そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

『トップをねらえ2!』は何を失って、何を取り戻す僕たちのお話だったのだろうか。

  

トップをねらえ2!』を見たことのない人間なんていうのは、これを開くことはないと思いますが、一応言っておくと「観劇を前提とした記事」です。

 

しかし、『トップをねらえ2!』ほど僕が友人全員に素晴らしさを熱弁して、そしてそもそも「見てすらもらえない」作品もないので、ある意味この「ネタバレ」というものに満ち満ちた記事の存在そのものが「ああ、こいつがこれくらいの熱量を持ってるものなんだなあ」と思い返す一地点になればそれはそれでよいのではないかと思ったわけであります。

 

重ね重ね、僕は「ネタバレ」なるものが観劇の質を下げるとはこれっぽっちも思っていない(驚くべきことに、実は逆である、とまだ思っていて、これは多くの映画批評家神経科学の世界からも支持される仮説なのだが、まあそれは本論の趣旨ではないので、良いでしょう)わけであって、その観点に照らせば、これを先に読んでしまって「そう云う話をやるのか」と見ても良いかもしれません。

 

それと、これは僕の文章を初めて読む人がもしいれば、という話なんですが、僕は「作劇」というものが「作者の意図」を超えたところで「そういう意味を持つことはあるだろう」ということを一切否定しない人間です。

つまり、読む上でのテクストとしての作劇は、さまざまな読み方ができるものであろうということです。それらには筋の良し悪しはあっても「無い」ということは無かろうと思います。

 

本題に入ります。

2度目になりますが、そして最後ですが、これは「すでに作品を見たこと」を前提とした記事です。答え合わせだと思ってください。

 

さて、この記事における『トップ2!』の着眼点ですが、読評ですから、やはり「対比」です。

この作品のもつ幾層にも折り重なった対比構造を、僕は「畳み込み(コンボリュージョン)」とでも呼ぼうかと思います。

 

SFですから。

 

永遠と刹那の次元畳み込み(コンボリュージョン)

 

トップをねらえ!』では、地球と同じ時の流れから切り離されたノリコが、1万2千年という途方もない時を超えて辿り着いた「未来の地球」に、「オカエリナサλ」 (λは正しくは「イ」の反転)の言葉で迎えられます。

 

そうなると、当然、この物語の解釈としては、「永遠に同じ時を生きられないという呪いにかけられ時間の牢獄に囚われたノリコ」に対して、「1万2千年の時を超えた言葉」が届くということであってみれば、

 

1万と2先年間、片時も絶やさずにユングの「おかえりなさいの約束」が守られ続けたのだ、

 

「違う時の中を、同じ想いが生きたのだ」と、

 

そう考えるのが自然な結論であるわけです。

これは『トップ』の時点では、まさしくウラシマ効果を「エモ」なドラマに落とし込む、というところで、同時代の少女活劇と比較しても卓越したストーリーテリングだったわけですが、

 

そんな風に、見た人が「素敵なお話だねえ」とせっかくいい具合に感動しているところ、この『トップをねらえ2!』という作品は、少々冷めたような、というよりもアイロニックで意地悪な疑問を投げ掛けます

 

「人類なんていう弱くて情けない生き物が、1万2千年も、一人の少女への約束を覚えていられるわけがないのではないか?」

 

その答えは、「No, you cannot」ではじまります。とりあえず。

 

怠惰と諦念の畳み込み

事実、『2!』世界の人間は、だれひとりとしてノリコとカズミのことを覚えてはいませんでした。(まあそう意地悪に作ったから当然なんですが)バスターマシンと宇宙怪獣の戦いでさえ、その詳細は捻じ曲がって伝わり、1万年間の安寧にあぐらをかいていた人類は「本当の脅威」に立ち向かう牙をすら削がれてしまっていました。

 

「努力と根性で不可能を可能にした、嘘みたいな夢物語」がかつて「本当にあった」ことを忘れてしまった。


赤い天の川という揺り籠の中でぬくぬくと育った人類は、その揺り籠に自分達が守られていることも知らず、やがて「何もかも、宇宙すら自分の思い通りにできる」という思い上がりに至ります。トップレス能力は、少年期の願望、万能感が、増長したエゴが世界にまで侵食した姿。世界を思い通りに操り、やがて肥大化したエゴは変動重力源ーーほんものの宇宙怪獣ーーに姿を変える

 

(そのあたりは、『SSSS.DYNAZENON』の「怪獣」というのは、実は「そういうもの」だったわけであって、ガイナの血統ここにあり、という感じでした。)

 

弱く情けない肉体をふりしぼって、痛みに耐えて、戦って何かを得るということをよしとせず、厳しい戦いに身を置くことをせずーー「自分は特別な存在だから、何をやってもうまくいく」という妄想に取り憑かれて「努力と根性」を忘れた人類というのは、やがて醜く宇宙を貪り尽くす宇宙怪獣そのものなのだーー。


これはメタ的に捉えた時、現実世界・現代社会を流れる時代感において、若者の中に、ある種、社会に対する倦怠感や諦念感が広がったこととも、関連性は高いでしょう。

ゼロ年代のアニメとして作られた『トップ2!』の、もっともらしい位置付けでもあります。

 

既往の社会には望むものは何もなく、破壊を以ってしかその秩序の精神的回復は図れない。

その破壊は根底から祝福されており、その道行は無条件に肯定されなければならない。

さもなくば「社会から隔絶された夢世界での無限の繰り返し」を、私たちは望む。

 

望んできたわけであります。

 

自由を求め、本質を求め、現実ではない非現実の「日常」に若者は没頭する。そこには「仕事」も「授業」も「宿題」も「ゴミ出し」もない。しかし若者はどこまで行っても自分たちが唾棄する「大人」の庇護下にあるのだが、彼らはそのことを必死で忘却しようとするーー。たとえば、作中にそれを「出さない」などして。

 

これはとても必然性のあるストーリーラインです。「だから」、「大人」がろくすっぽ登場しないのです。

 

その世界に、かつて身を犠牲に「努力と根性」で世界を守った少女の物語など、存在しようがありません。そこには物語の引力というか動力というものが間違いなくあって、『トップ2!』の世界とは「ノリコ」が存在できない世界なのです。

 

それは、ある意味で「リアル=現実的」な(つまりメタフィクションを取り込んだ)物語性だと思うのです。つまりそれは「われわれは『トップをねらえ!』という努力と根性の物語を忘れ生きてきたのではないか」ということですから。

この、ある種の「イデオロギーの忘却」は、当時の若者文化の「社会の普遍性、無意味性、大人世界の無価値さ」と結びついて、ついには「叶いもしない夢を見続けることの無意味さ」という形で、作中ではじめ多くの登場人物に支持されます。

 

つまり、古臭い夢を捨てて、今だけにフォーカスして生きるべきだと。「あがり」を持つトップレスたち、その儚い一生。彼らは現実を見ることなく、「フラタニティ」という空虚な檻の中で、「スコア」を稼ぎます。一瞬の輝き、繰り返すだけのゲームに、彼らは延々と興じる。振り返ることもなく。

少年期が終われば、エゴの時代が終われば、後は残されたこのなんの意味もない世界で生きている価値などないのだと。

 

だから、彼らはトップレス能力がなくなることを恐れます。「大人になったらいいことなんてない」からです。

 

時の流れによる忘却と、人類の変化。この二つの要素こそが、一度、「ノリコの物語」を完全に殺したのです。そうです、ここは『トップをねらえ!』の続編にふさわしい世界では無い。

なので、そのタイトルは『トップをねらえ!2』ではない。

これは『トップをねらえ2!』という全く別の物語。

 

この「ノリコの存在できない物語」の構造が、4話で、そして6話で、2度叩き壊されることになるわけです。

 

ラルクは、ノノに言われて初めて気付きました。「友達を家に連れて行く」ことが「初めて」であることに。

 

 

脆弱な精神(ニンゲン)と、肉体を持つ生命の畳み込み

さて、人類の変化は、ある意味では嘆くべきことかもしれません。ただ、「人類による忘却」、それは罪と言えるでしょうか。

 

トップをねらえ!』を見ていた我々は、たしかに、1万2千年後の沖縄の空に、赤いふたつの光が瞬くのを知っています。
だが、ノリコたちを見送り、残された人類はどうでしょうか。銀河系中心いて座A'で起こされたバスターマシン3号の縮退連鎖、それにより生み出されたブラックホールの発生を地球が観測するのは2万5600年後です(銀河系中心と地球の光学距離は約2万5600光年ですので、この宇宙で最も速い信号伝達手段である光がこの事実を伝えるのに、そっくり2万5600年かかるわけです)。驚くべきことに、これはノリコとカズミが帰還する未来の時点からさらに1万2千年後の遥かな未来です。

 

つまり、地球は「ノリコとカズミの勝利」を見ることすらないのです。宇宙怪獣の大規模侵攻がないことを理由に、だから「たぶん作戦は成功したのだろう」と、ぼんやりと仮定することしかできないのです。

 

「日ごと星空を眺めても、流れ星はいつ来るかわからない」

 

『2!』の冒頭でラルクはこのように語りました。それはつまり、帰ってくるかもわからない、それがいつなのかさえ分からない「流れ星」こと「ノリコとカズミ」を、一体誰が待っていられるのか、ということでしょう。

 

「願いは叶わない」

 

ラルクはこのようにも続けます。悠久の時を待ち続けることは誰にもできません。人間はご飯を食べなければならない、仕事をしなければならない、人を愛さなければならない、そして、人間は死ななければならない。

1万2千年は、現代の米国の平均出産年齢26.4歳に照らして約454代に相当します。454代もの歴史にわたって「伝説」を脈々と語り継ぐには、人類は弱く、脆く、そして儚い。流れ星を待つことは不可能であり、ゆえに、その願いは叶わないーー。

 

けれども、ラルクはこう結びます。

「だけど、私の願いは必ず叶う。なぜならばーー」

 

なぜならば、それはラルクという1人の人間だけではなく、「ノノ」が待ち続けた流れ星だからです。

 

「生物としての人」と「祈りとしての人」の畳み込み

地球帝国宇宙軍太陽系直掩部隊直属第六世代型恒星間航行決戦兵器・バスターマシン七号。それは太陽系を守るために、人類の全盛期の技術の粋を尽くして作られた「人の形をした兵器」。

なぜ人の姿をして生み出されたのか、なぜ人の心を与えられて生み出されたのか。それを考えれば、七号が「太陽系絶対防衛システムの要」だったということの意味が朧げながら見えてきます。


七号が守ろうとしたのは、太陽系そのものではなく、ある種の物語としての「人間」という概念だったのではないでしょうか。

かつて、太陽系を守るために、「必ず帰る」と約束をして、たった2人で宇宙の中心で戦った少女(と、大人の女性。)がいました。人間は彼女たちを忘れてしまうかもしれない。でも、人の心を持ったバスターマシンなら。縮退炉とナノマシン技術によって無限の命を与えられた、科学で作られた天使ならば、その志を次世代に継ぐことができます。

 

七号は、1万2千年の時を超えて、人の心を伝えるために作られた、「ノリコの物語の語り手」だったのではないでしょうか。

 

ノノ(あえて、ここでもノノと書きましょう)と出会ったトップレスたちは変わっていきます。努力に対して「そういうのいらない」と吐き捨てていたラルクは、ノノの努力を見て笑みをこぼすようになります。「いい手際だ」と褒めたりもします。頑張ってるラルクを誇りに思うような顔も浮かべました。

あれは、意地悪に読めば、かたや憧れを押し付け、かたや都合のいい愛玩動物を得て姉を気取っていただけの、エゴとエゴの渦の只中にあった偽りの関係と読むこともできるわけですが、それでも確かに心を揺さぶるだけのものだったはずです(でなければ鶴の折り紙ーーあれは本当はヒバリですがーーに説明がつきません。)


一番変わったのはチコでしょうか。「トップレスには何も救えない。何の意味もない。どうせ叶わない願いなら、持たなくていい」チコはそう考えて生きてきました。異能の力を与えられ、人の数百倍の可能性を持つトップレスでも、「叶えたい夢に向かって進む努力」と、「それをあきらめない根性」がなければ何も叶わないーー。

 

ノノとの口論、ぶつりかりあい、その中で、チコは自分が何のために戦うのかを見出しました。バスターマシンはそれに応えます。90番機、キャトフヴァンディス。

バスターマシンは、何が一番大切なものなのかを知っているーー。

 

人類は、かつてバスターマシンに願いを託し、バスターマシンがその願いを人類に返したのです。
太陽系絶対防衛システムの集合構造物・ダイバスターが守ろうとしたのも、「地球」そのものだけではなくって、「かつて地球を守るために命をかけた少女たちの心」であったり「かつて悲しみを振り払って戦ったふつうの女の子の物語」だったのではないでしょうか。

 

それらは同じようでいて、全く違う。

ダイバスターは、ノノは、自らを犠牲に地球を守る「姿」をもって、人類に「ノリコの物語」を伝えたかったのです。地球を犠牲にすることは許されない。それはかつて「彼女たち」が守ろうとした星だから。けれど今の人類を見捨てることもしない。それはかつて「彼女たち」が守ろうとした命だから。

 

それは、「トップレス」ではなくなってしまった代わりに「ふつうの女の子」になったラルクの胸に届きました。「トップだった自分」を失い、七号へのコンプレックスから覚醒し、「星を動かす者」として最大級にまで増長することで「宇宙怪獣になる寸前にまで増長しきったエゴ(そう見えます。地球を、動かして敵にぶつけようというのですから)」を持つまでに至ったラルクを、叩き直すことができました。

 

(肥大化したエゴが自らの重みで地球を押しつぶすと書くと、なんだかとてもガンダム的ではありますが)


デブリとの衝突による衝撃で折れた歯を吐き出しながら(これは言うまでもなく、「成人」のメタファーです)、脊髄通路を通り、人工心臓を模して作られ「念じた通りに世界を動かせる」かりそめの操縦席から、「自らのか細い肉体を振り絞って動かさなければならない」真の操縦席へ。

「本物の心臓」を模して作られた縮退炉を取り込み、真の姿へと生まれ変わる。「ディスヌフ」とはフランス語で「19番」。バスターマシン19号の覚醒です。万能の力で世界を思うままに捻じ曲げる「星を動かすもの」から、ひとりでは何もできない「ふつうの女の子」へ。

 

それこそが人類の真の姿なのです。

そして、それは素晴らしいことなのです。

 

「なにやってんだ、ノノ!」

 

これは「感謝」の言葉です。

 

人の「祈り」を与えられた機械の天使は、

人の「肉体」をもつ「ふつうの女の子」と、

二つでひとつの「炎」となりました。

 

このシーンだけで、この作品の全てがわかる、そういう熱のこもったシーンですね。

 

戦いの後、ノノから伝えられたノノリリの物語を、ラルクは新たな語り手として伝えたことでしょう。凍結を解除されたヱルトリウムや、木星(人工惑星都市)から解析されたデータを元に、「かつてノリコに『おかえりなさい』という言葉を伝える約束があった」ことが伝わったのか?それは、わかりません。

 

しかし、いずれにせよ、「彼女たちが帰ってきた時のために、最高の出迎えを用意したい」、それをラルクは地球規模で叶えるために奔走します。10年間。たった10年の短い時間、それとも10年もの歳月、と取るべきでしょうか。ラルクはその日を待ち続けました。

 

「この夜をずっと待っていた。」

 

なぜならば、

 

「どうしても彼女に会って話したい。いつも笑っていた、あなたのことを。」

 

現実的に考えれば、ラルクの願いが叶う保証はありません。ノノリリ(ノリコ)が帰ってくるのはラルクの死後500年後かもしれません。1万年後かもしれません。もしかすると、ノノリリは1万2千年前に死んでしまったのかも。理屈で考えれば、どれほど薄い望みかは簡単にわかります。しかし、

 

「だけど、私の願いは必ず叶う」

 

ラルクには揺るぎない確信がありました。それは、「お互いの努力と根性で切り拓いた未来」が、無限の「不可能」を超越して、互いに繋がっている、とでもいうことでしょうか。

ノリコとカズミが輝かせた光は、時間も空間も超えて、ラルクへと繋がっている。

 

「違う時の流れの中を、同じ想いが生きている。一度は途切れたそれを、もういちど紡ぐために命をかけた女の子がいた。」

 

ラルクはそれを伝えたかった。

それこそが、ノノの特異点なのだから。

 

 

物語(あの子たちのフィクション)と物語(わたしたちのじんせい)の畳み込み

ラルクは、「ノリコの物語の語り部」であるノノから、たしかにノノの「心」、「バスターマシンの灯」を受けとりました。

ノノの言う「私の特異点」とは、ノノがただのロボットという枠組みを超えて「バスターマシンの灯」を伝え続けてきた、心の光そのものです。

「(誰かのかわりに)痛いことや苦しいことを(自分が引き受けることを)ありがたがる」ような、ばかみたいな、だけど美しい「人間の心」そのもの。それはたんなる「火」ですが、ラルクの胸に灯った「火」と、2つが合わされば「炎」になる。

 

「炎となったガンバスターは、無敵だ。」

 

だから、ラルクの願いは叶うのです。

「無敵」だから「必ず叶う」のです。全ての不可能を超越し、1万2千年の時を超えて、「ノリコの物語を守り続けたノノの物語」を、その心の灯火を、今度はノリコに返すために。

 

かつてノノが「ノリコの物語」を語ったように。今度はラルクが「あなた(ノノ)の人生の物語」を、ノリコに語るのです。そして「炎」は、もっと大きくなることでしょう。その炎は、その営みの輪を通して、私たちの命ある人生へと還元されてゆく。

 

すこし野暮ったいことを、あえて書くのならば、「ノリコの物語を守ったノノの物語を伝えるラルクの物語」を、私たちは目の当たりにするわけです。

 

「物語」。

 

それが、『トップをねらえ2!』の本当のテーマではないでしょうか。『トップをねらえ2!』とは、「物語についての物語」だったのだと思うのです。僕たちがかつてペシミストを気取った年の頃に失って、そして大人になって取り戻した「人生」という「物語」。

 

あなたの人生の物語

 

あなたとは、文字通り「あなた」のことでした。かくもインタラクティブな物語は、時代を超えて人に残り続けるものですね。

 

流れ星は、何万光年の彼方からでも、「信じてさえいれば」届くのです。

 

諦めてさえしまわなければ。

すべては必ず。

なぜならば、

 

 

 

 

(おわり)