そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

シン・ウルトラマン。

 

こんなことは改めていうことではないのだが、作品の中身についての情報がある。僕はそういう当たり前のことを当たり前に言わなかったことで当たり前に怒られるというのが当たり前に嫌いである。

 

さて、樋口真嗣監督による最新作、『シン・ウルトラマン』を観た。それについて書こうというわけだが、残念ながら、観劇からしばらく経った今でもバカでかい感情の波に襲われてしまうので、書き出すとキリがない。キリがないが、色々と書いておきたい。

それで、キリをなんとかつけるために、4つのトピックにわけて書こうと思う。基本的に僕は作品を見る時に作り手のことばかり考える人間なので、当然としてここでする話についても、作り手の話や、作劇の背景についての話が多いと思うが、作品自体の話もそれなりにするだろうと思う。

 

なお、デザインワークスやパンフレットの内容は一読した上で、この記事を書いている。憶測はあまり含まないつもりだが、解釈は入る。それだけ、僕にとってのウルトラマンは「わたくしごと」なのだ。

 

 

庵野秀明の脚本について

それがある意味では魅力のひとつといえばそうなのだが、原典の『ウルトラマン』のストーリーには、素晴らしく構成された宇宙恐怖についての概念的完全性がある一方で、SFとして見た時には荒唐無稽な部分がある。怪獣が日本にばかり出現することもそうだし、宇宙人が地球を狙っているなどと嘯いていながら実体を晒した上での大量破壊無差別テロしか行わないことなど、「フィクションとしての嘘」ではなく「撮劇ありきの荒唐無稽なプロット」が存在していたわけだ。(バルタンはなんで全員で来ないんだ、とか、言い出すとキリがない)(そういう意味で見ても、たとえばジャミラのやったことなどはかなり論理的なので、『ウルトラマン』全体に無理があるというわけではないし、カオスなストーリーも含めてウルトラマンの魅力だと理解している。)

果たして今回の庵野秀明の脚本は、そのあやふやな要素を全て解消していた。僕は何度も何度も「その手があったか……!」と膝を叩いた(婉曲表現だよ)。何ひとつ、無理がない。たしかにその方法なら上記の「全て」を完全に説明できる。

実際に観た人にしか(そして悲しいかな実際に観たとしても判り得ない場合もあるのだろうが)解らないことだが、「ある程度のフィクションとしての温度感」にさえ目を瞑れば、つまり外星人の存在、兵器としての巨大生物、多次元空間へアクセスできる量子物理学の実兵器転用などを「よし」と認めれば、その他のストーリーに論理的な運びとしては一切の矛盾がない。

かなり考えられたものであることは確かだ。メフィラスというキャラクターの本質を見抜いた慧眼に度肝を抜かれた。またSFとしての完全性が僕に『トップをねらえ!』をも思い起こさせた。奇しくも(というか狙っているのだと思うが)、『トップをねらえ!』の主人公、タカヤ・ノリコの名前の由来である高屋法子の配偶者は樋口真嗣で、それゆえ主人公の名前は「シンジ」である。

おそらくヘッジファンド・エージェントのような存在としての外星人の描写は実に痛快だ。ザラブやメフィラスは、スタンドアロン、つまり個人で活動し、母星の利益になることを行なうことで個人の利益を得ているのだろうが、多くのファンド・エージェントがそうあるように、彼らの投資には彼ら個人のイデオロギーがある。そしてその行動は、「宇宙全体の法」にさえ抵触していなければ何の問題もない。まさにそれこそは「個人主義の究極にして窮極」だ。なにせ、生命体住まう星ひとつの運用を個人の感性に委ねるのだから。少しポエティックなことを言えば、宇宙とは無へ向かって膨張し続ける、破滅へ向かう方舟だと言える。宇宙は膨大な「個」を抱えたまま拡大していく、そのエントロピーは増大していく。すなわち、すべての粒子(塵芥)の距離は無限に遠ざかっていき、最後には「無」がそこに残る。分断と断絶の時代に、宇宙というあまりに空虚な広さが我々に見せるのは、「極めて傲慢な個人主義」か「冷徹なまでに完璧な全体主義」のどちらかだ(前者はメフィラスに該当し、後者はザラブと、「あの男」に該当する)。しかし、我らがウルトラマンだけは違う。ウルトラマンはただひとり「彼自身のエゴ」でもって、それでいて「他者を慈しみ、愛し、守らんと欲する」のだ。その宇宙そのものより大きい圧倒的な傲慢は、メフィラスの欲など覆い隠すほど大きく、また、同時に罪深い。この地球の上に立って、僕たちは、あの銀色の巨人にどうすれば応えてやれるのだろうか。

また、この映画は神話的でもある。作劇でなく、展開に根ざす構造構成は僕に「プロメテウスの火」というギリシア神話を思い出させた。星野之宣の『巨人たちの伝説』という漫画があり、それが本当に素晴らしいのだが、その中で語られるのも「プロメテウスの火」だ。我々が巨人を想起する時、そこには破壊よりも先にかの「火」がある。プロメテウスは冷えてゆく人類を憐れみ、その姿を愛おしいと思い、人類に太陽の火をもたらしたが、そのために罰せられ、命を落とす。それを人と定義するのならば、それこそは福音をもたらす原初の人、つまりある種の「ヱウアンケリヲン」であり、「アダム」である。それゆえ、ウルトラマンは「神」であり、神を裁くことができるのは神だけだ。ゆえに、ウルトラマンを裁くのは「彼」でなければならない。(デウス・エクス・マキナとしての彼は、幻の『ウルトラマン神変』のデザインをして現れる。全てを殲滅する「ゼットン」の美しさは、神罰を思わせる。一兆度のゼットン火球、まさか原典の冗談のような設定をそのまま使ってしまうとは恐れ入る。)

それらの意図、意志、全てが甘美で、神々しい。我々は、分断の時代を生きる我々は、互いに手を取り合い、プロメテウスのもたらした火を守らなければならない。「本当は自発的な進化を望みたかった」と望む彼の言葉が、意志が、我々を救い、そしてまた試しもする。

それがウルトラマンの美しさであり、恐ろしさであり、もはや後に戻ることのできない人類の過酷な旅の序章なのだ。ウルトラマンとは「そういう物語」であったのだ。

なんと、美しいことか。

ただ、まあ、褒めるばかりではない。画に起こした時のテンポ感を見誤っていた部分もある。庵野秀明自身も編集には参加したはずだが、後半の展開はやや尻切れトンボだ。やりたいことはわかる。しかし人間を成長させるのなら、中盤ごろから「挫折」だけでなく「意欲」を見せて学習をさせておく必要はあったかもしれない。あるキャラクターの有能性(量子物理学における専門性)が、劇中ではやや唐突に見えた。

逆にいえば、気になったのはそれぐらいだ。100点満点で点数をつけるなら、8700万点。

 

樋口真嗣の画について

(総監修を庵野秀明が務めているので、画について庵野から相当の指示が入ったとは思うのだが、樋口の功績を讃える意味でも、あえて「画として出力されたもの」の元となった素材はすべて樋口真嗣の仕事だと「思う」ことにしている)
実によくできている。このクオリティを生み出せる監督が世界にどれだけいるのだろうか。「樋口カット」の構図の美しさ、「樋口の夜間飛行」の官能的なまでの美麗さ(何度も繰り返し言うが僕は樋口真嗣の夜間飛行のレイアウトが好き)は言うに及ばず。「実相寺アングル」の多用は結果論(庵野談)としても、個人的には満たされた。ドラマパートの画の作りと、特撮(CGなのだが)パートの作りを意図的に乖離させているのは非常に「特撮」めいていたし、その意味ではドラマパートの持つ雰囲気の強さが全体の作劇を映画たらしめたことは事実だと思う。樋口にはドラマが撮れないとずっと思っていたが、メフィラス周りの演出はかなり見事だった(それこそ『シン・ゴジラ』で現場の陣頭指揮の一翼を担った経験と、山本耕史斎藤工に助けられていた面も大きいと思うが)。

一方で、群像劇はかなり「ちゃちい」。これは事実で、多種多様なキャラクターを画面に同時に配置するのはどうも彼には向いていないようだ。庵野秀明の場合などはカット割を多用してそれを誤魔化している気がするが、アニメーションを前提とすると、多数の人物を同時に動かすというと、どうしても横から捉えたのっぺりした絵になる。パン振りの多様で無理やり誤魔化しているのは誤魔化しきれない違和感を残した。そういう均質な動きの中では各キャラクターは記号的になるし、どうしても「動き」の中では描ききれない(ナディアの「島編」の悪夢のことを言っているわけではない)。ガイナックス村のアニメ畑を出た者は多かれ少なかれこうなのだ、ということかもしれない。前述した「ある人物」の特性があまり活かせなかったのは、この意味で樋口の片手落ちかもしれない。まあ、細かいところまでは我々にはわからない。他にも、「会話」の作劇を重んじすぎたがために、場面転換がやや唐突にすぎる点や、キャラクターたちの移動に導線が見えない点(近年のJRPGでちらほら見受けられるが、キャラクターたちだけが世界から浮いてしゃべっているのだが、具体的にその会話が世界のどこでどう繰り広げられているか、ということを説明するための「社会とキャラクタとの繋がり」が希薄で、どうも身内で喋っているだけに見える、というチグハグさが映画的には厳しい。)もあった。まあ、これを言ったら終わりなのだが、そもそも特撮ってそういうものだから、それは良いよ、ということなのかもしれないが…。

話を戻すが、実はそんなことはこれから触れることに比べたら取るにたらない些事である。カスである。どうでもいい、くだらないことですらある。ウルトラマンは、かっこいいのだ。

何かしら映像を書こうということを考えた時に、そして「ウルトラマン」という圧倒的なものを画に起こす時に、「それが嘘である」ことを前提として描こうとする人は少ないのではないだろうか。フィクションを実現させる時、当然の手続きとしては、それがいかに本物であるか、本物に見せようとするかを考えるものと思う。樋口は明らかに(CGモデルであるのだからいかようにも動かせるにも関わらず)、「飛行中のウルトラマンは人形である」、「着地したウルトラマンは着ぐるみである」、「着ぐるみが戦ってるのですごい重さとかはない」と言わんばかりの描き方をしていた。(そしてそれは庵野秀明の『帰ってきたウルトラマン』を想起させる。)ここが妙で、我々もありもしないピアノ線を探してしまうのだ。「本当にそうあると思わせる」ことと、「作り物であることが滲む部分」を両立させてこそのウルトラマンなのだろう。CGアニメーションのブラッシュアップが足りない箇所はちらほら見受けられたが、本作に関わったスタッフの力量を考えれば制作現場を襲ったコロナ禍という災難による面が大きそうであるので、それは致し方ないと考える。まあ、与えられた場の中での技量不足と考えるかは個人の裁定だろう。そこのジャッジは難しいのだろうが、個人的には大満足だ。なにせ、やはりウルトラマンは「格好いい」。それが最も大切と思う。あの映像を観て、ウルトラマンのことをかっこいいと思わないのなら、理解ができないのであれば、それは(強い言葉を今から使う。)「観るやつが間違っている」だけだ。

そういえば、一部で長澤まさみ演じる「弘子」の描かれ方に対して疑問の声が挙がっているというのを耳にした。便宜上、「樋口の画」としてこれに触れる。「時代に合ってない」「老害だ」などという一方的な言説は基本的には非本質的で建設的でないと思うので、この現象については一応はリアリスティックに(オヤジ的概念の拒絶による自己阻害を善しとするのではなく、可能な限り物理現象として)触れる。

まず、これが、ある種の「フェチズム」であるという点は概ね見解が一致すると思う。要するには、これは、庵野秀明の脚本時点で(庵野自身は)「救出劇での異性としての意識」「匂いを嗅ぐシーンで恥じらいを見せて恋愛感情を描写」「クライマックスでキスシーン」(脚本段階では本当にあった)というような要素を考えていたわけだが、これが樋口の、悪い意味で樋口真嗣ならではの、「フェチズム」によってあの形の画になったことによって、恋愛的な意味での外連味ではなくセクハラ的な意味での生理的嫌悪感の描写に終始し、結果そのためもあってキスシーンを排除したことで、出力された画が恋愛ではない「性」単体の具象として受容されたのではないかと思う。

アニメーションの文脈では、肉体性を持たない絵としてのキャラクターがどれだけ接触してもさほど生理的な気分が沸き起こらないわけだが(そのためにわざわざ赤面させたり過剰な恋愛感情演技をさせなければならない。もちろん、物語の都合で。)、これを実存としての肉体を持つ俳優がやると「生理的なパーソナルスペース感」とか「性的な接続感」とかに意識が向かってしまう。「匂い」にも具体的な肉体的感覚が伴って感じられてしまう。まして、樋口真嗣は明らかにそういう演技を「させている」。

この点はアニメーション畑の庵野の脚本における見込み間違いと、樋口の「良しとする画」の方向性のズレ、このふたつの「噛み合わず」が悪い方で噛み合った結果だろうと思うわけである(一緒くたにして語っても仕方がないが、アニメでは女性キャラクターが男性キャラクターに不適切な接触をすることや、男性キャラクターが女性が恥じらいや嫌悪感を感じる行為を真面目な文脈の中で行うことは、「悪い意味での日常茶飯事」である)。

ただ、一点、あるシーンで「長澤まさみを下からのアングルで撮ったこと」は、(ここにフェチが全くないとは言わない。そとそもあのシーンを描きたいのはストーリーの要請が6割、フェチが4割だし、庵野秀明長澤まさみを使いたいと思ったのは脚本が庵野秀明だからだと思う。だが、)どちらかといえばあれは「樋口カット」であると同時に「ワセリン」である。あれは特撮映像そのものであり、同時に、『ウルトラマン』の作品性である。絵としては、つまり「長澤まさみが大きなものであること」の説得的説明描写なので、そこまで一緒くたにして語るのは違うだろうと思う。Youtubeに動画がアップされているシーンは、切り離すのもどうかと思うが、あれは脚本意図としては「弘子というキャラクターの逞しさの表現」として使ったつもりだと思うのだが、これがなかなか受容論というのは難しい。

今回樋口にケチをつける気にはならないが、受容論では「私ごと」が優先される。そういう意味では、僕にとっての「私ごと」は「ウルトラマンはピアノ線で吊られている(しかも腹側で吊られた映像を反転している)」とか「ワセリンカット」とかであり、もっと言えば「重力を自在に操り空を飛ぶ銀色の巨人」であり、「プロメテウスの火」だった。残念ながら、それが現実としての実態だ。

 

斎藤工の演技について

素晴らしい。『シン・ウルトラマン』を映画たらしめた最大の功労者だ。

斎藤工は、まさに、完璧だ。幽玄にして神秘、波動そのものの存在が受肉をして、現世に降り立った。美しく、儚く、不気味で、恐ろしく、ソリッドでありかつ、揺らぎの中で定義される量子的な存在だ。非の打ち所がない。彼はまさに、「光」そのものだった。

「神を下ろす」ことの難易度の高さを考えれば、(考えることさえできないと言う意味で)その技量が窺い知れるというものだろう。斎藤工という演者は、普段の役どころのイメージでは「セクシー」であり、生物的であり、肉体的であるのだが、画の中に映る斎藤工演じる神永シンジには「匂い」や「温度感」が存在しなかった。メイクだとか画調だとかそんなレベルではないことは、目撃した人にとっては明らかだろう。あえて趣味の悪い言い方をするのならば、冒頭シーンから後半の「チームアップ」に至るまでの神永シンジは「死体」だった。

首をうっすらもたげたまま、眉ひとつ動かさずに早足で歩く異質さ、会話の端々にある違和感、しかし仲間を想う心を思わせる視線の真っ直ぐさ。

どんな危機に陥っても立ち振る舞いにて一切表情を崩さない、良い意味で人間味のない神永シンジ=ウルトラマンだったからこそ、終盤のシーンで見せる微笑、その「人間性」に意味がある。トラジック・アルカイック・スマイルとでも言おうか、菩薩のようなあのニュアンスの中に切なさを併せ持つあの笑みは、まるでウルトラマンが本当に人間と同じ姿をしているようだ。ウルトラマンの種族(光の星の知的生命体)も、かつては人類と同じ種族の生命体だった。スペシウム133をはじめとする高度な技術を発達させ、宇宙全体の監視者にまでなった彼らが、その発展と戦いの歴史の中で忘れていったものがあるとすれば、それはあの微笑みに他ならない。

彼の微笑みを忘れない。僕の中の「ウルトラマン」の宝石箱のような思い出の中に、斎藤工演じる「ウルトラマンになる男」が追加された。幸せなことだ。

 

・米津玄師の書く主題歌について

お前さぁーーーーーーーーーマジで、、、、天才か???????天才なら最初からそう言ってよ。困るから、マジで。

こんなに「ウルトラマン然とした」曲を書かれたら、それはもう、こういうリアクションをするしかない。僕が個人的にハチ a.k.a. 米津玄師のことを敬愛しその楽曲を愛している事実を傍に置いておいても、今回の主題歌は、もう、素晴らしすぎちゃってる。

まず、必ず触れておかなければならないのは『海の幽霊』との相似性。あれは深海の重量とエコー溢れるサウンドに乗せて表現した、映画『海獣の子供』の主題歌だった。海とは星の散りばめられた生命のふるさとであり、それは宇宙そのものと同じ大きさを(表現的な実在として)持つ。同じセンスを持った同じ人間が、「宇宙」を描けば、とうぜん、サウンドに近しい部分が現れる。必然だ。こういう、方程式を解くかのような数学的な必然性が美しいのだ。

そこから違うところを考えると、『海の幽霊』が陸地から始まり、海へ回帰し、再び陸地へと上がっていく「孤独」(良い意味で)の詩だったのに対すると、今回の『M八七』は、最後には宇宙を駆けていくような疾走感と解放感がある。ゆえに予告では「樋口の夜間飛行」と併せて使われていたのだが、この辺りの意図は奇跡のマッチングだと思う。カラータイマーを思わせるサウンドエフェクトも美しいが、何よりストリングスの作るリズムの妙だ。

「遥か空の星がひどく輝いて見えたから」。はじめ満天の星々を見上げ、瞬く星々を薄目で見つめる「わたし」。その口は固く結ばれていて、握り拳を解くこともなく、風に吹かれる。それは「飛び立つ日の孤独」でもあり、「帰らぬ人を見つめる孤独」でもある。やがて「君が望むなら」、視点は天を飛ぶ。地上から見上げる光の点だった星々が、猛スピードで宇宙をかける「わたし」の視点では、線へと引き伸ばされていく。光の線は束となり、螺旋軌道を描きながら「わたし」から離れていく。今度は「わたし」による孤独の旅が始まる。「今度はわたしの番」なのだろう。それを地球という星から見上げる「わたし」と、それを宇宙から感じている「わたし」が畳み込まれて、同一性を持っている。わたしはかつて天を飛びゆくひとつの光によって祝福され、その祝福がかつての「わたし」に降り注ぐ。それは繰り返す孤独の引力であり、宇宙を繋ぎ止めているただひとつの真実なのかもしれない。

ウルトラマンウルトラマンたらしめているのは、超然的なあり方でもその強さでもない。それは我々と同じ「痛み(宇宙をただひとり飛びただよう孤独)を知るただ一人(のちっぽけな生き物)」であり、それは全能の神ではなく、ただ自身の生の意味を、他者を慈しみ戦うことにかけたひとりの「人」であることなのだ。この辺りは、俗に言う「平成ウルトラセブン」の『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』で、フルハシ隊長が地に臥したセブン=モロボシ・ダンを見て言う、「こいつは、地球人よりも地球のことが好きな、大馬鹿野郎だ」という言葉であったり、『ウルトラマンエース』最終回でエースが語る「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。例えその気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ」という言葉とも重なる。

我々は小さく、孤独だが、ひとりではない。「微かに笑え、あの星のように」。微笑みを携えて、我らは星の海をゆく。それは孤独な旅だが、人は決してひとりではないことを、ウルトラマンは教えてくれた。銀色の巨人は、今も僕たちを見つめて微笑んでいる。

 

これでこの、取り留めのない文章は終わりだ。感情だけで書いたので、本当に取り留めがない。

しかし、そういうものだと思う。

思えば、僕は、ウルトラマンが好きだったのだ。ウルトラマンは、格好いいのだ。

 

(おわり)