そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

『熊出没注意』を観た。という話。

 

『熊出没注意』という映画を、あなたは知っているだろうか。

 

品川智樹主演、越本春治監督の、あの『熊出没注意』だ。(つまり、ここでは1972年版ではなく、1998年版について話したいのだ。)

 

鐘状蠅太郎の小説『熊出没に注意されたし』を現代的な解釈により美麗にして緻密な映像表現に描き出した本作は、しかし原典の「人間の闇の真髄」とも呼ぶべきグロテスクな心理描写を完璧といっていいまでの相似性でもってその内面に秘めている。

密閉された環境で人々が疑心暗鬼に飲まれる究極の「抑圧」はアルベール・カミュの『ペスト』にも通じる。箱庭的政治においては論理ではなく共同体的結論が優先されるというポリティカルフィクションとしての側面も持つ本作は、ジョージ・オーウェルの『1984年』にその原型を求めることもできるだろう。

90年代後半の終末的世界観を描画したサブカルチャー的世界にも大きな影響を受けていると思われる本作は、エンターテインメントの枠に収まらない、ある種の思考実験的・文学的な意味で「終末世界のシミュレーション」とも呼ばれる。

 

かように多面的な深みを持つ今作を、タイトルだけで敬遠して観ていなかったという人もいるだろう。あるいはそんな映画の存在すら知らない、と言う人も多くいるだろう。というよりはむしろ、「そんな映画があったなら、見たい」と思う人だって多いはずだ。

それほどまでに、この作品は大衆に知られていない。なぜだろうか?

 

それは当然だ。

だってそんな映画はないから。

 

そんな俳優もいないし、そんな監督もいない(もしかしたら僕の勉強不足で、同姓同名の方は活躍していらっしゃるのかもしれないが、この発言にはその方々の名誉を傷つける意図はない)。

だってそんな映画はないから。

 

とにかく、そんな映画はこの世に存在しないので、誰も知っているわけはない。

だが、僕はあらためてこの『熊出没注意』という「ない映画」を鑑賞したいと思った。「ない映画」の鑑賞は、ぼくの趣味の中の大きな部分を占めている。

 

さて、ひとたび『熊出没注意』を観ると決めたなら、最高の状態で観たいと思うのが映画好きの性(サガ)というものだ。願わくば、ポスターとパンフレットをそろえたい。こういうのは儀式的なものだから、意味とか生産性とは関係のないことだ。

パンフレットはさすがにインターネットのどこを探しても見当たらなかった。多分コレクターアイテムだからだろう。そんな映画は存在しないとしても、さすがに値段すらついていないというのは面食らった。ロサンゼルスのアカデミー映画博物館には所蔵されているだろうか。

仕方が無いので、ポスターをAmazonで取り寄せることにした。6800円と高値がついていたが、ない映画であるという希少性を考えるとそういうものだろう。こういう類いのマニアックな商品を頼むには、メルカリなどのフリマアプリは、ただデータを紙ぺらにコピーしただけの粗悪品を押し付けられることがままあるのだ。

 

1週間ほど待って、とどいたポスターは色あせていたものの、果たして想像力をかきたてるだけのものではあった。

ツキノワグマの出没を警告する標識がぽつんと立つ山間林の車道、これだけを映したキービジュアルは、圧倒的な没入感とリアリティでもって視神経から侵入し、僕の大脳をいやがおうにも刺激してくる。文字は広告デザインのようなゴシック体で『熊出没注意』、これだけだ。俳優も写っていない、監督の名前すら書いていない。こんなにカッコいい映画ポスターを作れていた時代があったとは。今の日本には無いものだ。

 

タイミングを合わせて購入していた『熊出没注意』のDVDをビデオデッキに滑り込ませる。Blu-rayが出ればいいのに。やはりない映画のBlu-rayというのは、作るのが難しいのだろうか?採算の問題とか、権利の問題とかがあるのだろうか。僕は映画を観るだけの人だ。評論も、流通も、てんでわからない。

 

さて、あらためて観た『熊出没注意』は、やはり圧巻だった。

 

あまり詳細に書いてしまうと実際に皆さんが『熊出没注意』を観る時に、ネタバレになってしまうから(僕はネタバレというのはあまり気にしない人間だが、僕が気にしないからといって人に気にしないようにしろ、と強要するつもりはないのだから)、大まかな流れを簡潔にまとめようと思う。

 

まず、この映画は、広葉樹のうっそうと生い茂る山地の登山中、濃霧に巻かれて道に迷った男女4名の登山グループが、偶然見つけた小川沿いのペンションに身を寄せるところから始まる。ペンションの管理人(右足が不自由でいつも右足を引きずるようにして歩いているのだが、そのことがこのキャラクターを味わい深くしている)を演じるのが主演の品川智樹だ。当時42歳だったと思う。

品川演じる「管理人」は、その仏頂面の眉をこれでもかとひそめて言うわけだ。「あんたら知らなんのか。知らずにこの山に来たのか」「おれは、人を泊める気はないぞ。おれは物を取りに来ただけだ」「1週間前、ここの下流の村で3人が喰われた」「”ガチリン”だ。ツキノワグマ。」身にまとわりつく濃霧さえ肌で感じるような演技の妙。寒気が画面の中央を横切るように走り、この物語がサスペンスであることを告げる。ほぼ100点満点の導入だ。

強いてケチをつけるなら、不安にかられてペンションを見つけたはずの登山グループのうち、女B(サヨコ、という名前が一応あるらしい)を演じる山田美南の演技がやや軽く、品川の作る世界観にうまく溶け込み切れていないということ、そしてこの映画が実在しないことだろう。

 

ここで重要なことを言っておく必要があると思う。この映画には熊が登場しない。

いや、この映画がないことの方がもっと重要な気もするが、ここではその件についてはないものとして扱う。

 

熊、”ガチリン”(月輪)、規格外の巨大なツキノワグマ。この映画の象徴ともいえるクリーチャーは厳密には「登場している」のだが、その姿が描かれることはない。原典の『熊出没に注意されたし』にて描かれていた熊の視点からの山林の描写を大胆にもすべて削ぎ落している。熊は実体が登場することはなく、ただ自然災害のようなものとして、その予兆と、嵐のような「破壊」と、結果だけをもたらす存在として描かれる。

 

この「削ぎ落す」ところに越本春治の妙がある。というのは、なぜ鐘状蠅太郎が『熊出没に注意されたし』において熊視点の描写を行ったのかを考えるに、「我々にそれを想像させる」意図があったのではなかろうか、というのが越本の解釈であると思えるからだ。鐘状蠅太郎がやろうとしたのは、熊を描くことではなく、熊の息遣いを想像することで読者である我々に対して「未知なる巨大熊の恐怖」というイメージを想像するよう強制したのではないだろうか。その未知性、想像力の内面、デカルトのように言うなら「自己の知性の内側」にだけ存在する象形としての「熊」。

越本春治は、小説をただ映像に起こすことで熊を映画に登場させる(1972年版がまさにそういうもので、正直、着ぐるみの熊の出来の悪さに辟易する)のではなく、この「想像」の怖さ、感覚の部分を映像を通して描こうとしたのだろう。

 

そうだ、ちょうど、僕がない映画の話をしているいまの状態と、かなり似ているものがある。僕としては敬愛する越本監督にシンパシーを感じてほくそ笑むわけだが…。

 

いずれにせよ、熊そのものを出してしまえば、そこに「理解」による安堵が生まれる。これはたとえば宇宙人が地球に侵略してくるというようなスペクタクルの映画を描いたとき、宇宙人の生身の姿が見えてしまった瞬間に怖くなくなるので、可能な限り隠したほうが良い、という構造だ。

 

ともかく、このようにして映画は始まり、男女4人と「管理人」が、熊という抑圧に閉じ込められたクローズドサークルもののサスペンス、ということを丁寧に丁寧に描いていく。管理人がなぜ男女4人をペンションに招き入れたのか、というのは最初「くだをまいているだけで根は良い人が、若者を助けてくれた」というものして描かれるわけである。良い人だから、男女4人を見捨てられなくてペンションに招き入れたのだと。だが一方で、「管理人」はこのペンションに何かを取りに来たのだという。それが何かは教えてくれない。「あんたらには関係ない。おれは飯の準備をする。」これである。

とはいえ、男女4人にとってこのペンションは、ただ一晩を明かして、明るくなれば帰ればいいだけの、寄りかかっただけのいっときの宿だ。ただそれだけのことである。「管理人」の都合がなんであろうが関係はない。当面、ただ面倒を見てくれる良い人、である。

しかしそれだけでは映画にならない。当然、「熊」が襲い掛かってくるわけである。最初の犠牲になるのは男女4人のうちのひとりだ。薄暮時、その人物は外に出て煙草を吸ってくると言って聞かなかった(ここまで言っても、キャラクタの特定はできないので良いだろう)。「管理人」は執拗に、ほぼ怒号に近い剣幕でがなり立てる。「死にたくなければ部屋で吸え。換気は期待するな。あんたの命のことだぞ。」だが、未来の哀れな犠牲者はというとこうだ。「知らないね。」「だいたい熊のことだって、あんたが言ってるだけだよ。そんな話知らない。」「はめ込みの窓で、煙が逃げもしない。部屋で吸えるか。」軽薄なやつだ。だが、仕方ない。最初に死ぬやつというのは軽薄なんだ。

 

ドスン、という鈍い音。ガラガラと何かが崩れる音。漏れ聞こえる嗚咽のような短い、泡立った呼吸音のような断続的な悲鳴。

「管理人」が慌てて、しかしやはり右足を引きずりながら、左手に薪折り用の斧を握りしめ、玄関を押し開く。山間林の夜が来るのは早い。いくつも折り重なった周囲の山の尾根が太陽光線を遮蔽するからだ。まだ午後5時だというのに、あたりは20メートルと見渡せない闇のなかにあった。見えない熊の存在に怯えながら、「管理人」は斧を両手で引き絞るように握りしめた。周囲を見渡し、右足を引きずりながら、「管理人」がようやく発見したのは、ただ体を鋭利な爪で引き裂かれ、ぼろ雑巾のようになった犠牲者の姿だった。

 

そして、ここでようやく『熊出没注意』のタイトルが現れる。

完璧だ。そう、完璧なのである。

 

この映画が主題とするのは熊による襲撃の中におかれた人々の恐怖だけでなく、その中のお互いの疑心暗鬼でもある。サスペンス劇・ミステリ劇を盛り上げる要素は枚挙に暇がない。惨殺されたにもかかわらず、ただのひとかけらも「喰われた」跡の見られない犠牲者、ペンションの玄関階段をくぐるように流れる小川の砂利にこびりついた赤い血と肉片、「管理人」がいつも持っている斧。そして姿の見えない「熊」という存在(言うまでもなく、この「姿が見えない」ことそのものに意味がある)。

 

事実として「熊」は存在するのだ。

「そのような熊がいなければありえないほどの破壊」が、ペンションを襲い、その砦を破壊していく。ただしその姿は最後まで見えない――。

 

人々は恐れ、憂い、互いに疑い、また熊という存在にも怯え、あるいはそれらがすべて虚構である可能性について神経を研ぎ澄ませる。全員が全員に対して「秘密」と「疑念」を持つ状態が自然とでき上がってしまう。「熊」という外部からの抑圧と「人」という内部からの抑圧によって押し引きされるこの極限の箱庭。夜が明けるまでのわずか9時間という時間の檻。手に汗握る人々の舌戦・いさかい・そして極限ストレスにさらされた人々の性的交わりの中で、あらゆる感情が火花を散らすように明滅する。

 

次のシーンが特に好きだ。物語の中盤、朧げながら「管理人」の人となりが、その目的がわかってきた頃。ある登場人物は彼に問いかける。「なぜ、あんたはここに帰ってきたんだ。」この問いに答える「管理人」の瞳は、静かな「諦め」と、しかし燃え盛る「怒り」の光を湛えていて、まるで黒曜石のようにギラついている。答えはこうだ。「おれはどこへもいけない。だからここにいる。」「理由なんてあるか。ただ、おれはここにいるんだ。」

 

何故、「熊」は執拗にペンションを襲うのだろうか。「管理人」は何をしにこのペンションに「帰ってきた」のだろうか。果たして残された男女3人は、「管理人」は(そしてここではあえて触れないもうひとりの重要な人物は)、無事に山を下りることができるのだろうか。

その結末は、あなた自身の目で確かめてほしい。言っておくが、確実にあなたの予想や期待を裏切り、同時に深い感動をもたらす「何か」がこの映画にはある。この映画はただのスプラッタでも、ただのサスペンスでもない。これはポリティカルフィクションであり、思考実験であり、そして(鐘状蠅太郎の言葉を借りるならまさに)「純愛」の物語である。

 

そんな映画はないのだけれど。

 

(おわり)