そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

頼むから俺にMOTHER3の話をさせてくれ。

たのむから俺にMOTHER3の話をさせてくれ。

 

 

MOTHER3の話がしたい。

男の子にはそういう時がある。

 

(以下、いろんな画像を用意しようと思ったが、めんどうくさいのでやめた。)

 

「できるかぎり『作品』というものに誠実に向き合う」ために、この記事で書かれている、というか、僕が書く文章というもの全てに書かれている「ということを意味する」というような断定的な表現は、「それ以外には読めない」ということは意味せず、むしろ「少なくとも僕にはそう読めるし、そう読むのが最も良いと思う。」ということを意味している、ということを前提として理解してください。そして、作品というものはそれが作られた時にはそのような意図はなかったとしても、結果として完成された時にそのような意味を持つことがあり得る、ということを前提として書いてます。

これが何言ってんのかわからないなら、僕の文章は全てこういう表現で書かれているということを鑑みれば、これから先のことも何言ってんのかわからないと思うので、すみません。

 

僕は過去に、いわゆる「MOTHERシリーズ」のゲームを3作、どれも本当に「飽きるほど」遊んだので、実は実際にもうすでに本当に飽きてしまっていて、もう二度と遊ばないんじゃないかというある種の残念な観念があるのだが(たとえば、MOTHER2の地底大陸に住んでいるグミ族で、経済大国に留学経験のあるというビジネスマンの名前は「エーゴ・ステッキ」というのだということや、MOTHERの主人公の飼い犬の名前は「ミック」であり、これは主人公の母親の初恋の相手の名前である、といったことを覚えている。それに、MOTHER3の引き継ぎバグでボニーの装備品を最終章まで持っていく手段を独力で発見したりした。どうでもいいな。そう、こんなことはどうでもいい。どうでもいいがこんなことが矢継ぎ早に出てくるくらいには飽きるほど遊んだのだ。記憶の引き出しの浅いところにMOTHERが入っている。)、そんなMOTHERシリーズについての話を他人と共有する機会はあまりない。というか、身の回りにMOTHERを通ってきた人がすごく少ない(じゃあこれは誰に向けて書いているのだ)。とはいえ、MOTHERシリーズはインターネットでは相当有名だし、あのC級コピーライターも相当に有名だ(これは僕の言った悪口ではなく、ガキ使の釣り企画で糸井がそう呼ばれたということを踏まえたネットミームで、僕はそう呼び続けている)し、そういう意味ではいつでもそれを語るコミュニティーに入ることはできたはずであるが、僕はしなかった。

 

というのは、どうも、彼らはあまりMOTHER3が好きではないようだからだ。

 

MOTHERシリーズの話になると、どうにも「MOTHER2は傑作で、MOTHERの話というのは2の話さえしておればよく、1や3は取るに足らない作品である」という扱いをされがちだ。よしんば1はまだ何かサウンド面での良い評価を受けているとして、3などは「やらない方がいい」と言う人までいる始末だ。

特に2010年代前半のインターネットではそれは支配的な意見だったように思う。

 

今回は、MOTHER2や1をこき下ろしたいわけでもなければ、MOTHER2を大好きだと言うみなさんの神経を逆撫でしたいわけでもない。そういう意図はないということは認知してもらえればと思う。MOTHER3を褒めることで逆張りの感性を主張したいのでもない。何かを語る時、言外のニュアンスを持たせないことは難しいし、「何を書かなかったか」ということは証明ができない。夥しい但し書きをのせるわけにもいかないので、そんな下品で愚劣なことはしないが、とにかくここで言いたいのは、単に、本当に、僕は単純に、常に、いつも、その「何か」の話がしたいだけなのである。

 

そして、まさに僕はいま、MOTHER3の話がしたいのだ。

 

遊ぶゲームとしてみたMOTHER3

まず、ただのストーリーテリングだけでない、インタラクティブなゲームであることの魅力がものすごく詰まっているのがMOTHER3だったりすると思う。ここで言うインタラクティブというのは、「こちらから働きかける」ことと、「ゲームがこちらに働きかける」ことが双方向的に同時に存在していることをいう。当たり前のことだが。

古今東西様々なゲームには、いろんなインタラクティブ要素がある。勇者になった気持ちで自分を頼もしく誇りに思えるものもあれば、悲恋に涙を流せるものもある。

そしてMOTHER3のそれは、かなり特殊で、「巧みな視点の往復」と説明できると思う。

  

最低最悪の頼れる男

ヨクバという悪人に奴隷として使役されるサルサという名のサルは、ヨクバの意に沿わないことをすると電流を流されるという懲罰を浴びる。これは割と強烈で、このヨクバというやつがまあ、本当に最悪な人間なのだ。

こいつは単純に嫌なやつで、サルサを従わせるためにビリビリをやって調教をしてるんだと思いきや、本当にただ楽しくてビリビリをやっている。のである。

 

「楽しんで暴力を振るう」というような大人というのは、MOTHERやMOTHER2には(ほとんど)いなかったように思う。だいたいの場合は「強迫観念」とか「神経症」みたいな感覚で、暴走した自意識が暴力として現れているような…。ようするに、みんな「怒って」人を殴っていたんだな。あるいは不安の中で、暴走してしまって腕を振った先に少年がいるというような、暴れている哀れな奴、と言う感じだった。

 

似たような話で、ぼくはMOTHERシリーズの敵の中でMOTHER2のシャーク団が一番怖かった。ムーンサイドや3のタネヒネリ島より、はるかにシャーク団が怖かったのだ。理由を今になって考えてみると、彼らはヨクバと同じように「楽しんで」暴力を振るっていたからだろう。笑顔で攻撃をしてくる人間というのは、こわい。

怒りには理由があるけれど、たいてい、笑顔には理由がない(ように見える)からだ。彼らは狂っているわけでもないし――その顔色はうかがえないが、とんでもなく暴力的だ。そういうものが、僕はいつも怖い。

 

こういうやつを見ると、苛立つとか、恐怖するとか、関わりたくないとか、逃げたいとか、そういう気持ちになる。それがサルサの視点だ。

 

そうして、そういうやつが、得てして雨の日に子犬を拾っていたりするのである。そこまでのことはしなくても、拾った財布を気まぐれに交番に届けたりもするだろう。自分のおばあちゃんのことがとても好きかもしれない。

一見すると理解できない横暴なやつも、ちゃんと人間なのだ。人間にひとつの側面しかないことはまずないし、それを思うとぞっとする。

そういうことを考えた時に、(この話はあとでちゃんとするが)そういうやつの頼れる部分や、温かみのある部分が、なぜか他の最悪な部分に先立って現れて、ことさら強調して感じ取れてしまうことがある。

まず、ヨクバは戦闘面では非常に役に立つ。申し分ない相棒である。悪人であることは違いないが、彼は仕事として悪行をやっていて、部下とのコミュニケーションもまあ、横柄ながら取れている。要するに、すごく嫌な、しかしかなり仕事のできる上司、なのだ。自分が彼の暴力の被害者でなければ。

つまりは、その目線で彼と触れ合っていれば、彼の暴力まみれのユーモアも、サルサの立場に立っていなければ、少し愉快だ。ちょうど児童向けギャグ漫画がバイオレンスに塗れているように、サルサの目でヨクバを見ていれば最悪な男だが、同時に「プレイヤー」の目には少し愉快に見えてしまう。

 

ゲームとしてのMOTHER3を考える時、いちばんはこのような「ゲームの中に落とし込まれた」心情の変化に対する計算高さ、その心情の軸となる視点が切り替わるものとして作られていること挙げられる。

 

頼れるおじいちゃんは最悪なジジイ

同じような例では、オープニング~1章中盤まではあれほど心が広く強く優しい老人に見えたアレックが、続く1章の佳境ではくだらない笑えないジョークを飽きずに続ける「ちょっとうざいマイペースなジジイ」だとわかる。

こいつ、心が広くて強くて優しかったのではなく、もしかして、頭がおかしいだけではないのか?とか思ってしまう。

 

アレックは婿であるフリント(プレイヤーの操作するキャラクターだ)と一緒にフリントの息子、つまりアレックの孫を探すワケだが、前提としては「アレックの娘」つまり「フリントの妻」はこのストーリーの冒頭で死んでいる。(知ってる人のために書いているのであえて説明することはしないが、基本的にMOTHER3の骨組みはかなりハードな「悲劇」である)

ところがアレック老人は、自分の娘が死んだ直後にもかかわらず、道中ずっとくだらないギャグをこれでもかと飛ばしてくる「相当ウザいジジイ」なのである。

 

アレックの最悪なところは、「今すぐにでも行方不明の息子を探しに行きたい」というフリントの気持ちとなかばシンクロしているプレイヤーにとってはそのオヤジギャグが進行の邪魔でしかない、というところだ。

プレイヤーはオヤジギャグのイベントで強制的にゲームの進行を止められるのでイライラする。典型的な洞窟というような薄暗いダンジョンを奥へ奥へと進んでいて、さっさと抜け出したいと思っているところに、うすら寒いジョークが絶え間なく(本当にしつこい。本気か?って思うくらいしつこい。実際僕は、もういいだろ!と叫んだ。)襲いかかってくる。

 

しかし、当面はアレックしか行き道、その洞窟の抜け方を知らないので、彼に従うしかないーー。よくよく考えれば、アレックは最愛の娘を亡くしたばかりであるわけで、「常識的に考えれば」アレックは「自分だって辛いのにフリント(プレイヤー)を慮ってピエロをやってくれているだけ」だと、一応はわかる。

しかしそれが永遠に空回りしている。ムカつく。そうすると次第、心の中に「こいつはサイコパスなので、娘が死んでもなんともないのでは?このまま俺も殺されるのでは?」なんて疑念が湧き起こる。いい人であるはずのアレックを、死ぬほど鬱陶しいと思ってしまう自分の感情に対して、脳がめちゃくちゃにオーバーフローして、認知不和を起こしているのだ。

 

こんなふうに、一見すると悪意であって、しかし実際は善意であることは分かっているのに、それが「悪意」をもって受け取られてしまう。

キャラクターの見え方がさまざまに変化することを、人間の多面性を表現する、というのは容易いし、「物語がインタラクティブ性を持つ」というのも易しい解釈だが、それを実際のゲームプレイをするプレイヤーの感覚の中に落とし込んでいくというのはよくできたものだと思う。

ものすごく悪趣味だけど。

 

ネンドじんの悲しき労働

このゲームで最も趣味が悪いのはネンドじんだ。ネンドじんはネンドでできた謎のゴーレムだ。それは基本的には単純作業労働の従事者で、頭はあまりよくなくて、いや、もっと言えばそれに自我があるかさえ、かなり怪しい。工事現場や鉱山などで延々と働き続けているナゾの存在、それがネンドじんだ。

 

ネンドじんは疲れてしまうとただの粘土になってぺたんこになってしまうので、電流を流して充電してやらないといけない。

ところがネンドじんは自分たちに充電が必要だということを理解する頭脳もないのか、電池が切れてきても、ただのろまにその辺りをうろつくばかりなので、主人公はこの電池の切れかけのネンドじんを押して押してエレベータまで運び、電流を叩き込んでくれる上司の元まで運ぶ必要がある。

これがRPG的にはミニゲームのようなものなのだが、はっきり言って、このミニゲームをやることによる報酬だとかやり込み要素だとかというのは皆無だし、面白くもなんともない。ほんの少しのお駄賃と、ストーリーの進行に必要なフラグが立つだけで、愚鈍でめちゃくちゃな方向に行こうとするネンドじんを押して押して、時間をかけてクリアすることに喜びだとか達成感だとかストーリー的な必然性というのはまるでない。

単に鬱陶しいだけなのだ。

 

なぜこんなにももたついた、テンポの悪い、時間ばかりかかる操作が必要なのだろうか。だいたい、ネンドじんは命令されればちゃんと労働をするのだから、「電池が切れそうになったら充電しにこいよ」と命令しておけば良いだけに思う。なぜ電池が切れるまで彼らは働くのか。そして、それを引きずり充電するという無意味で生産性の低い労働が要求され、そのために子供が動員されて全体の賃金水準が下がる。

 

このあたり、良いデフォルメがされているようには見えるが、労働というものが本質的に陥りがちな「無の生産」を見せられているようで、かなり胃に来る。当人たちに無を生産している自覚は全く無い。

もしかするとネンドじんは、もう二度と充電されたくないのではないか。ただの粘土の塊になってしまいたいのではないか。朝から夜までクタクタになるまで働いたら、部屋の畳に向かって溶けていきたいのではないか。それを叩き起こして「電流を流す」ーーポップな作風の中で、主人公はあからさまな加害者になる。と、ぼくが感じている。またぼくはアレックを異常者と断じた時のような認知不和を起こす。

 

しかし「ハミングバードのタマゴ」を抱えたまま暴走し、最後にはただの土塊(つちくれ)になったネンドじんの一体を見た時、ぼくは「やっと眠れるのか」と、そんなふうに思った。彼らは土塊に還ることで本来の生を取り戻した。つまり、大地の中で、死にたいときに死ぬということだ。ハミングバードのタマゴは疎外された本来性を回復する目覚めの薬かもしれない。

そう思うと、実に趣味が悪い。そう思わされていることが、だ。

 

ちょっと笑えないMOTHER3(正義と悪のちょうど真ん中)

こんな具合に、MOTHER3はそもそも悪趣味な「なんだこれ」がたくさんあるゲームだ。それを肌で感じる部分がすごく多い。そんなことを考えながら遊ぶと、熱病にかかったようにふわふわしてきて、具合が悪くなってくる。脳が高速で回転しているようだ。そこには無限に続くサイケデリックな世界がある。

そしてこのゲームはまさに、それが素晴らしいのだと思う。僕は、MOTHER3の「泣ける部分」とか「笑える部分」も好きなんだが、こんなふうに「ちょっと笑えない」部分が特にとても好きなのだ。

 

マジプシーって笑えない。

笑えないけど笑える。マジプシーとは素敵な人々のことだ。とにかく素敵である。

 

素敵だ。

素敵なのでPSI(Psionics:超常)の力が使えたりする、大昔から生きている。事実上の不老不死というか、大自然や雲や風といったものに近い存在だ。イメージだと妖精とか、仙人に近い。

 

しかし、そんなマジプシーたちも、ただ素敵なだけの美しい人々かと思いきや、やはり人間ではない存在であるがゆえか生死について達観しているところがあり、そういう意味では時折ギョッとする一面も持っている。

「私たちマジプシーは人の生きる死ぬなんてことにはキョーミなんてないの」

「人間なんて生きるにしても死ぬにしてもせいぜいたった100年。瞬く間じゃないの。そんな短い命にこだわってなんになるの?」

昨日の今日に妻を事故で失い、長男が行方不明になってしまった男の目の前でこんなことを言うので、背筋にビリリと緊張感が走る。同じ部屋に居たくない感じとでもいうのか。フリント(妻を失った男だ)はいい大人だし、疲れているので、このくらいのことで語気を強めたり叫んだり殴りかかったりはしないが、絶対にキレている。それがわかるので、プレイヤーの僕は「ちょっと外で煙草吸ってきます」という気分になるのだ。

(フリントは一方で、妻の死を知った時、気心の知れた村人には殴りかかったが、あれはフリントの甘えだし、弱さでもあって、そこの整合性は取れていると思う。)

 

で、そんなことを言ったやつがいたかと思えば、

「ちょっと!ミクソリディアちゃんにフリギアちゃんってば・・・。そんな短い命にこだわるのが人間なのよ。ねぇアレックちゃん・・・。私にはあなたの気持ちはわかりすぎるくらいわかるわ」なんて言うやつもいる。

 

この、ちょっと最悪な感じは、すごい。

これは確かに気遣いではある、そして、確かに気遣いそのものは優しい。しかし絶対に「わかっていない」だろうし、一番頭にくる「短い命にこだわる」という言葉の部分がそのままなので、余計に神経を逆なでしてきてピリつく、絶妙に空気の読めていない「嫌」な会話だ。本当、このあたりの「嫌さ」の解像度が高い。

しかし、やはりというかなんというか、この「生死についての達観」も、物語についてマイナスの要素だけを与えたりしない、というのもMOTHER3ワールドならではで、ちゃんとフォローというか、別の側面の解釈を与えられることになる。

 

マジプシーは生死に執着しない。自らが命の役割を終えて消滅するときも、そのこと自体に悲しむことも無ければ、身内の者との別れを忌避するという様子もなかった。マジプシーは自然の一部、仙人のようなもので、大自然の決定としての死に対して初めから織り込み済みだとでもいうのだろうか。

「きえたりもしてるけど わたしはげんきです」C級コピーライター渾身のギャグ。

ここで「短い命にこだわる」と言う言葉を思い返す。

たしかに、ある意味では命の終わりを受け入れることは生を見つめることにもなる。生死を達観しているマジプシーの方が、人間よりも正しく命について向き合っているのかもしれない。それに、やはり「短い命にこだわる」ことも否定はされてはいない。死ねば全て終わり、命には限りがある、そのことにこだわるのが人間なのよ。

「こだわる」というのは、それなりに含みのある言葉だったのかもしれない。まあそれはそれとして、最初に聞いたときはすごくムカつくんだけれど。

 

かなり笑えないヨクバ。

またヨクバの話。ヨクバってどう考えてもどう見てもすげー嫌なやつで、すげえ嫌なやつだなって思うのだが、「嫌なやつだ」という短絡的なキャラクター付けの先にいる「人間み」が少しずつ匂ってくるところがある。これがまた最悪でいい味がするのだ。

もちろんゲームプレイの中で。


主人公たちに負けるたび、サイボーグ改造手術を受け、どんどんラッパが増えて行って(意味不明)どんどんサイボーグになっていくヨクバ。最後には通訳を付けなければコミュニケーションを取れないほどに機械化が深刻に進んでいく(会話はもちろんラッパの音色でする)。しかしヨクバの個性はここへきて極まっていく。なんだかもう、哀れになっていって、少し笑っちゃう部分が出てくるのだ。ヨクバが地位と権力と力をすべてを持っているときと言うのは結構最悪なやつだったんだが、こうなってしまうと「おもしろいおじさん」になる。この「失っていくことでむしろ人間味を持つ」、というのは普遍的だがよいアイロニーだ。

 

確かにヨクバは強敵だが、こうなってくると「哀れなやつ」だ。哀れな奴は笑えてしまうし、少し好きにもなってしまう。なぜかというと、「僕たちが彼を見下すことができるから」だ。

これもまた最悪だ。僕たちは自身の中の悪性をまざまざと見せつけられて、それを味わうことで初めて彼を倒すことが出来る。そのある種の禊が、彼を超えるということになる。

「ネスの悪魔」などなくても、人は十分に自身の悪性に向き合えるのだ。それではじめて、ヨクバと言う「人間」を見ることになる。かつてアレックに対してむかついたように。

 

さて、ヨクバは敵なので、やっつけなければならない。MOTHER3の世界観に即した文法で言えば「殺さなければならない」。だけれど、「悪いやつだ」という評価の先にある人間味(ここでいう人間味というのは、朝ごはんはパンだろうか、米だろうか、ベッドで寝るときは仰向けだろうか、横向きだろうか、とか、そういうレベルの解像度の話だ。)を知っていくと、「ああ、これ以上こいつに入れ込むと、こいつを殺すことができなくなるだろうな」というような恐怖が湧いてくる。

 

それは「殺せなくなるかもしれない」という種類の怖さだ。ふつう、友達や親は殺せない。「それ」を想像するのも嫌だろう。しかしゲームの敵なら殺せる。それはその人の肉体の感覚を、息遣いを想像できないからだ。それをしてしまう(かもしれない)と思わせるのは、相当な怖さだ。

「キャラクター」が「人」に見えてきたら、もう、殺すことができないかもしれない。

 

それでもこのゲームは殺させるのだ。

しっかりと、この手で彼を殺させた後で、さらに追い討ちとばかりに彼が「命を持つものだった」のだということがわかる話を持ってくる。(やったことがある人は分かると思うが、ロクリアというキャラクターの話だ。)このあたりも、すばらしく悪趣味だ(褒めている)。

 

善と悪のちょうど真ん中

さて、こんなふうに、MOTHER3ワールドには「ちょっと笑えないこと」や「コミカルな最悪の話」があったり、「いい奴の中に最悪な部分があったり」「最悪な奴の中にちょっとだけ胸をぎゅっと掴む部分があったり」する。

その善悪のないまぜ、ちょうど真ん中がMOTHER3だ。

 

生きていくことはそんなに綺麗じゃない

ストーリーの作りからしてそうなっている。最序盤に最大の悲劇を描いて、本当に「この世の中は過酷で最悪だな」っていう「本気の悲劇的感情」を最初にドンと盛り上げてきておいて、「物語はひとまず悲劇としてはじまった」とナレーションがつき、

―—実際にその物語の中で生きてみると、実際には明るい日々があったり、変な隣人がいたり、なんだかクソくだらないジジイがいたり、吹いたら飛んでいきそうな軽いマジプシーがいたりするわけで、悲劇のままではいさせてもらえない。

「悲劇のままでは生きていけない。」ここが、MOTHER3を解するうえでものすごく大切なポイントだと思う。生きている以上は、リュカはそれらの「なんだか嫌なリアリティ」と触れ合わなければならない。彼らは彼らの人生を生きていて、リュカの悲劇の人生を共に生きるわけではない。「一本筋通った悲劇」なんてのは人生ではあり得ないわけだな、というリアリティが設計されている。

 

「悲劇のヒロインはオナラをしないのか?」

絵本ではしない。

でも、ちがう。本当の人間はするはずだ。「過去に嫌なことがあった」からといって、腸の活動が変わるわけではない。ふいにちょっと愉快すぎるオナラをプ〜〜〜っとかまして、身の上話を聞いてくれている人の顰蹙を買うことだってあるだろう。それは悲劇としては減点ものだが、人生としては「ふつうの営み」だ。

 

だからリュカの悲劇にも、「愉快な人たち」が容赦なく襲いかかってくるのだ。リュカは悲劇を生き続けることを許されない。彼の周りにはカオスがうごめいていて、その中心に放り込まれたリュカは多様な世界で生きることを余儀なくされる。そのことの、なんと「残酷」なことか。

そして、それを跳ね除けていくリュカの、なんと「たくましい」ことか。

 

どんなに地獄を見た苦しい生の悲劇性のど真ん中にも、その人が完全に壊れてしまわない限りは、残念ながらとるに足らない人や動物に対してクスッと笑う心の余裕が(ともすればドライで無感動な感性が)ある。その悲劇と喜劇の両義性の揺らぎの中で、熱にうなされた初夏の午後のようなぼんやりとした自我で、リュカは(僕たちは)世界と関わっている。

善と悪のちょうど真ん中。蜃気楼のように曖昧で捉えようがなくて、虚しくて暖かくて冷たい。生ぬるい湿度の高い空気感。

 

そういう意味では、MOTHER3ワールドには「何もかもがある」。全て人生の出来事が。どうしようもなく大きな天と地のまにまに、僕たちは生きていて、僕たちの運命とは裏腹に人々は営みを続けている。そこには「何もかもがあってしまう」し、「何もかもがあってもいい」。それは不協和と多様性の持つ悲劇と喜劇の両義性だ。

そういうところが、ぼくの思うMOTHER3の1番の魅力なわけである。

 

「何もかも、何もかも」

こんなふうに、全てを小馬鹿にしている露悪的な世界なのに、一方で全ての人を祝福してるような、そういう二面性を味わってくれ、というのが、そのままC級コピーライターの考えだったんじゃないかと、僕はそう思う。

 

何もかもがある世界では、何もかもがある。マジプシーもいるし、「トイレの男マーク」が襲いかかってきたりもする。酸素補給マシンはいかにも酸素を吸い出しそうな格好で、実際は補給してくれる。その全てが同じ世界で同じ日差しを浴びて、「ここにいるよね」と扱われている。その中には、「いてはいけない」はずのキマイラたちもいて、招かれざる闖入者であるポーキーとその部下、ブタマスク軍団も含まれる。

ブタマスクたちは悪者!——と、いうわけでもない。話のわかるやつもいるし、くだらないやつもいる。でもやってることは結果的に残虐非道だ。彼らは人殺しだってやってるかもしれない。——でも、それもまた仕事でやっているだけだ。そして彼らは仕事を選べない。お腹のでてる中年サラリーマン。しかし彼らは人殺しを(間接的にかもしれないけれど)平気でやっている。でも――、

 

そういうものは循環にしかならない。循環にしかならないものを噛み砕いて味わうのは非常に面倒くさい。善や悪の定義に立ち返って考えなければならない。答えの出ない問の中でぐるぐる回り続けなければならないのはある種のインド哲学的だ。その面倒くさい答えの出ない堂々巡りの輪廻の中から何かエネルギーを取り出そうというのが考える哲学だ。

そういうものの一切に、「つまらない」、という考えを持つ人はもちろんいると思う。「善と悪がいて、善の側にいるものが悪の側にいるものを倒してやる」という話があったりして、「そういうものが気持ちのいいお話なのだ」、という考え方はたしかにあると思う。

 

そして、実は、MOTHER2はまさにそういう話だったのではないかなと思う。

ようやく、本題の話ができそうだ。そう、実は、MOTHER3の話をすることによって、その向こう側にあるMOTHER2の話がしたかったのである。

 

「嫌なやつ」でしかなかったポーキーと、何も答えなかった「正しい」ネス

ぼくもかつては善と悪の二元論を愛する子供だった。だから子供の頃はMOTHER2が大好きだったし、自分がネスになったつもりでプレイしていた。(MOTHER1ではイヴに涙し、ギーグを倒した時に喜びを感じていた。クイーンマリーの涙の意味を、僕は当時理解することはなかった。)ポーキーは悪童で、ネスの人生を邪魔する「うぜーやつ」だと、そんな風に思っていたと思う。

 

ただ、大人になった今だからこそ、「悪の側に一歩足を踏み入れてしまって、そこから戻ることのなかった」ポーキーの運命を決めてしまったのは、ハッピーハッピー村でのネス(善の存在)からの拒絶だったのではないかな、と思ってしまうわけだったりする。

彼が最初に悪に手を染めたのは悪ふざけだったのか、ネスにかまってほしかったのか、それはわからないけれど、あるいはギーグに誘導されて悪の波動に染まった彼の、最初の悪事だ。やってしまったことは少女(ポーラ)の拉致監禁だ(ネスから見れば少なくともそれが主題である)。確かに許されざる大犯罪ではある。法で裁かれぬ年齢だったのだとしても、少なくとも心情としては一生かけて償わなければならないはずのものだろう。

その一度の過ちをネスは(善の中心にある、地球という強大な善の爆心地であるネスは)当然許さなかったし、——そのうえ、罰することもなかった。ネスはあのときポーキーに、心底うんざりしていて、返事をしなかったのだと思う。あの瞬間にポーキーは誰にも認められず、守られず、そして罰してももらえない、完全な拒絶を味わった。あの瞬間に彼は「悪」以外の生き方を失ってしまったのではないだろうか。

そんな風に思うのである。

なぜって、そもそもコントローラを持っていた僕自身が、彼を許す気などさらさらなかったのだから。このクズをバットでぶん殴れば気持ちが良いだろうと、僕は本気でそう思っていたのだ。なぜこいつとの戦闘がないのだと。

 

あの時、ネスがポーキーを笑い飛ばして、ヘッドロックなどをしたりして、「ばかやろ〜てめ〜」と、「一緒に行こう」と、「ポーラ!ポーキーを一回ずつぶん殴ろう!」と、ネスがただそれだけを言っていれば、ポーキーの道行は、どうなっていただろうか。「こいつはバカだから何もわかってないんで悪いこともする、しょーもない、くだらないやつだが、だからこそ親友の僕がついていて、善悪を導いてやらないといけない」と、そのような言葉を彼に向って言うことが、ネスにはとうとう最後までなかった。

(ゲームの主人公だから言葉をたくさん喋らない、というのは、まあ置いておいて)

 

そういう意味では、マジカントに登場するポーキーも、あれは本当に強烈である。

大人になった今だとちょっと不快になってむすっとしてしまう。何が不快かと言うと、ネスに対して心の底から不快になるのだ。あの世界でポーキーは「ネス、お前はいいよな。俺なんてダメさ」などと言うのだ。それはそうだろう、ポーキーはダメなやつだ。本当にダメなやつだし、悪党だし、悪知恵ばかり働くやつだ。しかしここで問題なのは、あの世界は「ネスの深層心理」ということである。あれは決してポーキーの本心などではない。あれが起こっているのはネスの心の世界の中での話なのだ。つまり、「ネスの心の中にいるポーキーはダメなやつ」なのだということだ。

ネスは、「あわれな小悪党の弱っちいポーキーは僕を羨んでいて、本心では僕と友達になりたいと思っている」のだと、自分自身の深層心理で勝手に思っているわけなのだ。

 

あのシーンは、ネスの悪魔の本当の正体を表しているのだと、僕は思う。

 

このことに気づいたとき、僕はネスという「主人公」の持っていた「残虐性」におののいた。それはネスというキャラクターの持つ人格の問題ではなく、ひるがえってみれば僕たちの問題だ。正義の味方の持つ醜さや酷さ、正しさを振りかざして持たざる者に唾棄する浅ましさ。

ネスはポーキーを許さなかったから何も答えなかったのではない、ポーキーが悪党だから手を取らなかったのではない、ネスは、ゲームが始まったその瞬間よりはるかに昔から、ポーキーを心の底から軽蔑して見下していたから、何も答えなかったのではないか――。

 

どうにも、ここに、MOTHER2の「やりのこしたこと」、つまり「なぜMOTHER3が存在しなければならなかったのか」、言い換えればつまり「なぜポーキーはMOTHER3の世界へと向かわなければならなかったか」の答えがあるように思えてならない。

善が悪を倒すのではない物語。善とか悪とかが明確に決まっていなくて、心の在り方がさまざまな色彩を放つ世界。MOTHER3はまさに「そういう」世界なのだ。

 

善悪が光の如くありふれている世界。アゴダ・クリストフの『Le Grand Cahier』(『悪童日記』)に登場する主人公の双子の本名(実際には『悪童日記』ではなくその続編にあたる『二人の証拠』および『第三の嘘』で明かされる名前)である「リュカ」と「クラウス」を主人公のおすすめネームに設定しているというのも、このいかにも難しい人の心のありようを考えているんではないかなと思う。

(まあ『悪童日記』をゲーム的にまっすぐ昇華したら『ライフイズストレンジ2』になるわけなので、実はMOTHER3ではその辺りはあまり考えないでも良いのかもしれない。だが考えるのは自由だ。)

 

閑話休題

ポーキーは「ちいさな箱庭」で再び産声を上げた。すべての世界から拒絶されたポーキーがたどり着いた最後の場所、ノーウェア島。

しかし、それは「世界に受け入れられるための旅」だったはずだが、ポーキーが最後に選んだのは「世界に受け入れられる」ことではなく、徹底した拒絶。つまり「何もかも、何もかもをただひたすらに破壊すること」だった。善も悪も、世界すらも。何もかも、何もかも。

 

ただ、ぼくは、ポーキーは厳密には「たったひとつの真実」を破壊しなければならなかったのではないかと思っている。

 

ポーキーが「壊そうとした」ものは何だったのか

もちろん彼はただ世界をおもちゃにして遊んでいるだけだ。彼自身はそれ以上のことは考えない。それがポーキーと言うキャラクターの骨格であり、メカニクスでもある。しかし「物語」というのはそういうひとりひとりの登場人間の考えを超越したところに俯瞰・普遍化された「脈」というものがあって、大きなうねりとしての物語は「ポーキー」に「役割」を与えるのだ。

それが、「破壊者」としてのポーキーの役割だ。

 

ノーウェア島の嘘 

端的に言えば、ポーキーは人生が無意味で無価値で、なんの意味もなく、友愛や信頼などは存在しないと「知って」いた。人の本性は悪性であり、善性とは「嘘幻である」と信じていた。

ポーキーにとっては、それを認めることこそが敗北であり、それを破壊することこそが勝利だったのだ。なぜならば、ポーキーはそのすべてを持たずに生まれたのだと「思っていた」のだから。

彼が人からの愛、とりわけ母親からの愛情に飢えていたことは、MOTHER2の最終戦闘、ギーグとの戦いの中でもうかがえる。またネスという友人に最後まで執着していたことはMOTHER3の終盤で訪れることになる彼の部屋からもわかるだろう。

しかしポーキーはそれを得ることがなかった。なぜか?「そんなものは存在しないから」ではないか。

 

ともかく、ポーキーはいちど世界に拒絶され、ネスたちにも敗れ、ギーグという寄る辺を亡くし、彼は自分自身が受け入れられる世界を探した。時間や空間を滅茶苦茶に移動して、様々な世界を見て回った。しかし、どこに行ってもポーキーは拒絶された。それは彼が他人を愛する術を教わらなかったからこそ必然的に起きた疎外だともいえるし、他者が絶対的に彼を拒んだからだとも言える。それは先ほどまでの前提で言えば、僕という名の、僕たちという名のそれぞれの「ネス」が彼に刻みつけた呪いだ。

そうして呪いの中でポーキーがさまよい、最後にたどり着いたのがMOTHER3ワールド、ノーウェア島だった。そこにはポーキーがこれまでの世界で見てきた「平和」や「家族」や「友情」や「安寧」という、彼が一度も手にすることのなかった「何もかも」が存在していた。

この「何もかも」を壊せばさぞ気分がいいだろう。ポーキーは暇つぶしのためにそのすべてをいじくりまわし、破壊しようと考えた――。そのあと、いつのタイミングかはわからない。「ロクリア」の裏切りは前か後か、ともかくポーキーはノーウェア島にある「それら」が全て「嘘」で作られていることを知った。その時、ポーキーの歪んだ夢が動き始めたのだと思う。

ノーウェア島には、善と悪があるのではなかった。「本当の許容できぬ悪を封印し」、その上で「善なるものが生を謳歌する」世界だったのだ。

 

ノーウェア島にあった「嘘」は、(おそらくは人類の欲望の果てにある終末戦争によって)世界が滅んだことを悔いた人類が、その滅びの記憶を忘却し、安定して発展することのない絶対の停滞の中で、お互いをいつくしみながら「役割」を演じ続けるというものだった。それ自体は人類にとって不可欠な決断だったであろう。

ただポーキーがノーウェア島の「嘘」を暴こうと躍起になったのは、2つの理由があると考えられる。ひとつは彼が欲望の権化であること。金銭やテレビ(ハコ)が共同体を内側からむさぼり破壊する装置として描かれていたのは、ポーキーの因子を流し込むことで「嘘」という洗脳を弱める側面が物語としてはあるだろう。欲望を求めるポーキーにとって、発展を「許容できない悪として」封印する世界は敵なのだ。

そしてもうひとつ、これが最も重要だと思うのだが、ノーウェア島の嘘は「互いを信じ、守り、いつくしむため」の嘘だったからだ。

 

つまり「嘘」が無ければ、人は争い滅びる。

「【せかい】を ほろぼす げんいんが これまでの じぶんたちの

 いきかたのなかに あったのではないかと かんがえたのだ。」

 

つまり、世界にはもともと信じること、守ること、いつくしむことは存在せず、それらは嘘によってつくられている。その嘘がなければ、世界は滅びてしまう。

ここにポーキーは、ようやく、自分の正しさを証明することのできる場を手に入れたのではないだろうか。「それが嘘だからこそ、真実に気づいていた自分は嘘の外へと追放されたのだ」と、彼は理解した。彼の旅は、すべてを「持たなかった」自分自身の人生を肯定するための旅だったのかもしれない。だからこそ、ポーキーは「家族」であったり「愛」という言葉が何を意味するのかを吟味していた。そして、それは彼にとって「嘘」でなければならなかった。そんなものが存在するという事実そのものを破壊しなければならなかった。

だからポーキーはクラウスを改造しなければならなかった、だからポーキーはリュカをクラウスの元へと招く必要があった。クラウスとリュカが殺し合えば、家族などというものが何の意味も持たない嘘のひとつであると証明できるわけだ。

そのあとで世界が本当に滅びれば、やはり、この世界には空虚で無意味で何もないとわかる。それを証明することが出来る。

 

しかし、全てが嘘でできたあの世界で、たったひとつの真実だけは、唯一「崩壊前の世界から持ち込まれた真実」である「本当の家族」の「本当の絆」だけは、ポーキーには最後まで壊せなかった。

彼はそのことに敗北したのだ。

 

MOTHER3の最後の戦いは、嘘と真実をただすための戦いでもあり、死者を救済するための戦いでもある。そして、それを乗り越えることが本当の価値を持ってリュカが今を生きていくことに繋がる。そういう意義を持った戦いだ。フリントはハゲていたけど。あの髪型はスキンヘッドというらしい。スキンヘッドというのはカッコつけた言い方だと思うが。

茶化すのはこれぐらいにして。死してなおわが子を見守り続けた「母親からの無償の愛」、それがポーキーという邪悪の企みを挫いた。ポーキーが最も「この世界には存在しない」のだと信じたかったであろう「それ」に、ポーキーは敗れ去ったのだ。ポーキーだけが(少なくとも彼の中では)決して持ちえない最強の力、MOTHERに、ポーキーは敗北を喫したのである。

 

かくして「ネスの悪魔」が生み出した呪いは、時と世界を超えて、解消されたことになる。皮肉にも、その時には既にぜったいあんぜんカプセルに入ってしまったポーキーの全く預かり知らないところで。彼は、勝者になることも、敗者になることもなくなってしまったのだ。ぜったいに、永遠に。

このアイロニックな幕引きには最後に少しフレイバーを加えるとして、少なくとも、結論としてはこうだ。

MOTHER3というのは、「MOTHER2を批判的に考察する」ところから発展する作品である、というのが僕の考えだ。つまりそれは、地球という正義を背負って悪を断罪してまわる正義の味方、ネス少年の冒険は本当に正しかったのか、と疑う視点を持つということだ。批判する、というのと批判的に考察する、というのは違う。MOTHER2の作品としてのクオリティは疑いの余地がないし、それは素晴らしいものなんだけれど、それを疑う目を持つことで「MOTHERシリーズ」は文学たり得るのではないかと思う。

僕はネスの旅を美しいと思う。しかし同様に、ポーキーの人生も美しい。ポーキーが善を疑ったから、真実の善が姿を現した。ポーキーが悪の封印を解いたから、「全ての命が生まれ変わって、善と悪が同時に存在する」世界が本当に誕生した。それを思うときに、あの真っ暗闇のエンディングの意味を、やっと問うことができそうだ。

 

全てが終わった、朝日を浴びて。

クラウスにかけられたポーキーという男の呪いは砕かれて、「偽物と嘘だらけの世界」に残された、たったひとつの真実が、かつてバラバラに引き裂かれた「家族の愛」が蘇った。そのことこそが、MOTHER3における「ラスボス」への「勝利」だった。かくして主題は回収され、勝利をおさめたので、それ以上を描く必要はない。

MOTHER3は「ドラゴンを起こす物語」では断じてない。ドラゴンの針というわかりやすい動線は、わかりやすい明確なオブジェクトは、「ゲーム」そのものでしかない。

 

罪滅ぼしのため、天へと帰るクラウス。ある意味では、生き残ったリュカの方がずっとつらくて過酷な道を生きていたけれど、それでもまず最初に「死者」を救わなければならないのだ、というのは、正しく「宗教的」だ。それこそが生者のための道引きになる。そういう意味では、クラウスが救われるということは、そのままリュカとフリントの救済を兼ねている。

母の胸に抱かれ、クラウスは昇天する。

 

先ほども述べたが、この時点で「MOTHER」というタイトルは回収されていて、ストーリーもとっくに完結しているわけである。『MOTHER3』とは、「嘘と悪意に全てをバラバラに引き裂かれた家族が、再び絆を取り戻すまでの物語」だった、というわけだ。

 

ドラゴンは?

そうなると、その後のドラゴンの針を抜くシーンは「どうでもいい」といえばどうでもいい。正直に言うと、やらなくても構わないことだ。ただ、一応はそれをわかりやすい作業目的として物語を進めてきたので「やった方が親切かな?」「辻褄が合うかな?」くらいの話だと思う。

 

あそこはもう、正直言ってしまってどうでもいいので、見せてくれなくても構わない。見せてくれなくても構わないのだけれど、あれは「わざとやってる蛇足」だ。

あれはわざとやっている蛇足なので、押しつけがましいハッピーエンド感を出したりはしない。「善」や「悪」に色を塗るのをやめよう、何もかもを受け入れて見てみよう、というのがMOTHER3だったが、その中でひとつだけ答えがあった。「家族の絆は真実だった」。ここに物語の幕引きがある。

 

そこから先はカーテンコールというか、舞台裏を見せるというか。役者たちが全ての演技を終えて感想を言い合ってるような雰囲気。それがまた、リッチに出来ている。

疲れてるやつもいるし、元気なやつもいる。笑ってるやつもいるし泣いてるやつもいる。なんだか少し寒い。最後までいいやつもいれば、ちょっとなんか嫌な感じのやつもいる。全部が白紙になって、新しい命が始まる。明日が来る。

 

あのエンディングはスピルバーグの『太陽の帝国』の遊園地の情景が僕の中では一番近く、しかし一番心情は遠いのかもしれないが、白昼夢のようなクラクラする、『感電』したような、朝日に眼を灼かれる「感じ」とでもいうのか。

たとえば、僕の原体験で言うなら、どんちゃん騒いで終電逃して飲み明かした後の鴨川とか、北白川の徹夜の麻雀明けだとか、とにかく白んだ空を、反射光すらも目に痛いもんで、しかし目を逸らさずに一生懸命に睨みながら、空き缶やタバコの吸い殻の転がってる湿った街を徹夜明けにぶらり歩いて、タバコを吸ってるような。

冷たい風が首筋を乱暴にこすって、身をかがめて仲間の足を小突いて。ニヘリと笑ってどろりと煙を吐き出したら、二つ隣の筋の大通りにタクシーが走り出した音がする。濡れたアスファルトを切り裂いてタイヤが滑る。

帰るやつは帰る。残るやつは残る。挨拶はしない。するやつはする。

 

そういう雰囲気。そういう雰囲気がすごく好きだ。

これまでの何もかもが、ぜんぶ白紙になって、頭もボーッとするから、本当に世界が空っぽになったみたいで。始発が出る前に陽の光を浴びて、湯気だったアスファルトの路地は少し生臭かったりして。それが「ごちゃついたカオス」の人生を「生きる」生(なま)の感覚っていうか。

ずっとそこにいたいけれど、僕は始発で帰るのだ。そう、僕は始発で、帰るのだ。

 

おまけ。ギーグの正体について。

 

僕は最後に、結構嫌なことを言うかもしれない。

僕がこれから簡単に話そうとしているのは、MOTHERという作品に登場するあの宇宙人ギーグではなく、MOTHER2に登場した「ギーグ」というバケモノの正体についてだ。この文章の最初に書いた前提を思い返してほしい。「作られた時にそれが意図されていたか」ではなく、結果として作品が「それ」を意味することになる、ということを否定しないのが文学の読み方の一つとして許容されるべきだと僕は思う、ということだ。

 

結論から言おう。僕はギーグの正体とはポーキーだと考えている。

MOTHER2にてギーグは、はじめ、丸い球体に入れられている。その装置の名は「あくまのマシン」と言われているが、僕はこれは「ぜったいあんぜんカプセル」のことだと思っている。アンドーナッツ博士によって永遠の監獄に閉ざされたポーキーは、世界が本当に滅びるその日まで、宇宙が消滅する瞬間まで、あるいはそれが消滅したあとも、新たな宇宙という世界、輪廻が時間を巻き戻すまでたったひとりで無の世界を漂った。やがて永劫の時の果てに、自分がポーキーという少年であるということも忘れた「それ」は、絶望と虚しさと憎悪から生まれた、極限までに圧縮されたサイコパワーで、自らの存在そのものさえぐちゃぐちゃにつぶしてしまった。

それは自身を、宇宙最悪の存在「ギーグ」と認識した。

 

「ギーグ」のいる過去の最低国の洞窟が女性器を連想させるものであること、胎盤をモチーフにしたような機械のひだの中に「あくまのマシン」が安置されていること、そしてなにより解放された「ギーグ」の姿が、胎児の姿に見えることは、ポーキーという少年がかつて母の愛に飢えていたことに関連するのではないだろうか。母体回帰を望んでいたように見える。

あるいは、まさに「母」という存在によって自身の野望が崩れ去ったMOTHER3での経験が、彼の「母親」というトラウマを強靭なものにし、それが彼の狂気に拍車をかけたのではないだろうか。

タマゴのようにも見える「あくまのマシン」に描かれた顔はネスのそれだった。もしかするとポーキーは、全てを持って生まれた、ネスという少年として「生まれなおそう」としていたのかもしれない。だから「ギーグ」はネスに執着する。ただ単に自分を脅かす敵ではなく、恋い焦がれるように、熱烈に。間違えた自分の人生をやり直す、「正しい母」から「ネス」として生まれることが、ポーキーにとっての輪廻の回復だ。

一方のネスはこの、自分自身の「悪の起源」と戦い、これを打ち破ることで「善」の定義を回復することができる。これこそが、「ポーキー」という名の「ネスの悪魔」との本当の闘いである。

 

というような話は、実は、何の根拠もないわけではない。

ギーグは世界を滅ぼすための計画を画策する。といってもギーグにはもはやまともな意識は存在しない。邪悪な精神波長に誘導されてあつまる悪しき宇宙人たちを統率するには、「その意思を媒介して伝えるもの」が必要だった。そのために「ポーキー」という少年が選ばれたのは輪廻の必然だ。ポーキー自身がポーキーを呼ぶ理屈であり、それゆえ、ここにどうどうめぐりが起きている。ただ、ポーキーという少年が実際にその時空において誕生するよりもその前に、ギーグ自身の意志を伝える役割を担ったのが、彼自身のサイコパワーでもあるし、完全なる未来予知システム「知恵のリンゴ」でもあった。

知恵のリンゴはネスがギーグを滅ぼすという未来予測を伝えた。だからスターマンたちはネスと敵対した。前提として知恵のリンゴの予言には「ポーキー」という少年が登場していない。だからポーキーは予言に登場しない唯一の存在としてギーグの傍に立った。だが、これらはすべて、順番が逆だったのではないかと思う。

僕は、この知恵のリンゴとはMOTHER3に登場した、ポーキー制作の「ネスの冒険」を描いたあの映画なのではないかと思うのだ。知恵のリンゴは未来を高精度で予測する謎の装置。未来に作られた映画がネスの冒険の記録を忠実に、隅々に至るまでを再現しているのなら、それはもはや完全な未来予知にしか見えないだろう。

 

そして、ネスの冒険を描くポーキーは、そこに自分の姿を映すことをよしとしなかった。そこに彼のどんな思惑があったかはわからない。忠実に再現することで再びネスを嘲笑する喜びを得ようとしたのか?それとも純粋な友情からネスの冒険を冒涜したくなかったのか?説明はされていないし、推し量ることはできない。しかし、それゆえ。

だから、知恵のリンゴの未来予知にポーキーは登場しなかったのだ。だから、ネスがギーグを倒すことが予知されたのだ。

 

永劫の時の果てに、最悪の化身「ギーグ」として再生し、全ての始まりである「ネス」を殺すこと。そして、全ての善の中心である「ネス」として生まれ、正しき母の愛を受け取ること。

それこそが「ギーグの逆襲」だったのかもしれない。どこが逆襲かというと、だ。ネスという善の存在が生み出した、呪われた絶対悪のポーキーが、永劫の時を超えて「その悪そのもの」であるギーグとして帰ってきたのだから、これは逆襲と言うほかない。ギーグはPKキアイ(デフォルト)を使う。それはネスの前世ともいうべき善の輪廻が産んだ呪いなのだ。

 

以上の考えはとんでもなく不愉快かもしれないし、ナンセンスだと思う人もいるだろう。しかし、少なくともこういう読み方はできるのだと思う。(だから、これは僕が最初に言い出したこと、ということにはならないだろう。誰が思いついてもおかしくはないことだろうからだ。)

そうやって揺さぶることのできる文学というのは、ほんとうに貴重で、すばらしいものだ。C級コピーライターに感謝を。

 

おしまい。

 

本当の最後に。

家族に会うための、家族と別れるための、家族のいる家という空間を象徴するあのドアノブ。彼らのドアノブは壊れてどこかに行ってしまったけれど、最後にそれを拾うことができた。

そしてプレイヤーの僕はその「ドアノブ」をもらった。

そのことを、もう少し考えてみようと思う日々だ。

 

◆リュカ!

    「スイッチ」というようなことを イメージしてみろ!

◆そしてそのまま 「でんげん」をきるのじゃ

 

 

 

オケスカ?

 

 

(おわり)