そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

本流ではなくなった創作物について、ああだこうだ。

 

まず、この記事は一貫して私の主観に基づいた適当を書いている。で、主観に基づいて適当を書いているのだから、その内容はおもちゃである。おもちゃなので、「そうだよね」と思ってもらっても「んなことあるか」と思ってもらってもいい。

内容としては、だいたい「SFがなぜその勢いを失ったのか」というようなことだ。

 

 

1950 SFの原典たち


そも1950年とは、かの「ロボット三原則」を生み出したアイザック・アシモフの記念すべき初著『宇宙の小石』の刊行年である。産業革命以来の「工業」の価値が重視される時代から、二度の大戦による「科学」の社会的地位の向上に伴い、科学的センスが市政に爆発的に広がった新時代へと推移した。冷戦中の宇宙開発競争が直接的な契機となり、SF(サイエンス・フィクション)が圧倒的な筆致と構造センスで描かれた、今日のSFすべての原点とも言える時代である。


1960 映像界革命 SFの宝石たち


映像制作能力が人間の想像の外側を表現できるようになり、「SF映画」が長大な尺と緻密な映像表現で作られるようになった時代。SFの門戸を広く市政に拡大した時代。エレーヌ・シャトラン『ラ・ジュテ』、チャールトン・ヘストン猿の惑星』、なによりもスタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅』など、今日にあっては「伝説」と称される珠玉の創作物が世に溢れかえった時代である。この時代の「傑作」は枚挙にいとまがない。日本にあっては、手塚治虫星新一小松左京広瀬正などが、欧米からもたらされたこの「SF」という世界の精神的後継作・発展作を狂気的なまでの熱意で描き/書き続けた。今日から振り返るに、SFという世界そのものの最盛期であったといえる。


1970 日本SFとサブカルの合流


宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など、アニメーションSFロマン作品(松本零士の漫画作品も並行して語られるべきであろうが)が誕生しただけでなく、『マジンガーZ』に代表されるスーパーロボットもの、『新造人間キャシャーン』『仮面ライダー』といった改造人間(サイボーグ)ものが同時代に多発的に発生した時代である。

この時代のサブカルに、カルチャー的に圧倒的な特定のメインストリームがあったというわけではなく、どちらかといえばカオスなものであったはずである。ただし、60年代の映像世界の意欲が大きくSFに舵を切っていたこと、その時代の映像の精神が強く表れている時代であること、ひいてはこの時代が、まさに60年代の映像世界からの要請によって発展向上したVFXの面目躍起の場であったこと、欧米でも『エイリアン』や『スーパーマン』をはじめとした娯楽的側面の強いSFが、そして何より1977年に『スター・ウォーズ』が発表されたこと、などなど踏まえると、時代の求める娯楽的映画体系の根底にSFがある一定の存在感を持っていたことを疑う余地はなさそうである。

ことさら日本のサブカルは「漫画」という形式で、擬似的な映像表現を扱うことができたため、その創作物は「映画」による影響を受けやすい。「SF映画」の傑作による圧倒的な映像表現を目の当たりにしたクリエイターが、漫画という形で、またアニメーションという形で、想像の中にある「映像」を自ら生み出そうとしたことがうかがえる。

後の作品において主流となる映像表現の雛形が作られたり、創作界に優れたクリエイターを多数送り込んだ誘因となったりなど、日本アニメーション(ひいてはサブカル)において真の原点とも言える極めて重要な年代である。

なお、この時代でもう一つ重要なのが、「20年続いたベトナム戦争がようやく終わったのが1975年である」という点であるが、このことは1980年代について述べた次項の後半部分に関係する。


1980 サブカル(アニメ)SFの発展


総括すると、人間とは何者で、一体どこに向かうのか、という根源SF的な問いかけの時代の終焉の嚆矢、「終わりの始まり」は70年代に既にもたらされていたと言えそうである。70年代に花開いた「大衆娯楽としてのSF作品」に最も重要であったのはスペクタクルであり、キューブリック的な深淵描写ではない。1953年クラークの『幼年期の終わり』に見られるような思索的作品の表現もひととおりの決着を見せつつあった(後述する宗教SFでも述べるが、だいたいの場合は、この種の問いかけは、神の存在を魂のレベルから否定している場合は、結局は絶望するか人間の善性を肯定して終わるため、初期の大傑作によって完成されてしまった後では発展性がない)。『幼年期の終わり』のような思索的作品は90年代『ゼノギアス』、00年代『グレンラガン』など折に触れて現れるといった形で、非常に強いコンテンツではあるものの、「もはや主流ではなかった」ということは確実である。

一方で、日本においてはこの時代において「サブカルと本流の転地」が起きたと思われる。すなわち、SFの本流がアニメーションに移行した。この点は、宮崎駿ガイナックス庵野秀明)、押井守大友克洋らの功績であると言えそうである。彼らが志して描いたものには両義性があり、一面はまさに「人間は何であってどこへ行くのか」という、時代の中にあって風前の灯であった「根源回帰的SF」とでもいうべきコンテンツの問いかけでありながら、もう一面は「新しい時代のSF(後述するサイバーパンクや、自己内省的な哲学)の幕開けであった。とはいえ世界的にも似た流れ自体はあり、「根源回帰的SF」として『デューン/砂の惑星』のはじめの映画が撮られたり、ある種のジュブナイルものでありながら外部知性体と人間の精神の交錯の切片を巧みに描写した『ET』などに加え、『ブレードランナー』に代表される新進気鋭の映像表現が生まれていった。清濁含め「エンタメ」「回帰」「進展」の三相が入り混じった時代だったと言える。1984年、星野之宣による『2001夜物語』は、この時代までに描かれたあらゆるSFの閃きをその胎に内包し、祝福し、また突き放す、ある種の「完成」と呼べる作品であり、70~80時代半ばまでの時代の総括に相応しい(後年にまだまだ作品が出るにしても)。

また、この時代に無視することのできない潮流として「サイバーパンク」が起こった。サイバーパンクの骨格とは「パンク」の言葉の示す通り反体制主義であり、サイバーに対するパンクであり、サイバーによるパンクでもある。すなわち、冷戦中に繰り返される戦争の光景、大戦の後も平和にならない世界の姿(75年のベトナム戦争終結の明言からのち、わずか5年後の1980年におこったのが、100万人規模の死者を出したイラン-イラクの全面戦争である。続く90年には湾岸戦争が起きている。)、それに加えて高度に物質化され人間を歯車として取り込んでいく社会体制の拡張の在り方が全世界同時的にテレビジョンによって可視化された時代にあって、人々が「イデオロギー」という「他者が勝手に決めたもの」に「組み込まれる」ことを忌避し、政府や権威、機構・構造・体制に対して唾棄する精神が生じたための「パンク」の文脈を使って描かれた作品なのである。

「パンクカルチャー」における反権威主義・戦争反対・個人主義については当然の前提として特に説明はしないが、SFにおいてサイバーパンクが非常に重要なのは、これまでの、非人間心理的・宇宙真理的な論を描きつつもその中に置かれた人間の心情のドラマをロマンス文学から引用して巧みに構築した「ジュブナイル的SF作品(日本では手塚治虫や、藤子・F・不二雄などが典型だろう)」と違い、サイバーパンクの焦点は完全に「人間の内省」そのものにあてがわれていることである。SFはその生まれが「科学」であるから、構造論や宇宙論を宿命的に原点に置く。その構造的無生物性に対するカウンターパートとしての活力はジュブナイルとしてのSFにも多々見られるが、決定的なものがサイバーパンクである。いわば、サイバーパンクとは「SFによるSFに対するパンク」でさえある。それは、個人主義、「アナーキズム」との親和性からもたらされたものであろう。

サイバーパンクにおいて、人々が電子機器(デバイス)を通して互いに接続され、大きな情報流の中に取り込まれていく光景というのは、ある種の同一化現象、自我消失の危機として受け取られたわけであり、そこに「内省」の必然性が生まれる。「私とは何か?」、それが重要なテーマであった。「人間の内省」が「世界」との対話になると言う点では、サイバーパンクは10〜20年後のサブカル界にさえ影響を与えたと言える。

「内省的実在性こそが人間である」という考えは、深淵なる宇宙の果ての巨大な「存在感」に打ちひしがれた人間が、またマクロ化していき人間疎外(ヘーゲルの文脈)に陥っていく機能的戦争社会に組み込まれ「無」となる(自己精神が矮小化していく)ことに危機を覚えた人間が、その解決策として、あるいは逃避として、非常に消極的かつ膨大な負のエネルギーを伴って現れたものであったとも言える(ゆえに、ショーペンハウアーは時代を100年以上先取りしていたと言える)だろうが、このことは現代社会へのある種の予言じみている(後述する)。

AKIRA』(大友克洋)がカルト的支持を持って今日においても語られるのを見るに、80年代におけるサイバーパンクの存在感と言うのは、それはそれはとてつもないものだったのだ。そこには、科学技術の発展が人々を自由に豊かにするのだという「戦後・高度経済成長期」にあった幻の未来都市にかける夢ではなく、「科学の発展は我々からさらに自由を奪っていくのだ」という、「成長による牧歌性の消失」に見た郷愁と、「冷たい戦争」を通じて人々が見た世界の権威への失望が色濃く表れている。浅間山荘事件が1972年にあったことと、無関係とは思えない。


1990 宗教SFと終末論の構造主義、初期のセカイ系


サイバーパンクのもたらした「脱体制主義」の次に来るのは、当然(それがパンクの文脈であるがゆえに)、ある種の「アナーキズム」であり、それは「私はどう生きるべきなのか」「私はどのようにして幸福になれば良いのか」を問う、極めて自己内省的な時代だ。個人が個人で完結して「幸福を目指す」ことが人生の至上命題であるのだから、「人はどうやって救われるのか」を考えることが次のSFの主題となるのである。

だが皮肉にも、内省それ自体によって人が救われることはない。救済のためには「確固たる哲学(シッダールタ、ニーチェショーペンハウアーなど、方法論はいろいろとあるが)」かもしくは「絶対的な宗教(これも色々な方法論がある)」を必ず必要とする。現代の物語においてさえ内省的主人公の「少年」が救われるために必ず「少女」が必要なのは、「聖母マリア」の類型を、すなわち母体回帰という極めて宗教論的なモチーフを求めているにすぎないのである。

そこで、精神性の発露とその救済において不可分な存在である宗教をSFへと取り込んだのが「宗教SF」である。日本の作品群において宗教的SFの構造は、1981年のディックによる『ヴァリス』に影響を受けてか、グノーシス主義の構造を取り入れた作品が非常に多いのも特徴的である。あるいは、日本人という(無意識の文化的遺伝子によってある種のスピリット信仰を持ちながら、絶対の神を持たない民族)にとって宗教構造のSF化という命題は、「絶対の神が形而上においても形而下においても本当に実在する」という純キリスト的構成を選ぶよりは、「異星人や未知の科学兵器が星に流れ着いたことで人間が発生した(「真なる神の国」から零れ落ちたヤルダバオトという愚かな存在が人間を作った)」というほうが、既往SFの概念を用いやすい(そしてここに『幼年期の終わり』が愛される理由がある)ので便利であるということなのかもしれない。

さて、この時代におけるもうひとつの重要な概念は「文明の終末」だ。文明の終末を描いた作品は初期には近代1826年のメアリー・シェリー『最後の人間』が存在していたが、現代の「終末もの」とは少し毛色の違うものであって、その源流を遡ると、産業革命による古き良きイギリスの終焉に対するノスタルジーとして理解される。一方で、1950年代以降に描かれた終末とは、そのまま「原子爆弾」を終末の象徴としている。行き過ぎた科学による文明の終焉である。

日本における「終末もの」は、二度の大戦と高度経済成長による牧歌性の消失(奇しくもイギリスと同じ道を辿っていることは留意すべきだろう)、オイルショックなどの社会的激震によって、また「被爆国」としてのトラウマに対してスリーマイル島原子力発電所事故チェルノブイリ原子力発電所事故がクリティカル・ヒットしたということもあり、80〜90年代のSFにとって非常に重要なテーマだった。つまり、「終末」は一貫して「科学」によって齎されるものであり、科学を扱う創作は「SF」であるのだから、「自己内省」の文学へと変貌を遂げていたSFと終末が混じり合うことで生まれたものこそが、「私の内省」と「世界の終焉」を結びつけたのだ。「内省的哲学」を見出したパンクの世界と、「世界の終焉」をもたらした世界情勢への恐怖、このふたつが不可分なまでに絡み合い、結びついたことで「セカイ系」を生み出したのである。

また、終末論と自意識、というものは人類史において「ヨハネの黙示録」に遡ることができることは明白である。ここからも、宗教SF、終末論、自意識に基づくセカイ系が不可分に混じり合っていることがわかる。このことを端的に理解する最良の例は『新世紀エヴァンゲリオン』そして『ゼノギアス』である。


2000 ポスト構造主義としてのセカイ系

 

ここからは、ほとんど「日本」という国のお話になる。
これまでの経緯から、「個々人の人生」にフィーチャーするフィクションが隆盛した時代が過ぎていった。そして、2000年代のSFにとってもはや「終末論」は主流とはよばれ得ないものとなった。「経済不況などに伴う鬱屈とした感覚」はありはしたが、科学技術による終末というものは陳腐なファンタジー・アイデアへと変わっていった。「終末的最終戦争」の時代から(少なくとも2003年にイラク戦争という大きな社会的事変があったものの)、小規模な紛争、ゲリラ的戦争、内ゲバの革命の連続、対テロリズム戦争の時代へと変わっていった現代社会においては、「個々人がそれに対してどう意見を表明するかが重視される」のみならず、多くの国が大戦から時間を置き、国土が戦火に脅かされない期間を長く経験したとあってみれば、「全く無関係な地球の裏側の戦争よりも、今の私の生活を大切にしなければならない」というのがひとつの大きな気分だったであろう。

この一連の時代の変革の中で、また重要なのは1995年以降に加速した「IT革命」と呼ばれる社会の変化である。「パソコン」の普及、「個人用携帯電話」の台頭によって、個々人が全く独立した情報デバイスを各々所有し、そのデバイスを通じて遠くの人々と瞬時に接続されて情報をやり取りできるようになった。ITネットワークが生活環境のあらゆるところに組み込まれ、パソコンや携帯情報端末などが利用される情報環境すなわち「ユビキタス社会」が実現した。「サイバーパンク」はもはやフィクションの上の出来事ではなく、創作世界の人々が熱心に思索するものではなく、世界経済がその活動として現実に巻き起こすものとなったわけである。

以上のことからSFというものはその輝きを次第に失っていった。SFから零れ落ちた「自己内省」自体は単体のテクスチャとして依然残ったので、それは「終末論」の消え残り、ある種の残滓と組み合わさって「ゼロ年代セカイ系」を生み出した。「セカイ系」と呼ばれる作品がその根底から自己内省を主軸としていること、SFという構造的に必ず社会体制の描写を必要とする文脈の剥離・離脱が起こったこと、このふたつが組み合わさり、この時代からのセカイ系というものは、「方法論的に社会という領域を乖離させた(消去した)物語」となった。すなわち、純粋な「私」についての物語である(ただし、聖母マリアは必ず必要であり、聖母マリアとの精神的距離がそのまま「私」の救済度合いのパラメータであるのだから、「あなた = ヒロイン」がいなければ基本的にこの物語は成立しない)。社会なき「セカイ系」の構造は、現代社会の中で摩耗し疲弊した若者の摂取しやすい形で、たとえば「日常系」などの形態で継承されていく。


2010~ コミュニケーションコンテンツの時代

この頃から、現代というのは、「人々に好まれる作品」というものが大衆社会における重要なモチーフとして顕在化した時代である。はじめは「セカイ系」の残滓として、「学園」ないし「ボーイミーツガール」というような概念でもってその箱庭的モチーフが継承されていたが、数年を待たずして、それらは概念的には放逐されることとなる。

インテリゲンツィアのための高尚な娯楽として発達しすぎたサブカルチャーへの徹底的な反発もあったのであろうが、ほとんどの原因は「日常系」のような作品や、一部の「異世界転生もの」にも見られる、「現代の若者の社会に対する無力感と疲弊を発端にした、努力を要する挑戦とそれによる達成や喪失の無い、時間的にも空間的にも閉じた世界の構築」の大流行に見るべきと思う。これらの作品は「ただ見ていれば安心できる」精神的安定装置としての役割が非常に重視されるので、その中に自己を入れ込んで内省するというような機能はほとんどもたれない。

また、ビジネス上の極めて重要な役割をサブカルチャーが担うこととなった現代社会においては、個々人がデバイスを介して無数のコンテンツを享受できる時代でもあり、また、SNSを通じて互いにコンテンツを品評するコミュニケーションが爆発的な盛り上がりを見せる時代でもある。コミュニケーションを円滑に働かせるには共通言語は簡単な方が良い。SFに登場する難解な専門用語や、論理的考察のための高度な日本語能力などは一切不要だ。自己内省を開示する必要さえない――「尊い」「エモい」と言う言葉による共感があればそれでいい。故に、単純かつ明瞭なものほど素晴らしい。

別の視点からも考えてみる。SNSが一般化した時代で重要なのは、自己の概念的存在感である。「クアンティテイティブ・コミュニケーション」の時代、いや、「コミュニケーション・バリュー」の時代とでもいうべきか。コミュニティにおいてコミュニケーションが行われるとき、個人にとって非常に重要なのは「何の情報を(自己が得るために)やりとりしているか」ではなく、「どれだけ大きい範囲に自己と紐付けられた情報を開示するか(拡散されるか)」である。いわば、総人が受け手ではなく発信者となった意味がここにある。

コミュニケーション・バリューの存在はそれ自体では善悪どちらでもないが、以下のようなことを考えてみると面白い。すなわち、「個人」がネットワークに接続されると、その膨大な情報空間における自己の矮小性(概念としての小ささ)に耐えられないという自己崩壊が生じる、ということである。

「何者でもない自分」が「誰からも相手にされない」という(仮想)現実に直面する「個人」は、やがて何かしらのコミュニティにおいて他者同士の承認の応酬が生み出す価値(ここでいう価値とは、精神の内面に生じる羨望である)を目にする。そうして、自己の矮小性を疑似的にでも解消するために、個人は、「コミュニケーション・バリュー」の中に取り込まれることでもって、自己の概念的存在感を拡張しようとするのである(これは皮肉にも「サイバー・パンク」の大前提ではないだろうか?)。

この精神的受容には、コミュニティに受け入れられるという第一段階、コミュニティの中で抜きんでたいという第二段階、コミュニティを形成する側に回りコミュニティの大きさそのものを自己の概念的存在感として代用しようとする第三段階があるように思うが、すなわち総括するにSNSとは概念的存在感の奪い合いの場であり、そこに参加するということは、「大きな概念(第一段階の発露の場)の上に乗る」ことが第一条件的に必要なのである。これはいわば、「自己の外枠を獲得する」行為であり、内面に向ける目はもうそこには残っていない。

大きな概念を形成するものが、結果としてさらに大きな個人を取り込むことができる。したがって、「(産業的需要の中で)求められる作品」とは、「最大公約数」たりえる作品である。また、上記の理由から同様に、この時代の作品というのはネットミームと不可分であり、他者との連続的な言語のコミュニケーションが非常に重要視される。

したがって、「最大公約数の作品が必要である」という需要と「最大公約数の作品を見ることによるコミュニケーション・バリュー」が不可分に結びつき、連環的・連鎖的・連続的に同質同程度な作品が生み出されることとなった。この時代にあっては、もはや内省(個々人により見出す世界が異なる)も構造論(個々人が理解のために要する時間が異なる)も無駄なものであり、ここにSFやセカイ系は「小さなニッチ」にすぎない存在になったのである。このことは「クラシック・オーケストラ」や「純文学」、「芸術」にも同じことが言えそうである。

(何も現代の流行には価値を見出せないと云うわけではないが、)「クオリティ=質」より「クアンティティ=量」、それも、作品そのものの質や量ではなく、「コミュニティの概念的存在量」が最も重要なファクターとして機能する。それが現代なのである。

さて、このような時代のなかにあって、創作物の中から「思慮」や「個人性」、「自己の精神の内省」というものは次第に無用の長物として抜け落ちていった。あとに残ったものは、「コミュニケーション」のために簡略化された「人物 = キャラクター」と、「共有性」のために地続きとなった世界設定である。すなわち、「文脈を理解する必要性が薄く、魅力的なキャラクターにより人をインスタントに引き付け、SNSを通じたコミュニケーションによって付随する価値を産出し続ける」ものである。

この土壌から「学園異能バトルもの」「異世界転生もの」といったジャンル・コンテンツが誕生したことは言うまでもなく、「アイドルもの」(ここでは広義のアイドルものとして【艦これ】【ウマ娘】【FGO】といったコンテンツも含むものとしよう)のように、キャラクター同士を使って永久無窮のコミュニケーションを展開させる、言うなれば存在そのものが原典からしてアンソロジーである創作も発露した(もちろん、その作り手の多くは「内省の時代」を駆け抜けてきたクリエイターたちであり、彼らの手癖、色が強く出ることで内省的文学や個人の体験が要素として発現することがある場合が往々にしてある、ということは無視してはならないが)。

これと全く同様の理由で、これまでアニメーション史においてそれほど支配的な役割を担ってこなかった「漫画原作アニメによる原作再現度の高さ」という形状形式もまた、非常に重要なものとなった。たとえば『週刊少年ジャンプ』を原典に持つ漫画は、その構造や物語の構成に高い相似的類型性を持つ(友情・努力・勝利の方程式)し、コミックスの売り上げに比例した一定の視聴率が確約されているのだから、SNSコミュニティも形成されやすい。コミュニケーション・コンテンツとしてのアニメーションにおいて、「放送前からファン同士がコンテンツについての会話をしている」という状態は最も好ましいのだ。そして、初めからファンがついているのだから、「ファンを怒らせないように」アニメは「漫画っぽく」作らないといけないのである…。かくして、かの手塚治虫が映画っぽい画を書こうとしてはじまったはずのジャパニーズ・漫画は、その本来的な到達点であるはずの「映像化」において、逆に「漫画のように」描かれるようになる皮肉な倒置があるわけであるが、それは本稿の主題ではない。

 

結言

このようなぐだぐだとした文章表現で、(少なくとも、それこそ自己内省的にはずいぶんと言葉を省略して、必要なことだけを)書いたわけであるが、

要するに、時代の要請するものがもはやSci-Fiでもなければ自己内省哲学でもない、「どれだけ大きい船を用意できるか」ということなのだ、ということである。

しかし、矮小な自我に耐えられず、膨大な価値基盤に自らを同化させることで自己の概念的存在感を拡張しようとするあまり、その中のひとつとして埋没していくという実感、そしてその埋没から脱却しようと自己承認欲求を高めても、それすらも「自らがコミュニティ概念の中枢たる」第三段階のコミュニティ・バリューの構成要素へと変貌していく様は、まさにサイバーパンクの構成をなぞったとしか言いようのないものである。

それらは創作としての価値を失ったのではない。今わたしたちが生きているこの社会そのものがサイバー・パンクなのであり、SFなのである。

 

(おわり)