3人は、「管理人」は(そしてここではあえて触れないもうひとりの重要な人物は)、無事に山を下りることができるのだろうか。

その結末は、あなた自身の目で確かめてほしい。言っておくが、確実にあなたの予想や期待を裏切り、同時に深い感動をもたらす「何か」がこの映画にはある。この映画はただのスプラッタでも、ただのサスペンスでもない。これはポリティカルフィクションであり、思考実験であり、そして(鐘状蠅太郎の言葉を借りるならまさに)「純愛」の物語である。

 

そんな映画はないのだけれど。

 

(おわり)

頼むから俺にMOTHER3の話をさせてくれ。

たのむから俺にMOTHER3の話をさせてくれ。

 

 

MOTHER3の話がしたい。

男の子にはそういう時がある。

 

(以下、いろんな画像を用意しようと思ったが、めんどうくさいのでやめた。)

 

「できるかぎり『作品』というものに誠実に向き合う」ために、この記事で書かれている、というか、僕が書く文章というもの全てに書かれている「ということを意味する」というような断定的な表現は、「それ以外には読めない」ということは意味せず、むしろ「少なくとも僕にはそう読めるし、そう読むのが最も良いと思う。」ということを意味している、ということを前提として理解してください。そして、作品というものはそれが作られた時にはそのような意図はなかったとしても、結果として完成された時にそのような意味を持つことがあり得る、ということを前提として書いてます。

これが何言ってんのかわからないなら、僕の文章は全てこういう表現で書かれているということを鑑みれば、これから先のことも何言ってんのかわからないと思うので、すみません。

 

僕は過去に、いわゆる「MOTHERシリーズ」のゲームを3作、どれも本当に「飽きるほど」遊んだので、実は実際にもうすでに本当に飽きてしまっていて、もう二度と遊ばないんじゃないかというある種の残念な観念があるのだが(たとえば、MOTHER2の地底大陸に住んでいるグミ族で、経済大国に留学経験のあるというビジネスマンの名前は「エーゴ・ステッキ」というのだということや、MOTHERの主人公の飼い犬の名前は「ミック」であり、これは主人公の母親の初恋の相手の名前である、といったことを覚えている。それに、MOTHER3の引き継ぎバグでボニーの装備品を最終章まで持っていく手段を独力で発見したりした。どうでもいいな。そう、こんなことはどうでもいい。どうでもいいがこんなことが矢継ぎ早に出てくるくらいには飽きるほど遊んだのだ。記憶の引き出しの浅いところにMOTHERが入っている。)、そんなMOTHERシリーズについての話を他人と共有する機会はあまりない。というか、身の回りにMOTHERを通ってきた人がすごく少ない(じゃあこれは誰に向けて書いているのだ)。とはいえ、MOTHERシリーズはインターネットでは相当有名だし、あのC級コピーライターも相当に有名だ(これは僕の言った悪口ではなく、ガキ使の釣り企画で糸井がそう呼ばれたということを踏まえたネットミームで、僕はそう呼び続けている)し、そういう意味ではいつでもそれを語るコミュニティーに入ることはできたはずであるが、僕はしなかった。

 

というのは、どうも、彼らはあまりMOTHER3が好きではないようだからだ。

 

MOTHERシリーズの話になると、どうにも「MOTHER2は傑作で、MOTHERの話というのは2の話さえしておればよく、1や3は取るに足らない作品である」という扱いをされがちだ。よしんば1はまだ何かサウンド面での良い評価を受けているとして、3などは「やらない方がいい」と言う人までいる始末だ。

特に2010年代前半のインターネットではそれは支配的な意見だったように思う。

 

今回は、MOTHER2や1をこき下ろしたいわけでもなければ、MOTHER2を大好きだと言うみなさんの神経を逆撫でしたいわけでもない。そういう意図はないということは認知してもらえればと思う。MOTHER3を褒めることで逆張りの感性を主張したいのでもない。何かを語る時、言外のニュアンスを持たせないことは難しいし、「何を書かなかったか」ということは証明ができない。夥しい但し書きをのせるわけにもいかないので、そんな下品で愚劣なことはしないが、とにかくここで言いたいのは、単に、本当に、僕は単純に、常に、いつも、その「何か」の話がしたいだけなのである。

 

そして、まさに僕はいま、MOTHER3の話がしたいのだ。

 

遊ぶゲームとしてみたMOTHER3

まず、ただのストーリーテリングだけでない、インタラクティブなゲームであることの魅力がものすごく詰まっているのがMOTHER3だったりすると思う。ここで言うインタラクティブというのは、「こちらから働きかける」ことと、「ゲームがこちらに働きかける」ことが双方向的に同時に存在していることをいう。当たり前のことだが。

古今東西様々なゲームには、いろんなインタラクティブ要素がある。勇者になった気持ちで自分を頼もしく誇りに思えるものもあれば、悲恋に涙を流せるものもある。

そしてMOTHER3のそれは、かなり特殊で、「巧みな視点の往復」と説明できると思う。

  

最低最悪の頼れる男

ヨクバという悪人に奴隷として使役されるサルサという名のサルは、ヨクバの意に沿わないことをすると電流を流されるという懲罰を浴びる。これは割と強烈で、このヨクバというやつがまあ、本当に最悪な人間なのだ。

こいつは単純に嫌なやつで、サルサを従わせるためにビリビリをやって調教をしてるんだと思いきや、本当にただ楽しくてビリビリをやっている。のである。

 

「楽しんで暴力を振るう」というような大人というのは、MOTHERやMOTHER2には(ほとんど)いなかったように思う。だいたいの場合は「強迫観念」とか「神経症」みたいな感覚で、暴走した自意識が暴力として現れているような…。ようするに、みんな「怒って」人を殴っていたんだな。あるいは不安の中で、暴走してしまって腕を振った先に少年がいるというような、暴れている哀れな奴、と言う感じだった。

 

似たような話で、ぼくはMOTHERシリーズの敵の中でMOTHER2のシャーク団が一番怖かった。ムーンサイドや3のタネヒネリ島より、はるかにシャーク団が怖かったのだ。理由を今になって考えてみると、彼らはヨクバと同じように「楽しんで」暴力を振るっていたからだろう。笑顔で攻撃をしてくる人間というのは、こわい。

怒りには理由があるけれど、たいてい、笑顔には理由がない(ように見える)からだ。彼らは狂っているわけでもないし――その顔色はうかがえないが、とんでもなく暴力的だ。そういうものが、僕はいつも怖い。

 

こういうやつを見ると、苛立つとか、恐怖するとか、関わりたくないとか、逃げたいとか、そういう気持ちになる。それがサルサの視点だ。

 

そうして、そういうやつが、得てして雨の日に子犬を拾っていたりするのである。そこまでのことはしなくても、拾った財布を気まぐれに交番に届けたりもするだろう。自分のおばあちゃんのことがとても好きかもしれない。

一見すると理解できない横暴なやつも、ちゃんと人間なのだ。人間にひとつの側面しかないことはまずないし、それを思うとぞっとする。

そういうことを考えた時に、(この話はあとでちゃんとするが)そういうやつの頼れる部分や、温かみのある部分が、なぜか他の最悪な部分に先立って現れて、ことさら強調して感じ取れてしまうことがある。

まず、ヨクバは戦闘面では非常に役に立つ。申し分ない相棒である。悪人であることは違いないが、彼は仕事として悪行をやっていて、部下とのコミュニケーションもまあ、横柄ながら取れている。要するに、すごく嫌な、しかしかなり仕事のできる上司、なのだ。自分が彼の暴力の被害者でなければ。

つまりは、その目線で彼と触れ合っていれば、彼の暴力まみれのユーモアも、サルサの立場に立っていなければ、少し愉快だ。ちょうど児童向けギャグ漫画がバイオレンスに塗れているように、サルサの目でヨクバを見ていれば最悪な男だが、同時に「プレイヤー」の目には少し愉快に見えてしまう。

 

ゲームとしてのMOTHER3を考える時、いちばんはこのような「ゲームの中に落とし込まれた」心情の変化に対する計算高さ、その心情の軸となる視点が切り替わるものとして作られていること挙げられる。

 

頼れるおじいちゃんは最悪なジジイ

同じような例では、オープニング~1章中盤まではあれほど心が広く強く優しい老人に見えたアレックが、続く1章の佳境ではくだらない笑えないジョークを飽きずに続ける「ちょっとうざいマイペースなジジイ」だとわかる。

こいつ、心が広くて強くて優しかったのではなく、もしかして、頭がおかしいだけではないのか?とか思ってしまう。

 

アレックは婿であるフリント(プレイヤーの操作するキャラクターだ)と一緒にフリントの息子、つまりアレックの孫を探すワケだが、前提としては「アレックの娘」つまり「フリントの妻」はこのストーリーの冒頭で死んでいる。(知ってる人のために書いているのであえて説明することはしないが、基本的にMOTHER3の骨組みはかなりハードな「悲劇」である)

ところがアレック老人は、自分の娘が死んだ直後にもかかわらず、道中ずっとくだらないギャグをこれでもかと飛ばしてくる「相当ウザいジジイ」なのである。

 

アレックの最悪なところは、「今すぐにでも行方不明の息子を探しに行きたい」というフリントの気持ちとなかばシンクロしているプレイヤーにとってはそのオヤジギャグが進行の邪魔でしかない、というところだ。

プレイヤーはオヤジギャグのイベントで強制的にゲームの進行を止められるのでイライラする。典型的な洞窟というような薄暗いダンジョンを奥へ奥へと進んでいて、さっさと抜け出したいと思っているところに、うすら寒いジョークが絶え間なく(本当にしつこい。本気か?って思うくらいしつこい。実際僕は、もういいだろ!と叫んだ。)襲いかかってくる。

 

しかし、当面はアレックしか行き道、その洞窟の抜け方を知らないので、彼に従うしかないーー。よくよく考えれば、アレックは最愛の娘を亡くしたばかりであるわけで、「常識的に考えれば」アレックは「自分だって辛いのにフリント(プレイヤー)を慮ってピエロをやってくれているだけ」だと、一応はわかる。

しかしそれが永遠に空回りしている。ムカつく。そうすると次第、心の中に「こいつはサイコパスなので、娘が死んでもなんともないのでは?このまま俺も殺されるのでは?」なんて疑念が湧き起こる。いい人であるはずのアレックを、死ぬほど鬱陶しいと思ってしまう自分の感情に対して、脳がめちゃくちゃにオーバーフローして、認知不和を起こしているのだ。

 

こんなふうに、一見すると悪意であって、しかし実際は善意であることは分かっているのに、それが「悪意」をもって受け取られてしまう。

キャラクターの見え方がさまざまに変化することを、人間の多面性を表現する、というのは容易いし、「物語がインタラクティブ性を持つ」というのも易しい解釈だが、それを実際のゲームプレイをするプレイヤーの感覚の中に落とし込んでいくというのはよくできたものだと思う。

ものすごく悪趣味だけど。

 

ネンドじんの悲しき労働

このゲームで最も趣味が悪いのはネンドじんだ。ネンドじんはネンドでできた謎のゴーレムだ。それは基本的には単純作業労働の従事者で、頭はあまりよくなくて、いや、もっと言えばそれに自我があるかさえ、かなり怪しい。工事現場や鉱山などで延々と働き続けているナゾの存在、それがネンドじんだ。

 

ネンドじんは疲れてしまうとただの粘土になってぺたんこになってしまうので、電流を流して充電してやらないといけない。

ところがネンドじんは自分たちに充電が必要だということを理解する頭脳もないのか、電池が切れてきても、ただのろまにその辺りをうろつくばかりなので、主人公はこの電池の切れかけのネンドじんを押して押してエレベータまで運び、電流を叩き込んでくれる上司の元まで運ぶ必要がある。

これがRPG的にはミニゲームのようなものなのだが、はっきり言って、このミニゲームをやることによる報酬だとかやり込み要素だとかというのは皆無だし、面白くもなんともない。ほんの少しのお駄賃と、ストーリーの進行に必要なフラグが立つだけで、愚鈍でめちゃくちゃな方向に行こうとするネンドじんを押して押して、時間をかけてクリアすることに喜びだとか達成感だとかストーリー的な必然性というのはまるでない。

単に鬱陶しいだけなのだ。

 

なぜこんなにももたついた、テンポの悪い、時間ばかりかかる操作が必要なのだろうか。だいたい、ネンドじんは命令されればちゃんと労働をするのだから、「電池が切れそうになったら充電しにこいよ」と命令しておけば良いだけに思う。なぜ電池が切れるまで彼らは働くのか。そして、それを引きずり充電するという無意味で生産性の低い労働が要求され、そのために子供が動員されて全体の賃金水準が下がる。

 

このあたり、良いデフォルメがされているようには見えるが、労働というものが本質的に陥りがちな「無の生産」を見せられているようで、かなり胃に来る。当人たちに無を生産している自覚は全く無い。

もしかするとネンドじんは、もう二度と充電されたくないのではないか。ただの粘土の塊になってしまいたいのではないか。朝から夜までクタクタになるまで働いたら、部屋の畳に向かって溶けていきたいのではないか。それを叩き起こして「電流を流す」ーーポップな作風の中で、主人公はあからさまな加害者になる。と、ぼくが感じている。またぼくはアレックを異常者と断じた時のような認知不和を起こす。

 

しかし「ハミングバードのタマゴ」を抱えたまま暴走し、最後にはただの土塊(つちくれ)になったネンドじんの一体を見た時、ぼくは「やっと眠れるのか」と、そんなふうに思った。彼らは土塊に還ることで本来の生を取り戻した。つまり、大地の中で、死にたいときに死ぬということだ。ハミングバードのタマゴは疎外された本来性を回復する目覚めの薬かもしれない。

そう思うと、実に趣味が悪い。そう思わされていることが、だ。

 

ちょっと笑えないMOTHER3(正義と悪のちょうど真ん中)

こんな具合に、MOTHER3はそもそも悪趣味な「なんだこれ」がたくさんあるゲームだ。それを肌で感じる部分がすごく多い。そんなことを考えながら遊ぶと、熱病にかかったようにふわふわしてきて、具合が悪くなってくる。脳が高速で回転しているようだ。そこには無限に続くサイケデリックな世界がある。

そしてこのゲームはまさに、それが素晴らしいのだと思う。僕は、MOTHER3の「泣ける部分」とか「笑える部分」も好きなんだが、こんなふうに「ちょっと笑えない」部分が特にとても好きなのだ。

 

マジプシーって笑えない。

笑えないけど笑える。マジプシーとは素敵な人々のことだ。とにかく素敵である。

 

素敵だ。

素敵なのでPSI(Psionics:超常)の力が使えたりする、大昔から生きている。事実上の不老不死というか、大自然や雲や風といったものに近い存在だ。イメージだと妖精とか、仙人に近い。

 

しかし、そんなマジプシーたちも、ただ素敵なだけの美しい人々かと思いきや、やはり人間ではない存在であるがゆえか生死について達観しているところがあり、そういう意味では時折ギョッとする一面も持っている。

「私たちマジプシーは人の生きる死ぬなんてことにはキョーミなんてないの」

「人間なんて生きるにしても死ぬにしてもせいぜいたった100年。瞬く間じゃないの。そんな短い命にこだわってなんになるの?」

昨日の今日に妻を事故で失い、長男が行方不明になってしまった男の目の前でこんなことを言うので、背筋にビリリと緊張感が走る。同じ部屋に居たくない感じとでもいうのか。フリント(妻を失った男だ)はいい大人だし、疲れているので、このくらいのことで語気を強めたり叫んだり殴りかかったりはしないが、絶対にキレている。それがわかるので、プレイヤーの僕は「ちょっと外で煙草吸ってきます」という気分になるのだ。

(フリントは一方で、妻の死を知った時、気心の知れた村人には殴りかかったが、あれはフリントの甘えだし、弱さでもあって、そこの整合性は取れていると思う。)

 

で、そんなことを言ったやつがいたかと思えば、

「ちょっと!ミクソリディアちゃんにフリギアちゃんってば・・・。そんな短い命にこだわるのが人間なのよ。ねぇアレックちゃん・・・。私にはあなたの気持ちはわかりすぎるくらいわかるわ」なんて言うやつもいる。

 

この、ちょっと最悪な感じは、すごい。

これは確かに気遣いではある、そして、確かに気遣いそのものは優しい。しかし絶対に「わかっていない」だろうし、一番頭にくる「短い命にこだわる」という言葉の部分がそのままなので、余計に神経を逆なでしてきてピリつく、絶妙に空気の読めていない「嫌」な会話だ。本当、このあたりの「嫌さ」の解像度が高い。

しかし、やはりというかなんというか、この「生死についての達観」も、物語についてマイナスの要素だけを与えたりしない、というのもMOTHER3ワールドならではで、ちゃんとフォローというか、別の側面の解釈を与えられることになる。

 

マジプシーは生死に執着しない。自らが命の役割を終えて消滅するときも、そのこと自体に悲しむことも無ければ、身内の者との別れを忌避するという様子もなかった。マジプシーは自然の一部、仙人のようなもので、大自然の決定としての死に対して初めから織り込み済みだとでもいうのだろうか。

「きえたりもしてるけど わたしはげんきです」C級コピーライター渾身のギャグ。

ここで「短い命にこだわる」と言う言葉を思い返す。

たしかに、ある意味では命の終わりを受け入れることは生を見つめることにもなる。生死を達観しているマジプシーの方が、人間よりも正しく命について向き合っているのかもしれない。それに、やはり「短い命にこだわる」ことも否定はされてはいない。死ねば全て終わり、命には限りがある、そのことにこだわるのが人間なのよ。

「こだわる」というのは、それなりに含みのある言葉だったのかもしれない。まあそれはそれとして、最初に聞いたときはすごくムカつくんだけれど。

 

かなり笑えないヨクバ。

またヨクバの話。ヨクバってどう考えてもどう見てもすげー嫌なやつで、すげえ嫌なやつだなって思うのだが、「嫌なやつだ」という短絡的なキャラクター付けの先にいる「人間み」が少しずつ匂ってくるところがある。これがまた最悪でいい味がするのだ。

もちろんゲームプレイの中で。


主人公たちに負けるたび、サイボーグ改造手術を受け、どんどんラッパが増えて行って(意味不明)どんどんサイボーグになっていくヨクバ。最後には通訳を付けなければコミュニケーションを取れないほどに機械化が深刻に進んでいく(会話はもちろんラッパの音色でする)。しかしヨクバの個性はここへきて極まっていく。なんだかもう、哀れになっていって、少し笑っちゃう部分が出てくるのだ。ヨクバが地位と権力と力をすべてを持っているときと言うのは結構最悪なやつだったんだが、こうなってしまうと「おもしろいおじさん」になる。この「失っていくことでむしろ人間味を持つ」、というのは普遍的だがよいアイロニーだ。

 

確かにヨクバは強敵だが、こうなってくると「哀れなやつ」だ。哀れな奴は笑えてしまうし、少し好きにもなってしまう。なぜかというと、「僕たちが彼を見下すことができるから」だ。

これもまた最悪だ。僕たちは自身の中の悪性をまざまざと見せつけられて、それを味わうことで初めて彼を倒すことが出来る。そのある種の禊が、彼を超えるということになる。

「ネスの悪魔」などなくても、人は十分に自身の悪性に向き合えるのだ。それではじめて、ヨクバと言う「人間」を見ることになる。かつてアレックに対してむかついたように。

 

さて、ヨクバは敵なので、やっつけなければならない。MOTHER3の世界観に即した文法で言えば「殺さなければならない」。だけれど、「悪いやつだ」という評価の先にある人間味(ここでいう人間味というのは、朝ごはんはパンだろうか、米だろうか、ベッドで寝るときは仰向けだろうか、横向きだろうか、とか、そういうレベルの解像度の話だ。)を知っていくと、「ああ、これ以上こいつに入れ込むと、こいつを殺すことができなくなるだろうな」というような恐怖が湧いてくる。

 

それは「殺せなくなるかもしれない」という種類の怖さだ。ふつう、友達や親は殺せない。「それ」を想像するのも嫌だろう。しかしゲームの敵なら殺せる。それはその人の肉体の感覚を、息遣いを想像できないからだ。それをしてしまう(かもしれない)と思わせるのは、相当な怖さだ。

「キャラクター」が「人」に見えてきたら、もう、殺すことができないかもしれない。

 

それでもこのゲームは殺させるのだ。

しっかりと、この手で彼を殺させた後で、さらに追い討ちとばかりに彼が「命を持つものだった」のだということがわかる話を持ってくる。(やったことがある人は分かると思うが、ロクリアというキャラクターの話だ。)このあたりも、すばらしく悪趣味だ(褒めている)。

 

善と悪のちょうど真ん中

さて、こんなふうに、MOTHER3ワールドには「ちょっと笑えないこと」や「コミカルな最悪の話」があったり、「いい奴の中に最悪な部分があったり」「最悪な奴の中にちょっとだけ胸をぎゅっと掴む部分があったり」する。

その善悪のないまぜ、ちょうど真ん中がMOTHER3だ。

 

生きていくことはそんなに綺麗じゃない

ストーリーの作りからしてそうなっている。最序盤に最大の悲劇を描いて、本当に「この世の中は過酷で最悪だな」っていう「本気の悲劇的感情」を最初にドンと盛り上げてきておいて、「物語はひとまず悲劇としてはじまった」とナレーションがつき、

―—実際にその物語の中で生きてみると、実際には明るい日々があったり、変な隣人がいたり、なんだかクソくだらないジジイがいたり、吹いたら飛んでいきそうな軽いマジプシーがいたりするわけで、悲劇のままではいさせてもらえない。

「悲劇のままでは生きていけない。」ここが、MOTHER3を解するうえでものすごく大切なポイントだと思う。生きている以上は、リュカはそれらの「なんだか嫌なリアリティ」と触れ合わなければならない。彼らは彼らの人生を生きていて、リュカの悲劇の人生を共に生きるわけではない。「一本筋通った悲劇」なんてのは人生ではあり得ないわけだな、というリアリティが設計されている。

 

「悲劇のヒロインはオナラをしないのか?」

絵本ではしない。

でも、ちがう。本当の人間はするはずだ。「過去に嫌なことがあった」からといって、腸の活動が変わるわけではない。ふいにちょっと愉快すぎるオナラをプ〜〜〜っとかまして、身の上話を聞いてくれている人の顰蹙を買うことだってあるだろう。それは悲劇としては減点ものだが、人生としては「ふつうの営み」だ。

 

だからリュカの悲劇にも、「愉快な人たち」が容赦なく襲いかかってくるのだ。リュカは悲劇を生き続けることを許されない。彼の周りにはカオスがうごめいていて、その中心に放り込まれたリュカは多様な世界で生きることを余儀なくされる。そのことの、なんと「残酷」なことか。

そして、それを跳ね除けていくリュカの、なんと「たくましい」ことか。

 

どんなに地獄を見た苦しい生の悲劇性のど真ん中にも、その人が完全に壊れてしまわない限りは、残念ながらとるに足らない人や動物に対してクスッと笑う心の余裕が(ともすればドライで無感動な感性が)ある。その悲劇と喜劇の両義性の揺らぎの中で、熱にうなされた初夏の午後のようなぼんやりとした自我で、リュカは(僕たちは)世界と関わっている。

善と悪のちょうど真ん中。蜃気楼のように曖昧で捉えようがなくて、虚しくて暖かくて冷たい。生ぬるい湿度の高い空気感。

 

そういう意味では、MOTHER3ワールドには「何もかもがある」。全て人生の出来事が。どうしようもなく大きな天と地のまにまに、僕たちは生きていて、僕たちの運命とは裏腹に人々は営みを続けている。そこには「何もかもがあってしまう」し、「何もかもがあってもいい」。それは不協和と多様性の持つ悲劇と喜劇の両義性だ。

そういうところが、ぼくの思うMOTHER3の1番の魅力なわけである。

 

「何もかも、何もかも」

こんなふうに、全てを小馬鹿にしている露悪的な世界なのに、一方で全ての人を祝福してるような、そういう二面性を味わってくれ、というのが、そのままC級コピーライターの考えだったんじゃないかと、僕はそう思う。

 

何もかもがある世界では、何もかもがある。マジプシーもいるし、「トイレの男マーク」が襲いかかってきたりもする。酸素補給マシンはいかにも酸素を吸い出しそうな格好で、実際は補給してくれる。その全てが同じ世界で同じ日差しを浴びて、「ここにいるよね」と扱われている。その中には、「いてはいけない」はずのキマイラたちもいて、招かれざる闖入者であるポーキーとその部下、ブタマスク軍団も含まれる。

ブタマスクたちは悪者!——と、いうわけでもない。話のわかるやつもいるし、くだらないやつもいる。でもやってることは結果的に残虐非道だ。彼らは人殺しだってやってるかもしれない。——でも、それもまた仕事でやっているだけだ。そして彼らは仕事を選べない。お腹のでてる中年サラリーマン。しかし彼らは人殺しを(間接的にかもしれないけれど)平気でやっている。でも――、

 

そういうものは循環にしかならない。循環にしかならないものを噛み砕いて味わうのは非常に面倒くさい。善や悪の定義に立ち返って考えなければならない。答えの出ない問の中でぐるぐる回り続けなければならないのはある種のインド哲学的だ。その面倒くさい答えの出ない堂々巡りの輪廻の中から何かエネルギーを取り出そうというのが考える哲学だ。

そういうものの一切に、「つまらない」、という考えを持つ人はもちろんいると思う。「善と悪がいて、善の側にいるものが悪の側にいるものを倒してやる」という話があったりして、「そういうものが気持ちのいいお話なのだ」、という考え方はたしかにあると思う。

 

そして、実は、MOTHER2はまさにそういう話だったのではないかなと思う。

ようやく、本題の話ができそうだ。そう、実は、MOTHER3の話をすることによって、その向こう側にあるMOTHER2の話がしたかったのである。

 

「嫌なやつ」でしかなかったポーキーと、何も答えなかった「正しい」ネス

ぼくもかつては善と悪の二元論を愛する子供だった。だから子供の頃はMOTHER2が大好きだったし、自分がネスになったつもりでプレイしていた。(MOTHER1ではイヴに涙し、ギーグを倒した時に喜びを感じていた。クイーンマリーの涙の意味を、僕は当時理解することはなかった。)ポーキーは悪童で、ネスの人生を邪魔する「うぜーやつ」だと、そんな風に思っていたと思う。

 

ただ、大人になった今だからこそ、「悪の側に一歩足を踏み入れてしまって、そこから戻ることのなかった」ポーキーの運命を決めてしまったのは、ハッピーハッピー村でのネス(善の存在)からの拒絶だったのではないかな、と思ってしまうわけだったりする。

彼が最初に悪に手を染めたのは悪ふざけだったのか、ネスにかまってほしかったのか、それはわからないけれど、あるいはギーグに誘導されて悪の波動に染まった彼の、最初の悪事だ。やってしまったことは少女(ポーラ)の拉致監禁だ(ネスから見れば少なくともそれが主題である)。確かに許されざる大犯罪ではある。法で裁かれぬ年齢だったのだとしても、少なくとも心情としては一生かけて償わなければならないはずのものだろう。

その一度の過ちをネスは(善の中心にある、地球という強大な善の爆心地であるネスは)当然許さなかったし、——そのうえ、罰することもなかった。ネスはあのときポーキーに、心底うんざりしていて、返事をしなかったのだと思う。あの瞬間にポーキーは誰にも認められず、守られず、そして罰してももらえない、完全な拒絶を味わった。あの瞬間に彼は「悪」以外の生き方を失ってしまったのではないだろうか。

そんな風に思うのである。

なぜって、そもそもコントローラを持っていた僕自身が、彼を許す気などさらさらなかったのだから。このクズをバットでぶん殴れば気持ちが良いだろうと、僕は本気でそう思っていたのだ。なぜこいつとの戦闘がないのだと。

 

あの時、ネスがポーキーを笑い飛ばして、ヘッドロックなどをしたりして、「ばかやろ〜てめ〜」と、「一緒に行こう」と、「ポーラ!ポーキーを一回ずつぶん殴ろう!」と、ネスがただそれだけを言っていれば、ポーキーの道行は、どうなっていただろうか。「こいつはバカだから何もわかってないんで悪いこともする、しょーもない、くだらないやつだが、だからこそ親友の僕がついていて、善悪を導いてやらないといけない」と、そのような言葉を彼に向って言うことが、ネスにはとうとう最後までなかった。

(ゲームの主人公だから言葉をたくさん喋らない、というのは、まあ置いておいて)

 

そういう意味では、マジカントに登場するポーキーも、あれは本当に強烈である。

大人になった今だとちょっと不快になってむすっとしてしまう。何が不快かと言うと、ネスに対して心の底から不快になるのだ。あの世界でポーキーは「ネス、お前はいいよな。俺なんてダメさ」などと言うのだ。それはそうだろう、ポーキーはダメなやつだ。本当にダメなやつだし、悪党だし、悪知恵ばかり働くやつだ。しかしここで問題なのは、あの世界は「ネスの深層心理」ということである。あれは決してポーキーの本心などではない。あれが起こっているのはネスの心の世界の中での話なのだ。つまり、「ネスの心の中にいるポーキーはダメなやつ」なのだということだ。

ネスは、「あわれな小悪党の弱っちいポーキーは僕を羨んでいて、本心では僕と友達になりたいと思っている」のだと、自分自身の深層心理で勝手に思っているわけなのだ。

 

あのシーンは、ネスの悪魔の本当の正体を表しているのだと、僕は思う。

 

このことに気づいたとき、僕はネスという「主人公」の持っていた「残虐性」におののいた。それはネスというキャラクターの持つ人格の問題ではなく、ひるがえってみれば僕たちの問題だ。正義の味方の持つ醜さや酷さ、正しさを振りかざして持たざる者に唾棄する浅ましさ。

ネスはポーキーを許さなかったから何も答えなかったのではない、ポーキーが悪党だから手を取らなかったのではない、ネスは、ゲームが始まったその瞬間よりはるかに昔から、ポーキーを心の底から軽蔑して見下していたから、何も答えなかったのではないか――。

 

どうにも、ここに、MOTHER2の「やりのこしたこと」、つまり「なぜMOTHER3が存在しなければならなかったのか」、言い換えればつまり「なぜポーキーはMOTHER3の世界へと向かわなければならなかったか」の答えがあるように思えてならない。

善が悪を倒すのではない物語。善とか悪とかが明確に決まっていなくて、心の在り方がさまざまな色彩を放つ世界。MOTHER3はまさに「そういう」世界なのだ。

 

善悪が光の如くありふれている世界。アゴダ・クリストフの『Le Grand Cahier』(『悪童日記』)に登場する主人公の双子の本名(実際には『悪童日記』ではなくその続編にあたる『二人の証拠』および『第三の嘘』で明かされる名前)である「リュカ」と「クラウス」を主人公のおすすめネームに設定しているというのも、このいかにも難しい人の心のありようを考えているんではないかなと思う。

(まあ『悪童日記』をゲーム的にまっすぐ昇華したら『ライフイズストレンジ2』になるわけなので、実はMOTHER3ではその辺りはあまり考えないでも良いのかもしれない。だが考えるのは自由だ。)

 

閑話休題

ポーキーは「ちいさな箱庭」で再び産声を上げた。すべての世界から拒絶されたポーキーがたどり着いた最後の場所、ノーウェア島。

しかし、それは「世界に受け入れられるための旅」だったはずだが、ポーキーが最後に選んだのは「世界に受け入れられる」ことではなく、徹底した拒絶。つまり「何もかも、何もかもをただひたすらに破壊すること」だった。善も悪も、世界すらも。何もかも、何もかも。

 

ただ、ぼくは、ポーキーは厳密には「たったひとつの真実」を破壊しなければならなかったのではないかと思っている。

 

ポーキーが「壊そうとした」ものは何だったのか

もちろん彼はただ世界をおもちゃにして遊んでいるだけだ。彼自身はそれ以上のことは考えない。それがポーキーと言うキャラクターの骨格であり、メカニクスでもある。しかし「物語」というのはそういうひとりひとりの登場人間の考えを超越したところに俯瞰・普遍化された「脈」というものがあって、大きなうねりとしての物語は「ポーキー」に「役割」を与えるのだ。

それが、「破壊者」としてのポーキーの役割だ。

 

ノーウェア島の嘘 

端的に言えば、ポーキーは人生が無意味で無価値で、なんの意味もなく、友愛や信頼などは存在しないと「知って」いた。人の本性は悪性であり、善性とは「嘘幻である」と信じていた。

ポーキーにとっては、それを認めることこそが敗北であり、それを破壊することこそが勝利だったのだ。なぜならば、ポーキーはそのすべてを持たずに生まれたのだと「思っていた」のだから。

彼が人からの愛、とりわけ母親からの愛情に飢えていたことは、MOTHER2の最終戦闘、ギーグとの戦いの中でもうかがえる。またネスという友人に最後まで執着していたことはMOTHER3の終盤で訪れることになる彼の部屋からもわかるだろう。

しかしポーキーはそれを得ることがなかった。なぜか?「そんなものは存在しないから」ではないか。

 

ともかく、ポーキーはいちど世界に拒絶され、ネスたちにも敗れ、ギーグという寄る辺を亡くし、彼は自分自身が受け入れられる世界を探した。時間や空間を滅茶苦茶に移動して、様々な世界を見て回った。しかし、どこに行ってもポーキーは拒絶された。それは彼が他人を愛する術を教わらなかったからこそ必然的に起きた疎外だともいえるし、他者が絶対的に彼を拒んだからだとも言える。それは先ほどまでの前提で言えば、僕という名の、僕たちという名のそれぞれの「ネス」が彼に刻みつけた呪いだ。

そうして呪いの中でポーキーがさまよい、最後にたどり着いたのがMOTHER3ワールド、ノーウェア島だった。そこにはポーキーがこれまでの世界で見てきた「平和」や「家族」や「友情」や「安寧」という、彼が一度も手にすることのなかった「何もかも」が存在していた。

この「何もかも」を壊せばさぞ気分がいいだろう。ポーキーは暇つぶしのためにそのすべてをいじくりまわし、破壊しようと考えた――。そのあと、いつのタイミングかはわからない。「ロクリア」の裏切りは前か後か、ともかくポーキーはノーウェア島にある「それら」が全て「嘘」で作られていることを知った。その時、ポーキーの歪んだ夢が動き始めたのだと思う。

ノーウェア島には、善と悪があるのではなかった。「本当の許容できぬ悪を封印し」、その上で「善なるものが生を謳歌する」世界だったのだ。

 

ノーウェア島にあった「嘘」は、(おそらくは人類の欲望の果てにある終末戦争によって)世界が滅んだことを悔いた人類が、その滅びの記憶を忘却し、安定して発展することのない絶対の停滞の中で、お互いをいつくしみながら「役割」を演じ続けるというものだった。それ自体は人類にとって不可欠な決断だったであろう。

ただポーキーがノーウェア島の「嘘」を暴こうと躍起になったのは、2つの理由があると考えられる。ひとつは彼が欲望の権化であること。金銭やテレビ(ハコ)が共同体を内側からむさぼり破壊する装置として描かれていたのは、ポーキーの因子を流し込むことで「嘘」という洗脳を弱める側面が物語としてはあるだろう。欲望を求めるポーキーにとって、発展を「許容できない悪として」封印する世界は敵なのだ。

そしてもうひとつ、これが最も重要だと思うのだが、ノーウェア島の嘘は「互いを信じ、守り、いつくしむため」の嘘だったからだ。

 

つまり「嘘」が無ければ、人は争い滅びる。

「【せかい】を ほろぼす げんいんが これまでの じぶんたちの

 いきかたのなかに あったのではないかと かんがえたのだ。」

 

つまり、世界にはもともと信じること、守ること、いつくしむことは存在せず、それらは嘘によってつくられている。その嘘がなければ、世界は滅びてしまう。

ここにポーキーは、ようやく、自分の正しさを証明することのできる場を手に入れたのではないだろうか。「それが嘘だからこそ、真実に気づいていた自分は嘘の外へと追放されたのだ」と、彼は理解した。彼の旅は、すべてを「持たなかった」自分自身の人生を肯定するための旅だったのかもしれない。だからこそ、ポーキーは「家族」であったり「愛」という言葉が何を意味するのかを吟味していた。そして、それは彼にとって「嘘」でなければならなかった。そんなものが存在するという事実そのものを破壊しなければならなかった。

だからポーキーはクラウスを改造しなければならなかった、だからポーキーはリュカをクラウスの元へと招く必要があった。クラウスとリュカが殺し合えば、家族などというものが何の意味も持たない嘘のひとつであると証明できるわけだ。

そのあとで世界が本当に滅びれば、やはり、この世界には空虚で無意味で何もないとわかる。それを証明することが出来る。

 

しかし、全てが嘘でできたあの世界で、たったひとつの真実だけは、唯一「崩壊前の世界から持ち込まれた真実」である「本当の家族」の「本当の絆」だけは、ポーキーには最後まで壊せなかった。

彼はそのことに敗北したのだ。

 

MOTHER3の最後の戦いは、嘘と真実をただすための戦いでもあり、死者を救済するための戦いでもある。そして、それを乗り越えることが本当の価値を持ってリュカが今を生きていくことに繋がる。そういう意義を持った戦いだ。フリントはハゲていたけど。あの髪型はスキンヘッドというらしい。スキンヘッドというのはカッコつけた言い方だと思うが。

茶化すのはこれぐらいにして。死してなおわが子を見守り続けた「母親からの無償の愛」、それがポーキーという邪悪の企みを挫いた。ポーキーが最も「この世界には存在しない」のだと信じたかったであろう「それ」に、ポーキーは敗れ去ったのだ。ポーキーだけが(少なくとも彼の中では)決して持ちえない最強の力、MOTHERに、ポーキーは敗北を喫したのである。

 

かくして「ネスの悪魔」が生み出した呪いは、時と世界を超えて、解消されたことになる。皮肉にも、その時には既にぜったいあんぜんカプセルに入ってしまったポーキーの全く預かり知らないところで。彼は、勝者になることも、敗者になることもなくなってしまったのだ。ぜったいに、永遠に。

このアイロニックな幕引きには最後に少しフレイバーを加えるとして、少なくとも、結論としてはこうだ。

MOTHER3というのは、「MOTHER2を批判的に考察する」ところから発展する作品である、というのが僕の考えだ。つまりそれは、地球という正義を背負って悪を断罪してまわる正義の味方、ネス少年の冒険は本当に正しかったのか、と疑う視点を持つということだ。批判する、というのと批判的に考察する、というのは違う。MOTHER2の作品としてのクオリティは疑いの余地がないし、それは素晴らしいものなんだけれど、それを疑う目を持つことで「MOTHERシリーズ」は文学たり得るのではないかと思う。

僕はネスの旅を美しいと思う。しかし同様に、ポーキーの人生も美しい。ポーキーが善を疑ったから、真実の善が姿を現した。ポーキーが悪の封印を解いたから、「全ての命が生まれ変わって、善と悪が同時に存在する」世界が本当に誕生した。それを思うときに、あの真っ暗闇のエンディングの意味を、やっと問うことができそうだ。

 

全てが終わった、朝日を浴びて。

クラウスにかけられたポーキーという男の呪いは砕かれて、「偽物と嘘だらけの世界」に残された、たったひとつの真実が、かつてバラバラに引き裂かれた「家族の愛」が蘇った。そのことこそが、MOTHER3における「ラスボス」への「勝利」だった。かくして主題は回収され、勝利をおさめたので、それ以上を描く必要はない。

MOTHER3は「ドラゴンを起こす物語」では断じてない。ドラゴンの針というわかりやすい動線は、わかりやすい明確なオブジェクトは、「ゲーム」そのものでしかない。

 

罪滅ぼしのため、天へと帰るクラウス。ある意味では、生き残ったリュカの方がずっとつらくて過酷な道を生きていたけれど、それでもまず最初に「死者」を救わなければならないのだ、というのは、正しく「宗教的」だ。それこそが生者のための道引きになる。そういう意味では、クラウスが救われるということは、そのままリュカとフリントの救済を兼ねている。

母の胸に抱かれ、クラウスは昇天する。

 

先ほども述べたが、この時点で「MOTHER」というタイトルは回収されていて、ストーリーもとっくに完結しているわけである。『MOTHER3』とは、「嘘と悪意に全てをバラバラに引き裂かれた家族が、再び絆を取り戻すまでの物語」だった、というわけだ。

 

ドラゴンは?

そうなると、その後のドラゴンの針を抜くシーンは「どうでもいい」といえばどうでもいい。正直に言うと、やらなくても構わないことだ。ただ、一応はそれをわかりやすい作業目的として物語を進めてきたので「やった方が親切かな?」「辻褄が合うかな?」くらいの話だと思う。

 

あそこはもう、正直言ってしまってどうでもいいので、見せてくれなくても構わない。見せてくれなくても構わないのだけれど、あれは「わざとやってる蛇足」だ。

あれはわざとやっている蛇足なので、押しつけがましいハッピーエンド感を出したりはしない。「善」や「悪」に色を塗るのをやめよう、何もかもを受け入れて見てみよう、というのがMOTHER3だったが、その中でひとつだけ答えがあった。「家族の絆は真実だった」。ここに物語の幕引きがある。

 

そこから先はカーテンコールというか、舞台裏を見せるというか。役者たちが全ての演技を終えて感想を言い合ってるような雰囲気。それがまた、リッチに出来ている。

疲れてるやつもいるし、元気なやつもいる。笑ってるやつもいるし泣いてるやつもいる。なんだか少し寒い。最後までいいやつもいれば、ちょっとなんか嫌な感じのやつもいる。全部が白紙になって、新しい命が始まる。明日が来る。

 

あのエンディングはスピルバーグの『太陽の帝国』の遊園地の情景が僕の中では一番近く、しかし一番心情は遠いのかもしれないが、白昼夢のようなクラクラする、『感電』したような、朝日に眼を灼かれる「感じ」とでもいうのか。

たとえば、僕の原体験で言うなら、どんちゃん騒いで終電逃して飲み明かした後の鴨川とか、北白川の徹夜の麻雀明けだとか、とにかく白んだ空を、反射光すらも目に痛いもんで、しかし目を逸らさずに一生懸命に睨みながら、空き缶やタバコの吸い殻の転がってる湿った街を徹夜明けにぶらり歩いて、タバコを吸ってるような。

冷たい風が首筋を乱暴にこすって、身をかがめて仲間の足を小突いて。ニヘリと笑ってどろりと煙を吐き出したら、二つ隣の筋の大通りにタクシーが走り出した音がする。濡れたアスファルトを切り裂いてタイヤが滑る。

帰るやつは帰る。残るやつは残る。挨拶はしない。するやつはする。

 

そういう雰囲気。そういう雰囲気がすごく好きだ。

これまでの何もかもが、ぜんぶ白紙になって、頭もボーッとするから、本当に世界が空っぽになったみたいで。始発が出る前に陽の光を浴びて、湯気だったアスファルトの路地は少し生臭かったりして。それが「ごちゃついたカオス」の人生を「生きる」生(なま)の感覚っていうか。

ずっとそこにいたいけれど、僕は始発で帰るのだ。そう、僕は始発で、帰るのだ。

 

おまけ。ギーグの正体について。

 

僕は最後に、結構嫌なことを言うかもしれない。

僕がこれから簡単に話そうとしているのは、MOTHERという作品に登場するあの宇宙人ギーグではなく、MOTHER2に登場した「ギーグ」というバケモノの正体についてだ。この文章の最初に書いた前提を思い返してほしい。「作られた時にそれが意図されていたか」ではなく、結果として作品が「それ」を意味することになる、ということを否定しないのが文学の読み方の一つとして許容されるべきだと僕は思う、ということだ。

 

結論から言おう。僕はギーグの正体とはポーキーだと考えている。

MOTHER2にてギーグは、はじめ、丸い球体に入れられている。その装置の名は「あくまのマシン」と言われているが、僕はこれは「ぜったいあんぜんカプセル」のことだと思っている。アンドーナッツ博士によって永遠の監獄に閉ざされたポーキーは、世界が本当に滅びるその日まで、宇宙が消滅する瞬間まで、あるいはそれが消滅したあとも、新たな宇宙という世界、輪廻が時間を巻き戻すまでたったひとりで無の世界を漂った。やがて永劫の時の果てに、自分がポーキーという少年であるということも忘れた「それ」は、絶望と虚しさと憎悪から生まれた、極限までに圧縮されたサイコパワーで、自らの存在そのものさえぐちゃぐちゃにつぶしてしまった。

それは自身を、宇宙最悪の存在「ギーグ」と認識した。

 

「ギーグ」のいる過去の最低国の洞窟が女性器を連想させるものであること、胎盤をモチーフにしたような機械のひだの中に「あくまのマシン」が安置されていること、そしてなにより解放された「ギーグ」の姿が、胎児の姿に見えることは、ポーキーという少年がかつて母の愛に飢えていたことに関連するのではないだろうか。母体回帰を望んでいたように見える。

あるいは、まさに「母」という存在によって自身の野望が崩れ去ったMOTHER3での経験が、彼の「母親」というトラウマを強靭なものにし、それが彼の狂気に拍車をかけたのではないだろうか。

タマゴのようにも見える「あくまのマシン」に描かれた顔はネスのそれだった。もしかするとポーキーは、全てを持って生まれた、ネスという少年として「生まれなおそう」としていたのかもしれない。だから「ギーグ」はネスに執着する。ただ単に自分を脅かす敵ではなく、恋い焦がれるように、熱烈に。間違えた自分の人生をやり直す、「正しい母」から「ネス」として生まれることが、ポーキーにとっての輪廻の回復だ。

一方のネスはこの、自分自身の「悪の起源」と戦い、これを打ち破ることで「善」の定義を回復することができる。これこそが、「ポーキー」という名の「ネスの悪魔」との本当の闘いである。

 

というような話は、実は、何の根拠もないわけではない。

ギーグは世界を滅ぼすための計画を画策する。といってもギーグにはもはやまともな意識は存在しない。邪悪な精神波長に誘導されてあつまる悪しき宇宙人たちを統率するには、「その意思を媒介して伝えるもの」が必要だった。そのために「ポーキー」という少年が選ばれたのは輪廻の必然だ。ポーキー自身がポーキーを呼ぶ理屈であり、それゆえ、ここにどうどうめぐりが起きている。ただ、ポーキーという少年が実際にその時空において誕生するよりもその前に、ギーグ自身の意志を伝える役割を担ったのが、彼自身のサイコパワーでもあるし、完全なる未来予知システム「知恵のリンゴ」でもあった。

知恵のリンゴはネスがギーグを滅ぼすという未来予測を伝えた。だからスターマンたちはネスと敵対した。前提として知恵のリンゴの予言には「ポーキー」という少年が登場していない。だからポーキーは予言に登場しない唯一の存在としてギーグの傍に立った。だが、これらはすべて、順番が逆だったのではないかと思う。

僕は、この知恵のリンゴとはMOTHER3に登場した、ポーキー制作の「ネスの冒険」を描いたあの映画なのではないかと思うのだ。知恵のリンゴは未来を高精度で予測する謎の装置。未来に作られた映画がネスの冒険の記録を忠実に、隅々に至るまでを再現しているのなら、それはもはや完全な未来予知にしか見えないだろう。

 

そして、ネスの冒険を描くポーキーは、そこに自分の姿を映すことをよしとしなかった。そこに彼のどんな思惑があったかはわからない。忠実に再現することで再びネスを嘲笑する喜びを得ようとしたのか?それとも純粋な友情からネスの冒険を冒涜したくなかったのか?説明はされていないし、推し量ることはできない。しかし、それゆえ。

だから、知恵のリンゴの未来予知にポーキーは登場しなかったのだ。だから、ネスがギーグを倒すことが予知されたのだ。

 

永劫の時の果てに、最悪の化身「ギーグ」として再生し、全ての始まりである「ネス」を殺すこと。そして、全ての善の中心である「ネス」として生まれ、正しき母の愛を受け取ること。

それこそが「ギーグの逆襲」だったのかもしれない。どこが逆襲かというと、だ。ネスという善の存在が生み出した、呪われた絶対悪のポーキーが、永劫の時を超えて「その悪そのもの」であるギーグとして帰ってきたのだから、これは逆襲と言うほかない。ギーグはPKキアイ(デフォルト)を使う。それはネスの前世ともいうべき善の輪廻が産んだ呪いなのだ。

 

以上の考えはとんでもなく不愉快かもしれないし、ナンセンスだと思う人もいるだろう。しかし、少なくともこういう読み方はできるのだと思う。(だから、これは僕が最初に言い出したこと、ということにはならないだろう。誰が思いついてもおかしくはないことだろうからだ。)

そうやって揺さぶることのできる文学というのは、ほんとうに貴重で、すばらしいものだ。C級コピーライターに感謝を。

 

おしまい。

 

本当の最後に。

家族に会うための、家族と別れるための、家族のいる家という空間を象徴するあのドアノブ。彼らのドアノブは壊れてどこかに行ってしまったけれど、最後にそれを拾うことができた。

そしてプレイヤーの僕はその「ドアノブ」をもらった。

そのことを、もう少し考えてみようと思う日々だ。

 

◆リュカ!

    「スイッチ」というようなことを イメージしてみろ!

◆そしてそのまま 「でんげん」をきるのじゃ

 

 

 

オケスカ?

 

 

(おわり)

 

 

本流ではなくなった創作物について、ああだこうだ。

 

まず、この記事は一貫して私の主観に基づいた適当を書いている。で、主観に基づいて適当を書いているのだから、その内容はおもちゃである。おもちゃなので、「そうだよね」と思ってもらっても「んなことあるか」と思ってもらってもいい。

内容としては、だいたい「SFがなぜその勢いを失ったのか」というようなことだ。

 

 

1950 SFの原典たち


そも1950年とは、かの「ロボット三原則」を生み出したアイザック・アシモフの記念すべき初著『宇宙の小石』の刊行年である。産業革命以来の「工業」の価値が重視される時代から、二度の大戦による「科学」の社会的地位の向上に伴い、科学的センスが市政に爆発的に広がった新時代へと推移した。冷戦中の宇宙開発競争が直接的な契機となり、SF(サイエンス・フィクション)が圧倒的な筆致と構造センスで描かれた、今日のSFすべての原点とも言える時代である。


1960 映像界革命 SFの宝石たち


映像制作能力が人間の想像の外側を表現できるようになり、「SF映画」が長大な尺と緻密な映像表現で作られるようになった時代。SFの門戸を広く市政に拡大した時代。エレーヌ・シャトラン『ラ・ジュテ』、チャールトン・ヘストン猿の惑星』、なによりもスタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅』など、今日にあっては「伝説」と称される珠玉の創作物が世に溢れかえった時代である。この時代の「傑作」は枚挙にいとまがない。日本にあっては、手塚治虫星新一小松左京広瀬正などが、欧米からもたらされたこの「SF」という世界の精神的後継作・発展作を狂気的なまでの熱意で描き/書き続けた。今日から振り返るに、SFという世界そのものの最盛期であったといえる。


1970 日本SFとサブカルの合流


宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など、アニメーションSFロマン作品(松本零士の漫画作品も並行して語られるべきであろうが)が誕生しただけでなく、『マジンガーZ』に代表されるスーパーロボットもの、『新造人間キャシャーン』『仮面ライダー』といった改造人間(サイボーグ)ものが同時代に多発的に発生した時代である。

この時代のサブカルに、カルチャー的に圧倒的な特定のメインストリームがあったというわけではなく、どちらかといえばカオスなものであったはずである。ただし、60年代の映像世界の意欲が大きくSFに舵を切っていたこと、その時代の映像の精神が強く表れている時代であること、ひいてはこの時代が、まさに60年代の映像世界からの要請によって発展向上したVFXの面目躍起の場であったこと、欧米でも『エイリアン』や『スーパーマン』をはじめとした娯楽的側面の強いSFが、そして何より1977年に『スター・ウォーズ』が発表されたこと、などなど踏まえると、時代の求める娯楽的映画体系の根底にSFがある一定の存在感を持っていたことを疑う余地はなさそうである。

ことさら日本のサブカルは「漫画」という形式で、擬似的な映像表現を扱うことができたため、その創作物は「映画」による影響を受けやすい。「SF映画」の傑作による圧倒的な映像表現を目の当たりにしたクリエイターが、漫画という形で、またアニメーションという形で、想像の中にある「映像」を自ら生み出そうとしたことがうかがえる。

後の作品において主流となる映像表現の雛形が作られたり、創作界に優れたクリエイターを多数送り込んだ誘因となったりなど、日本アニメーション(ひいてはサブカル)において真の原点とも言える極めて重要な年代である。

なお、この時代でもう一つ重要なのが、「20年続いたベトナム戦争がようやく終わったのが1975年である」という点であるが、このことは1980年代について述べた次項の後半部分に関係する。


1980 サブカル(アニメ)SFの発展


総括すると、人間とは何者で、一体どこに向かうのか、という根源SF的な問いかけの時代の終焉の嚆矢、「終わりの始まり」は70年代に既にもたらされていたと言えそうである。70年代に花開いた「大衆娯楽としてのSF作品」に最も重要であったのはスペクタクルであり、キューブリック的な深淵描写ではない。1953年クラークの『幼年期の終わり』に見られるような思索的作品の表現もひととおりの決着を見せつつあった(後述する宗教SFでも述べるが、だいたいの場合は、この種の問いかけは、神の存在を魂のレベルから否定している場合は、結局は絶望するか人間の善性を肯定して終わるため、初期の大傑作によって完成されてしまった後では発展性がない)。『幼年期の終わり』のような思索的作品は90年代『ゼノギアス』、00年代『グレンラガン』など折に触れて現れるといった形で、非常に強いコンテンツではあるものの、「もはや主流ではなかった」ということは確実である。

一方で、日本においてはこの時代において「サブカルと本流の転地」が起きたと思われる。すなわち、SFの本流がアニメーションに移行した。この点は、宮崎駿ガイナックス庵野秀明)、押井守大友克洋らの功績であると言えそうである。彼らが志して描いたものには両義性があり、一面はまさに「人間は何であってどこへ行くのか」という、時代の中にあって風前の灯であった「根源回帰的SF」とでもいうべきコンテンツの問いかけでありながら、もう一面は「新しい時代のSF(後述するサイバーパンクや、自己内省的な哲学)の幕開けであった。とはいえ世界的にも似た流れ自体はあり、「根源回帰的SF」として『デューン/砂の惑星』のはじめの映画が撮られたり、ある種のジュブナイルものでありながら外部知性体と人間の精神の交錯の切片を巧みに描写した『ET』などに加え、『ブレードランナー』に代表される新進気鋭の映像表現が生まれていった。清濁含め「エンタメ」「回帰」「進展」の三相が入り混じった時代だったと言える。1984年、星野之宣による『2001夜物語』は、この時代までに描かれたあらゆるSFの閃きをその胎に内包し、祝福し、また突き放す、ある種の「完成」と呼べる作品であり、70~80時代半ばまでの時代の総括に相応しい(後年にまだまだ作品が出るにしても)。

また、この時代に無視することのできない潮流として「サイバーパンク」が起こった。サイバーパンクの骨格とは「パンク」の言葉の示す通り反体制主義であり、サイバーに対するパンクであり、サイバーによるパンクでもある。すなわち、冷戦中に繰り返される戦争の光景、大戦の後も平和にならない世界の姿(75年のベトナム戦争終結の明言からのち、わずか5年後の1980年におこったのが、100万人規模の死者を出したイラン-イラクの全面戦争である。続く90年には湾岸戦争が起きている。)、それに加えて高度に物質化され人間を歯車として取り込んでいく社会体制の拡張の在り方が全世界同時的にテレビジョンによって可視化された時代にあって、人々が「イデオロギー」という「他者が勝手に決めたもの」に「組み込まれる」ことを忌避し、政府や権威、機構・構造・体制に対して唾棄する精神が生じたための「パンク」の文脈を使って描かれた作品なのである。

「パンクカルチャー」における反権威主義・戦争反対・個人主義については当然の前提として特に説明はしないが、SFにおいてサイバーパンクが非常に重要なのは、これまでの、非人間心理的・宇宙真理的な論を描きつつもその中に置かれた人間の心情のドラマをロマンス文学から引用して巧みに構築した「ジュブナイル的SF作品(日本では手塚治虫や、藤子・F・不二雄などが典型だろう)」と違い、サイバーパンクの焦点は完全に「人間の内省」そのものにあてがわれていることである。SFはその生まれが「科学」であるから、構造論や宇宙論を宿命的に原点に置く。その構造的無生物性に対するカウンターパートとしての活力はジュブナイルとしてのSFにも多々見られるが、決定的なものがサイバーパンクである。いわば、サイバーパンクとは「SFによるSFに対するパンク」でさえある。それは、個人主義、「アナーキズム」との親和性からもたらされたものであろう。

サイバーパンクにおいて、人々が電子機器(デバイス)を通して互いに接続され、大きな情報流の中に取り込まれていく光景というのは、ある種の同一化現象、自我消失の危機として受け取られたわけであり、そこに「内省」の必然性が生まれる。「私とは何か?」、それが重要なテーマであった。「人間の内省」が「世界」との対話になると言う点では、サイバーパンクは10〜20年後のサブカル界にさえ影響を与えたと言える。

「内省的実在性こそが人間である」という考えは、深淵なる宇宙の果ての巨大な「存在感」に打ちひしがれた人間が、またマクロ化していき人間疎外(ヘーゲルの文脈)に陥っていく機能的戦争社会に組み込まれ「無」となる(自己精神が矮小化していく)ことに危機を覚えた人間が、その解決策として、あるいは逃避として、非常に消極的かつ膨大な負のエネルギーを伴って現れたものであったとも言える(ゆえに、ショーペンハウアーは時代を100年以上先取りしていたと言える)だろうが、このことは現代社会へのある種の予言じみている(後述する)。

AKIRA』(大友克洋)がカルト的支持を持って今日においても語られるのを見るに、80年代におけるサイバーパンクの存在感と言うのは、それはそれはとてつもないものだったのだ。そこには、科学技術の発展が人々を自由に豊かにするのだという「戦後・高度経済成長期」にあった幻の未来都市にかける夢ではなく、「科学の発展は我々からさらに自由を奪っていくのだ」という、「成長による牧歌性の消失」に見た郷愁と、「冷たい戦争」を通じて人々が見た世界の権威への失望が色濃く表れている。浅間山荘事件が1972年にあったことと、無関係とは思えない。


1990 宗教SFと終末論の構造主義、初期のセカイ系


サイバーパンクのもたらした「脱体制主義」の次に来るのは、当然(それがパンクの文脈であるがゆえに)、ある種の「アナーキズム」であり、それは「私はどう生きるべきなのか」「私はどのようにして幸福になれば良いのか」を問う、極めて自己内省的な時代だ。個人が個人で完結して「幸福を目指す」ことが人生の至上命題であるのだから、「人はどうやって救われるのか」を考えることが次のSFの主題となるのである。

だが皮肉にも、内省それ自体によって人が救われることはない。救済のためには「確固たる哲学(シッダールタ、ニーチェショーペンハウアーなど、方法論はいろいろとあるが)」かもしくは「絶対的な宗教(これも色々な方法論がある)」を必ず必要とする。現代の物語においてさえ内省的主人公の「少年」が救われるために必ず「少女」が必要なのは、「聖母マリア」の類型を、すなわち母体回帰という極めて宗教論的なモチーフを求めているにすぎないのである。

そこで、精神性の発露とその救済において不可分な存在である宗教をSFへと取り込んだのが「宗教SF」である。日本の作品群において宗教的SFの構造は、1981年のディックによる『ヴァリス』に影響を受けてか、グノーシス主義の構造を取り入れた作品が非常に多いのも特徴的である。あるいは、日本人という(無意識の文化的遺伝子によってある種のスピリット信仰を持ちながら、絶対の神を持たない民族)にとって宗教構造のSF化という命題は、「絶対の神が形而上においても形而下においても本当に実在する」という純キリスト的構成を選ぶよりは、「異星人や未知の科学兵器が星に流れ着いたことで人間が発生した(「真なる神の国」から零れ落ちたヤルダバオトという愚かな存在が人間を作った)」というほうが、既往SFの概念を用いやすい(そしてここに『幼年期の終わり』が愛される理由がある)ので便利であるということなのかもしれない。

さて、この時代におけるもうひとつの重要な概念は「文明の終末」だ。文明の終末を描いた作品は初期には近代1826年のメアリー・シェリー『最後の人間』が存在していたが、現代の「終末もの」とは少し毛色の違うものであって、その源流を遡ると、産業革命による古き良きイギリスの終焉に対するノスタルジーとして理解される。一方で、1950年代以降に描かれた終末とは、そのまま「原子爆弾」を終末の象徴としている。行き過ぎた科学による文明の終焉である。

日本における「終末もの」は、二度の大戦と高度経済成長による牧歌性の消失(奇しくもイギリスと同じ道を辿っていることは留意すべきだろう)、オイルショックなどの社会的激震によって、また「被爆国」としてのトラウマに対してスリーマイル島原子力発電所事故チェルノブイリ原子力発電所事故がクリティカル・ヒットしたということもあり、80〜90年代のSFにとって非常に重要なテーマだった。つまり、「終末」は一貫して「科学」によって齎されるものであり、科学を扱う創作は「SF」であるのだから、「自己内省」の文学へと変貌を遂げていたSFと終末が混じり合うことで生まれたものこそが、「私の内省」と「世界の終焉」を結びつけたのだ。「内省的哲学」を見出したパンクの世界と、「世界の終焉」をもたらした世界情勢への恐怖、このふたつが不可分なまでに絡み合い、結びついたことで「セカイ系」を生み出したのである。

また、終末論と自意識、というものは人類史において「ヨハネの黙示録」に遡ることができることは明白である。ここからも、宗教SF、終末論、自意識に基づくセカイ系が不可分に混じり合っていることがわかる。このことを端的に理解する最良の例は『新世紀エヴァンゲリオン』そして『ゼノギアス』である。


2000 ポスト構造主義としてのセカイ系

 

ここからは、ほとんど「日本」という国のお話になる。
これまでの経緯から、「個々人の人生」にフィーチャーするフィクションが隆盛した時代が過ぎていった。そして、2000年代のSFにとってもはや「終末論」は主流とはよばれ得ないものとなった。「経済不況などに伴う鬱屈とした感覚」はありはしたが、科学技術による終末というものは陳腐なファンタジー・アイデアへと変わっていった。「終末的最終戦争」の時代から(少なくとも2003年にイラク戦争という大きな社会的事変があったものの)、小規模な紛争、ゲリラ的戦争、内ゲバの革命の連続、対テロリズム戦争の時代へと変わっていった現代社会においては、「個々人がそれに対してどう意見を表明するかが重視される」のみならず、多くの国が大戦から時間を置き、国土が戦火に脅かされない期間を長く経験したとあってみれば、「全く無関係な地球の裏側の戦争よりも、今の私の生活を大切にしなければならない」というのがひとつの大きな気分だったであろう。

この一連の時代の変革の中で、また重要なのは1995年以降に加速した「IT革命」と呼ばれる社会の変化である。「パソコン」の普及、「個人用携帯電話」の台頭によって、個々人が全く独立した情報デバイスを各々所有し、そのデバイスを通じて遠くの人々と瞬時に接続されて情報をやり取りできるようになった。ITネットワークが生活環境のあらゆるところに組み込まれ、パソコンや携帯情報端末などが利用される情報環境すなわち「ユビキタス社会」が実現した。「サイバーパンク」はもはやフィクションの上の出来事ではなく、創作世界の人々が熱心に思索するものではなく、世界経済がその活動として現実に巻き起こすものとなったわけである。

以上のことからSFというものはその輝きを次第に失っていった。SFから零れ落ちた「自己内省」自体は単体のテクスチャとして依然残ったので、それは「終末論」の消え残り、ある種の残滓と組み合わさって「ゼロ年代セカイ系」を生み出した。「セカイ系」と呼ばれる作品がその根底から自己内省を主軸としていること、SFという構造的に必ず社会体制の描写を必要とする文脈の剥離・離脱が起こったこと、このふたつが組み合わさり、この時代からのセカイ系というものは、「方法論的に社会という領域を乖離させた(消去した)物語」となった。すなわち、純粋な「私」についての物語である(ただし、聖母マリアは必ず必要であり、聖母マリアとの精神的距離がそのまま「私」の救済度合いのパラメータであるのだから、「あなた = ヒロイン」がいなければ基本的にこの物語は成立しない)。社会なき「セカイ系」の構造は、現代社会の中で摩耗し疲弊した若者の摂取しやすい形で、たとえば「日常系」などの形態で継承されていく。


2010~ コミュニケーションコンテンツの時代

この頃から、現代というのは、「人々に好まれる作品」というものが大衆社会における重要なモチーフとして顕在化した時代である。はじめは「セカイ系」の残滓として、「学園」ないし「ボーイミーツガール」というような概念でもってその箱庭的モチーフが継承されていたが、数年を待たずして、それらは概念的には放逐されることとなる。

インテリゲンツィアのための高尚な娯楽として発達しすぎたサブカルチャーへの徹底的な反発もあったのであろうが、ほとんどの原因は「日常系」のような作品や、一部の「異世界転生もの」にも見られる、「現代の若者の社会に対する無力感と疲弊を発端にした、努力を要する挑戦とそれによる達成や喪失の無い、時間的にも空間的にも閉じた世界の構築」の大流行に見るべきと思う。これらの作品は「ただ見ていれば安心できる」精神的安定装置としての役割が非常に重視されるので、その中に自己を入れ込んで内省するというような機能はほとんどもたれない。

また、ビジネス上の極めて重要な役割をサブカルチャーが担うこととなった現代社会においては、個々人がデバイスを介して無数のコンテンツを享受できる時代でもあり、また、SNSを通じて互いにコンテンツを品評するコミュニケーションが爆発的な盛り上がりを見せる時代でもある。コミュニケーションを円滑に働かせるには共通言語は簡単な方が良い。SFに登場する難解な専門用語や、論理的考察のための高度な日本語能力などは一切不要だ。自己内省を開示する必要さえない――「尊い」「エモい」と言う言葉による共感があればそれでいい。故に、単純かつ明瞭なものほど素晴らしい。

別の視点からも考えてみる。SNSが一般化した時代で重要なのは、自己の概念的存在感である。「クアンティテイティブ・コミュニケーション」の時代、いや、「コミュニケーション・バリュー」の時代とでもいうべきか。コミュニティにおいてコミュニケーションが行われるとき、個人にとって非常に重要なのは「何の情報を(自己が得るために)やりとりしているか」ではなく、「どれだけ大きい範囲に自己と紐付けられた情報を開示するか(拡散されるか)」である。いわば、総人が受け手ではなく発信者となった意味がここにある。

コミュニケーション・バリューの存在はそれ自体では善悪どちらでもないが、以下のようなことを考えてみると面白い。すなわち、「個人」がネットワークに接続されると、その膨大な情報空間における自己の矮小性(概念としての小ささ)に耐えられないという自己崩壊が生じる、ということである。

「何者でもない自分」が「誰からも相手にされない」という(仮想)現実に直面する「個人」は、やがて何かしらのコミュニティにおいて他者同士の承認の応酬が生み出す価値(ここでいう価値とは、精神の内面に生じる羨望である)を目にする。そうして、自己の矮小性を疑似的にでも解消するために、個人は、「コミュニケーション・バリュー」の中に取り込まれることでもって、自己の概念的存在感を拡張しようとするのである(これは皮肉にも「サイバー・パンク」の大前提ではないだろうか?)。

この精神的受容には、コミュニティに受け入れられるという第一段階、コミュニティの中で抜きんでたいという第二段階、コミュニティを形成する側に回りコミュニティの大きさそのものを自己の概念的存在感として代用しようとする第三段階があるように思うが、すなわち総括するにSNSとは概念的存在感の奪い合いの場であり、そこに参加するということは、「大きな概念(第一段階の発露の場)の上に乗る」ことが第一条件的に必要なのである。これはいわば、「自己の外枠を獲得する」行為であり、内面に向ける目はもうそこには残っていない。

大きな概念を形成するものが、結果としてさらに大きな個人を取り込むことができる。したがって、「(産業的需要の中で)求められる作品」とは、「最大公約数」たりえる作品である。また、上記の理由から同様に、この時代の作品というのはネットミームと不可分であり、他者との連続的な言語のコミュニケーションが非常に重要視される。

したがって、「最大公約数の作品が必要である」という需要と「最大公約数の作品を見ることによるコミュニケーション・バリュー」が不可分に結びつき、連環的・連鎖的・連続的に同質同程度な作品が生み出されることとなった。この時代にあっては、もはや内省(個々人により見出す世界が異なる)も構造論(個々人が理解のために要する時間が異なる)も無駄なものであり、ここにSFやセカイ系は「小さなニッチ」にすぎない存在になったのである。このことは「クラシック・オーケストラ」や「純文学」、「芸術」にも同じことが言えそうである。

(何も現代の流行には価値を見出せないと云うわけではないが、)「クオリティ=質」より「クアンティティ=量」、それも、作品そのものの質や量ではなく、「コミュニティの概念的存在量」が最も重要なファクターとして機能する。それが現代なのである。

さて、このような時代のなかにあって、創作物の中から「思慮」や「個人性」、「自己の精神の内省」というものは次第に無用の長物として抜け落ちていった。あとに残ったものは、「コミュニケーション」のために簡略化された「人物 = キャラクター」と、「共有性」のために地続きとなった世界設定である。すなわち、「文脈を理解する必要性が薄く、魅力的なキャラクターにより人をインスタントに引き付け、SNSを通じたコミュニケーションによって付随する価値を産出し続ける」ものである。

この土壌から「学園異能バトルもの」「異世界転生もの」といったジャンル・コンテンツが誕生したことは言うまでもなく、「アイドルもの」(ここでは広義のアイドルものとして【艦これ】【ウマ娘】【FGO】といったコンテンツも含むものとしよう)のように、キャラクター同士を使って永久無窮のコミュニケーションを展開させる、言うなれば存在そのものが原典からしてアンソロジーである創作も発露した(もちろん、その作り手の多くは「内省の時代」を駆け抜けてきたクリエイターたちであり、彼らの手癖、色が強く出ることで内省的文学や個人の体験が要素として発現することがある場合が往々にしてある、ということは無視してはならないが)。

これと全く同様の理由で、これまでアニメーション史においてそれほど支配的な役割を担ってこなかった「漫画原作アニメによる原作再現度の高さ」という形状形式もまた、非常に重要なものとなった。たとえば『週刊少年ジャンプ』を原典に持つ漫画は、その構造や物語の構成に高い相似的類型性を持つ(友情・努力・勝利の方程式)し、コミックスの売り上げに比例した一定の視聴率が確約されているのだから、SNSコミュニティも形成されやすい。コミュニケーション・コンテンツとしてのアニメーションにおいて、「放送前からファン同士がコンテンツについての会話をしている」という状態は最も好ましいのだ。そして、初めからファンがついているのだから、「ファンを怒らせないように」アニメは「漫画っぽく」作らないといけないのである…。かくして、かの手塚治虫が映画っぽい画を書こうとしてはじまったはずのジャパニーズ・漫画は、その本来的な到達点であるはずの「映像化」において、逆に「漫画のように」描かれるようになる皮肉な倒置があるわけであるが、それは本稿の主題ではない。

 

結言

このようなぐだぐだとした文章表現で、(少なくとも、それこそ自己内省的にはずいぶんと言葉を省略して、必要なことだけを)書いたわけであるが、

要するに、時代の要請するものがもはやSci-Fiでもなければ自己内省哲学でもない、「どれだけ大きい船を用意できるか」ということなのだ、ということである。

しかし、矮小な自我に耐えられず、膨大な価値基盤に自らを同化させることで自己の概念的存在感を拡張しようとするあまり、その中のひとつとして埋没していくという実感、そしてその埋没から脱却しようと自己承認欲求を高めても、それすらも「自らがコミュニティ概念の中枢たる」第三段階のコミュニティ・バリューの構成要素へと変貌していく様は、まさにサイバーパンクの構成をなぞったとしか言いようのないものである。

それらは創作としての価値を失ったのではない。今わたしたちが生きているこの社会そのものがサイバー・パンクなのであり、SFなのである。

 

(おわり)

シン・ウルトラマン。

 

こんなことは改めていうことではないのだが、作品の中身についての情報がある。僕はそういう当たり前のことを当たり前に言わなかったことで当たり前に怒られるというのが当たり前に嫌いである。

 

さて、樋口真嗣監督による最新作、『シン・ウルトラマン』を観た。それについて書こうというわけだが、残念ながら、観劇からしばらく経った今でもバカでかい感情の波に襲われてしまうので、書き出すとキリがない。キリがないが、色々と書いておきたい。

それで、キリをなんとかつけるために、4つのトピックにわけて書こうと思う。基本的に僕は作品を見る時に作り手のことばかり考える人間なので、当然としてここでする話についても、作り手の話や、作劇の背景についての話が多いと思うが、作品自体の話もそれなりにするだろうと思う。

 

なお、デザインワークスやパンフレットの内容は一読した上で、この記事を書いている。憶測はあまり含まないつもりだが、解釈は入る。それだけ、僕にとってのウルトラマンは「わたくしごと」なのだ。

 

 

庵野秀明の脚本について

それがある意味では魅力のひとつといえばそうなのだが、原典の『ウルトラマン』のストーリーには、素晴らしく構成された宇宙恐怖についての概念的完全性がある一方で、SFとして見た時には荒唐無稽な部分がある。怪獣が日本にばかり出現することもそうだし、宇宙人が地球を狙っているなどと嘯いていながら実体を晒した上での大量破壊無差別テロしか行わないことなど、「フィクションとしての嘘」ではなく「撮劇ありきの荒唐無稽なプロット」が存在していたわけだ。(バルタンはなんで全員で来ないんだ、とか、言い出すとキリがない)(そういう意味で見ても、たとえばジャミラのやったことなどはかなり論理的なので、『ウルトラマン』全体に無理があるというわけではないし、カオスなストーリーも含めてウルトラマンの魅力だと理解している。)

果たして今回の庵野秀明の脚本は、そのあやふやな要素を全て解消していた。僕は何度も何度も「その手があったか……!」と膝を叩いた(婉曲表現だよ)。何ひとつ、無理がない。たしかにその方法なら上記の「全て」を完全に説明できる。

実際に観た人にしか(そして悲しいかな実際に観たとしても判り得ない場合もあるのだろうが)解らないことだが、「ある程度のフィクションとしての温度感」にさえ目を瞑れば、つまり外星人の存在、兵器としての巨大生物、多次元空間へアクセスできる量子物理学の実兵器転用などを「よし」と認めれば、その他のストーリーに論理的な運びとしては一切の矛盾がない。

かなり考えられたものであることは確かだ。メフィラスというキャラクターの本質を見抜いた慧眼に度肝を抜かれた。またSFとしての完全性が僕に『トップをねらえ!』をも思い起こさせた。奇しくも(というか狙っているのだと思うが)、『トップをねらえ!』の主人公、タカヤ・ノリコの名前の由来である高屋法子の配偶者は樋口真嗣で、それゆえ主人公の名前は「シンジ」である。

おそらくヘッジファンド・エージェントのような存在としての外星人の描写は実に痛快だ。ザラブやメフィラスは、スタンドアロン、つまり個人で活動し、母星の利益になることを行なうことで個人の利益を得ているのだろうが、多くのファンド・エージェントがそうあるように、彼らの投資には彼ら個人のイデオロギーがある。そしてその行動は、「宇宙全体の法」にさえ抵触していなければ何の問題もない。まさにそれこそは「個人主義の究極にして窮極」だ。なにせ、生命体住まう星ひとつの運用を個人の感性に委ねるのだから。少しポエティックなことを言えば、宇宙とは無へ向かって膨張し続ける、破滅へ向かう方舟だと言える。宇宙は膨大な「個」を抱えたまま拡大していく、そのエントロピーは増大していく。すなわち、すべての粒子(塵芥)の距離は無限に遠ざかっていき、最後には「無」がそこに残る。分断と断絶の時代に、宇宙というあまりに空虚な広さが我々に見せるのは、「極めて傲慢な個人主義」か「冷徹なまでに完璧な全体主義」のどちらかだ(前者はメフィラスに該当し、後者はザラブと、「あの男」に該当する)。しかし、我らがウルトラマンだけは違う。ウルトラマンはただひとり「彼自身のエゴ」でもって、それでいて「他者を慈しみ、愛し、守らんと欲する」のだ。その宇宙そのものより大きい圧倒的な傲慢は、メフィラスの欲など覆い隠すほど大きく、また、同時に罪深い。この地球の上に立って、僕たちは、あの銀色の巨人にどうすれば応えてやれるのだろうか。

また、この映画は神話的でもある。作劇でなく、展開に根ざす構造構成は僕に「プロメテウスの火」というギリシア神話を思い出させた。星野之宣の『巨人たちの伝説』という漫画があり、それが本当に素晴らしいのだが、その中で語られるのも「プロメテウスの火」だ。我々が巨人を想起する時、そこには破壊よりも先にかの「火」がある。プロメテウスは冷えてゆく人類を憐れみ、その姿を愛おしいと思い、人類に太陽の火をもたらしたが、そのために罰せられ、命を落とす。それを人と定義するのならば、それこそは福音をもたらす原初の人、つまりある種の「ヱウアンケリヲン」であり、「アダム」である。それゆえ、ウルトラマンは「神」であり、神を裁くことができるのは神だけだ。ゆえに、ウルトラマンを裁くのは「彼」でなければならない。(デウス・エクス・マキナとしての彼は、幻の『ウルトラマン神変』のデザインをして現れる。全てを殲滅する「ゼットン」の美しさは、神罰を思わせる。一兆度のゼットン火球、まさか原典の冗談のような設定をそのまま使ってしまうとは恐れ入る。)

それらの意図、意志、全てが甘美で、神々しい。我々は、分断の時代を生きる我々は、互いに手を取り合い、プロメテウスのもたらした火を守らなければならない。「本当は自発的な進化を望みたかった」と望む彼の言葉が、意志が、我々を救い、そしてまた試しもする。

それがウルトラマンの美しさであり、恐ろしさであり、もはや後に戻ることのできない人類の過酷な旅の序章なのだ。ウルトラマンとは「そういう物語」であったのだ。

なんと、美しいことか。

ただ、まあ、褒めるばかりではない。画に起こした時のテンポ感を見誤っていた部分もある。庵野秀明自身も編集には参加したはずだが、後半の展開はやや尻切れトンボだ。やりたいことはわかる。しかし人間を成長させるのなら、中盤ごろから「挫折」だけでなく「意欲」を見せて学習をさせておく必要はあったかもしれない。あるキャラクターの有能性(量子物理学における専門性)が、劇中ではやや唐突に見えた。

逆にいえば、気になったのはそれぐらいだ。100点満点で点数をつけるなら、8700万点。

 

樋口真嗣の画について

(総監修を庵野秀明が務めているので、画について庵野から相当の指示が入ったとは思うのだが、樋口の功績を讃える意味でも、あえて「画として出力されたもの」の元となった素材はすべて樋口真嗣の仕事だと「思う」ことにしている)
実によくできている。このクオリティを生み出せる監督が世界にどれだけいるのだろうか。「樋口カット」の構図の美しさ、「樋口の夜間飛行」の官能的なまでの美麗さ(何度も繰り返し言うが僕は樋口真嗣の夜間飛行のレイアウトが好き)は言うに及ばず。「実相寺アングル」の多用は結果論(庵野談)としても、個人的には満たされた。ドラマパートの画の作りと、特撮(CGなのだが)パートの作りを意図的に乖離させているのは非常に「特撮」めいていたし、その意味ではドラマパートの持つ雰囲気の強さが全体の作劇を映画たらしめたことは事実だと思う。樋口にはドラマが撮れないとずっと思っていたが、メフィラス周りの演出はかなり見事だった(それこそ『シン・ゴジラ』で現場の陣頭指揮の一翼を担った経験と、山本耕史斎藤工に助けられていた面も大きいと思うが)。

一方で、群像劇はかなり「ちゃちい」。これは事実で、多種多様なキャラクターを画面に同時に配置するのはどうも彼には向いていないようだ。庵野秀明の場合などはカット割を多用してそれを誤魔化している気がするが、アニメーションを前提とすると、多数の人物を同時に動かすというと、どうしても横から捉えたのっぺりした絵になる。パン振りの多様で無理やり誤魔化しているのは誤魔化しきれない違和感を残した。そういう均質な動きの中では各キャラクターは記号的になるし、どうしても「動き」の中では描ききれない(ナディアの「島編」の悪夢のことを言っているわけではない)。ガイナックス村のアニメ畑を出た者は多かれ少なかれこうなのだ、ということかもしれない。前述した「ある人物」の特性があまり活かせなかったのは、この意味で樋口の片手落ちかもしれない。まあ、細かいところまでは我々にはわからない。他にも、「会話」の作劇を重んじすぎたがために、場面転換がやや唐突にすぎる点や、キャラクターたちの移動に導線が見えない点(近年のJRPGでちらほら見受けられるが、キャラクターたちだけが世界から浮いてしゃべっているのだが、具体的にその会話が世界のどこでどう繰り広げられているか、ということを説明するための「社会とキャラクタとの繋がり」が希薄で、どうも身内で喋っているだけに見える、というチグハグさが映画的には厳しい。)もあった。まあ、これを言ったら終わりなのだが、そもそも特撮ってそういうものだから、それは良いよ、ということなのかもしれないが…。

話を戻すが、実はそんなことはこれから触れることに比べたら取るにたらない些事である。カスである。どうでもいい、くだらないことですらある。ウルトラマンは、かっこいいのだ。

何かしら映像を書こうということを考えた時に、そして「ウルトラマン」という圧倒的なものを画に起こす時に、「それが嘘である」ことを前提として描こうとする人は少ないのではないだろうか。フィクションを実現させる時、当然の手続きとしては、それがいかに本物であるか、本物に見せようとするかを考えるものと思う。樋口は明らかに(CGモデルであるのだからいかようにも動かせるにも関わらず)、「飛行中のウルトラマンは人形である」、「着地したウルトラマンは着ぐるみである」、「着ぐるみが戦ってるのですごい重さとかはない」と言わんばかりの描き方をしていた。(そしてそれは庵野秀明の『帰ってきたウルトラマン』を想起させる。)ここが妙で、我々もありもしないピアノ線を探してしまうのだ。「本当にそうあると思わせる」ことと、「作り物であることが滲む部分」を両立させてこそのウルトラマンなのだろう。CGアニメーションのブラッシュアップが足りない箇所はちらほら見受けられたが、本作に関わったスタッフの力量を考えれば制作現場を襲ったコロナ禍という災難による面が大きそうであるので、それは致し方ないと考える。まあ、与えられた場の中での技量不足と考えるかは個人の裁定だろう。そこのジャッジは難しいのだろうが、個人的には大満足だ。なにせ、やはりウルトラマンは「格好いい」。それが最も大切と思う。あの映像を観て、ウルトラマンのことをかっこいいと思わないのなら、理解ができないのであれば、それは(強い言葉を今から使う。)「観るやつが間違っている」だけだ。

そういえば、一部で長澤まさみ演じる「弘子」の描かれ方に対して疑問の声が挙がっているというのを耳にした。便宜上、「樋口の画」としてこれに触れる。「時代に合ってない」「老害だ」などという一方的な言説は基本的には非本質的で建設的でないと思うので、この現象については一応はリアリスティックに(オヤジ的概念の拒絶による自己阻害を善しとするのではなく、可能な限り物理現象として)触れる。

まず、これが、ある種の「フェチズム」であるという点は概ね見解が一致すると思う。要するには、これは、庵野秀明の脚本時点で(庵野自身は)「救出劇での異性としての意識」「匂いを嗅ぐシーンで恥じらいを見せて恋愛感情を描写」「クライマックスでキスシーン」(脚本段階では本当にあった)というような要素を考えていたわけだが、これが樋口の、悪い意味で樋口真嗣ならではの、「フェチズム」によってあの形の画になったことによって、恋愛的な意味での外連味ではなくセクハラ的な意味での生理的嫌悪感の描写に終始し、結果そのためもあってキスシーンを排除したことで、出力された画が恋愛ではない「性」単体の具象として受容されたのではないかと思う。

アニメーションの文脈では、肉体性を持たない絵としてのキャラクターがどれだけ接触してもさほど生理的な気分が沸き起こらないわけだが(そのためにわざわざ赤面させたり過剰な恋愛感情演技をさせなければならない。もちろん、物語の都合で。)、これを実存としての肉体を持つ俳優がやると「生理的なパーソナルスペース感」とか「性的な接続感」とかに意識が向かってしまう。「匂い」にも具体的な肉体的感覚が伴って感じられてしまう。まして、樋口真嗣は明らかにそういう演技を「させている」。

この点はアニメーション畑の庵野の脚本における見込み間違いと、樋口の「良しとする画」の方向性のズレ、このふたつの「噛み合わず」が悪い方で噛み合った結果だろうと思うわけである(一緒くたにして語っても仕方がないが、アニメでは女性キャラクターが男性キャラクターに不適切な接触をすることや、男性キャラクターが女性が恥じらいや嫌悪感を感じる行為を真面目な文脈の中で行うことは、「悪い意味での日常茶飯事」である)。

ただ、一点、あるシーンで「長澤まさみを下からのアングルで撮ったこと」は、(ここにフェチが全くないとは言わない。そとそもあのシーンを描きたいのはストーリーの要請が6割、フェチが4割だし、庵野秀明長澤まさみを使いたいと思ったのは脚本が庵野秀明だからだと思う。だが、)どちらかといえばあれは「樋口カット」であると同時に「ワセリン」である。あれは特撮映像そのものであり、同時に、『ウルトラマン』の作品性である。絵としては、つまり「長澤まさみが大きなものであること」の説得的説明描写なので、そこまで一緒くたにして語るのは違うだろうと思う。Youtubeに動画がアップされているシーンは、切り離すのもどうかと思うが、あれは脚本意図としては「弘子というキャラクターの逞しさの表現」として使ったつもりだと思うのだが、これがなかなか受容論というのは難しい。

今回樋口にケチをつける気にはならないが、受容論では「私ごと」が優先される。そういう意味では、僕にとっての「私ごと」は「ウルトラマンはピアノ線で吊られている(しかも腹側で吊られた映像を反転している)」とか「ワセリンカット」とかであり、もっと言えば「重力を自在に操り空を飛ぶ銀色の巨人」であり、「プロメテウスの火」だった。残念ながら、それが現実としての実態だ。

 

斎藤工の演技について

素晴らしい。『シン・ウルトラマン』を映画たらしめた最大の功労者だ。

斎藤工は、まさに、完璧だ。幽玄にして神秘、波動そのものの存在が受肉をして、現世に降り立った。美しく、儚く、不気味で、恐ろしく、ソリッドでありかつ、揺らぎの中で定義される量子的な存在だ。非の打ち所がない。彼はまさに、「光」そのものだった。

「神を下ろす」ことの難易度の高さを考えれば、(考えることさえできないと言う意味で)その技量が窺い知れるというものだろう。斎藤工という演者は、普段の役どころのイメージでは「セクシー」であり、生物的であり、肉体的であるのだが、画の中に映る斎藤工演じる神永シンジには「匂い」や「温度感」が存在しなかった。メイクだとか画調だとかそんなレベルではないことは、目撃した人にとっては明らかだろう。あえて趣味の悪い言い方をするのならば、冒頭シーンから後半の「チームアップ」に至るまでの神永シンジは「死体」だった。

首をうっすらもたげたまま、眉ひとつ動かさずに早足で歩く異質さ、会話の端々にある違和感、しかし仲間を想う心を思わせる視線の真っ直ぐさ。

どんな危機に陥っても立ち振る舞いにて一切表情を崩さない、良い意味で人間味のない神永シンジ=ウルトラマンだったからこそ、終盤のシーンで見せる微笑、その「人間性」に意味がある。トラジック・アルカイック・スマイルとでも言おうか、菩薩のようなあのニュアンスの中に切なさを併せ持つあの笑みは、まるでウルトラマンが本当に人間と同じ姿をしているようだ。ウルトラマンの種族(光の星の知的生命体)も、かつては人類と同じ種族の生命体だった。スペシウム133をはじめとする高度な技術を発達させ、宇宙全体の監視者にまでなった彼らが、その発展と戦いの歴史の中で忘れていったものがあるとすれば、それはあの微笑みに他ならない。

彼の微笑みを忘れない。僕の中の「ウルトラマン」の宝石箱のような思い出の中に、斎藤工演じる「ウルトラマンになる男」が追加された。幸せなことだ。

 

・米津玄師の書く主題歌について

お前さぁーーーーーーーーーマジで、、、、天才か???????天才なら最初からそう言ってよ。困るから、マジで。

こんなに「ウルトラマン然とした」曲を書かれたら、それはもう、こういうリアクションをするしかない。僕が個人的にハチ a.k.a. 米津玄師のことを敬愛しその楽曲を愛している事実を傍に置いておいても、今回の主題歌は、もう、素晴らしすぎちゃってる。

まず、必ず触れておかなければならないのは『海の幽霊』との相似性。あれは深海の重量とエコー溢れるサウンドに乗せて表現した、映画『海獣の子供』の主題歌だった。海とは星の散りばめられた生命のふるさとであり、それは宇宙そのものと同じ大きさを(表現的な実在として)持つ。同じセンスを持った同じ人間が、「宇宙」を描けば、とうぜん、サウンドに近しい部分が現れる。必然だ。こういう、方程式を解くかのような数学的な必然性が美しいのだ。

そこから違うところを考えると、『海の幽霊』が陸地から始まり、海へ回帰し、再び陸地へと上がっていく「孤独」(良い意味で)の詩だったのに対すると、今回の『M八七』は、最後には宇宙を駆けていくような疾走感と解放感がある。ゆえに予告では「樋口の夜間飛行」と併せて使われていたのだが、この辺りの意図は奇跡のマッチングだと思う。カラータイマーを思わせるサウンドエフェクトも美しいが、何よりストリングスの作るリズムの妙だ。

「遥か空の星がひどく輝いて見えたから」。はじめ満天の星々を見上げ、瞬く星々を薄目で見つめる「わたし」。その口は固く結ばれていて、握り拳を解くこともなく、風に吹かれる。それは「飛び立つ日の孤独」でもあり、「帰らぬ人を見つめる孤独」でもある。やがて「君が望むなら」、視点は天を飛ぶ。地上から見上げる光の点だった星々が、猛スピードで宇宙をかける「わたし」の視点では、線へと引き伸ばされていく。光の線は束となり、螺旋軌道を描きながら「わたし」から離れていく。今度は「わたし」による孤独の旅が始まる。「今度はわたしの番」なのだろう。それを地球という星から見上げる「わたし」と、それを宇宙から感じている「わたし」が畳み込まれて、同一性を持っている。わたしはかつて天を飛びゆくひとつの光によって祝福され、その祝福がかつての「わたし」に降り注ぐ。それは繰り返す孤独の引力であり、宇宙を繋ぎ止めているただひとつの真実なのかもしれない。

ウルトラマンウルトラマンたらしめているのは、超然的なあり方でもその強さでもない。それは我々と同じ「痛み(宇宙をただひとり飛びただよう孤独)を知るただ一人(のちっぽけな生き物)」であり、それは全能の神ではなく、ただ自身の生の意味を、他者を慈しみ戦うことにかけたひとりの「人」であることなのだ。この辺りは、俗に言う「平成ウルトラセブン」の『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』で、フルハシ隊長が地に臥したセブン=モロボシ・ダンを見て言う、「こいつは、地球人よりも地球のことが好きな、大馬鹿野郎だ」という言葉であったり、『ウルトラマンエース』最終回でエースが語る「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。例えその気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ」という言葉とも重なる。

我々は小さく、孤独だが、ひとりではない。「微かに笑え、あの星のように」。微笑みを携えて、我らは星の海をゆく。それは孤独な旅だが、人は決してひとりではないことを、ウルトラマンは教えてくれた。銀色の巨人は、今も僕たちを見つめて微笑んでいる。

 

これでこの、取り留めのない文章は終わりだ。感情だけで書いたので、本当に取り留めがない。

しかし、そういうものだと思う。

思えば、僕は、ウルトラマンが好きだったのだ。ウルトラマンは、格好いいのだ。

 

(おわり)