そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

シン・世界最強の夢日記

 

僕は、空が落ちてくる夢を見た。 

それは、福井県に恐竜を見に行った時のことだった。

 

現代に生きている恐竜というのは、基本的には「ハト」とか「スズメ」とかいって、「トリ」(一般には空を飛ぶ形態の恒温動物全般を指す言葉――もちろんペンギンやダチョウのような例外は置いておいて――で、学術的な話とは結構違うが)の形態をとっている。まあ敢えて言ってしまうが、鳥類は恐竜だ。ヒトが霊長類なのと一緒。一方で、非鳥類の恐竜というのは、K-Pg境界で絶滅してしまったわけである。

これを現代で観察する方法は、化石博物館を訪れることである。自明だな。

 

しかし、どうも不思議で面白いのは、約65.5 Ma(1Ma = 100万年前)より前にしか非鳥類型恐竜は生きていないわけであるから、今生きている恐竜(繰り返しになるが鳥類のことだ)は目で見て触れて時には食べることもできるのに、非鳥類型恐竜を見る時にはかならず化石頼りになるという点だ。

これはかなり面白い。「人間は生きていて、触ったり叩いたり撫でたりできるのに、類人猿は全部化石ですね」と意味的には同じ。ニンテンドーswitchはどの家庭にも1台はあるが、Atari 2600は博物館にしかありません――みたいな?

 

まあ、喩えは喩えでしかないから、この話にはあまり意味がない。

僕が主観的に「おもしろいな~」と思っていることを表象化したにすぎない。だが、恐竜の化石を見ながらにして、今僕らが自由自在に食ったり焼いたり追い払ったり撮ったりできる恐竜に思いをはせるのは面白い。

 

そういえば、食堂のメニューにはあまり恐竜が出ていなかった。せっかく恐竜博物館なのだから、恐竜尽くしのコースがあってもよかったように思う。

まあ要するに焼鳥丼とか、鶏肉のフォーとか。カオマンガイとかカオソーイに蒸鶏載せるとか、そういうのがあってもよかったんじゃないか。

まあ、一応、カレーの上に鶏の手羽先が乗っていた。手羽先は恐竜の進化の歴史においてはかなり重要な器官だと言える(羽毛と翼の獲得の歴史の話をしている)ので、アイコニックな料理としては合格点かもしれないけれど。

 

僕たちは、今、恐竜を食べることはできる。だから味もわかっているつもりだ。だが、ひとくちに鳥類と言ってもいろんな味があるように、きっと恐竜にはもっといろんな味があったことだろう。

特に竜盤類と鳥盤類の違いなんていうのは、どんな味の差を生んだことだろうか。なんとなくだが、Stegosaurus stenops(ステゴサウルス)はワニみたいに淡白な味がしそうだし、Triceratops horridus(トリケラトプス)は若いほど臭みが少なくて、肉質が柔らかい、そういうラムとターキーの間みたいな雰囲気を感じる。

 

ああ、一応言っておくけれど、恐竜という生き物は大きく分けると竜盤類と鳥盤類という2種類に分けられて、これは骨盤の形をだいたいの基準にして分類される。で、竜盤類の中から現代まで生き残っている鳥類が発生していて、鳥盤類と鳥類には何の関係もない。

これははっきり言って、ちょっと最悪だと思う。

 

もっと言うと、最近は「竜盤類」ー「鳥盤類」の2種で分類していたのを、「竜盤類」ー「オルニソスケリダ類」の2つに再分類しようではないか、というような話もある。これもまあ先発後発の問題と、日本人がテクニカルタームをどう接収してきたかの歴史的変化の影響もあって、名前の付き方が結構最悪だし、なにより竜盤類だった連中の一部(獣脚類:ティラノサウルスとかだな)が鳥盤類と合体してオルニソスケリダ類に再分類されるために脳みそがクソバグり出す羽目になった。

 

あと、たぶんなんだが、「恐竜」という言葉そのものの定義(鳥盤目の周飾頭類[トリケラトプス]と鳥類の最も近い共通祖先のすべての子孫)を書き換える必要がある。

最悪だ。

 

だが、こういう最悪な感じも、恐竜の面白いところだ。

 

前置きが長くなったが、そんなことだから、また夢日記をつけてみることにした。

それも、世界最強の夢日記を。

 


 

3/10 空

空が落ちてくる夢を見た。それだけの夢だ。すべてが終わって推敲をする今となっては、しこたま酒を飲んでくらくらしたまま寝不足の頭が、また酒を入れられてしまったものだから、こんなバカな夢に落ち込むのも無理はないと理解できる。だが、夢を見ていた当時の僕はどうだったか。「空が落ちてくる」という観念的なワードは実際のところ大したことではなくて、空というものが持つ巨大な空虚に耐えられない人間の心の弱さを表現した便宜的な名辞にすぎないのである。僕は不安を感じていた。とても大きな不安を。ぽっかりと空いた天の穴、それがふさがってくれと願う。曇れ、曇れ、曇れ、大雨が降ればなおよい。

 

そして僕の夢日記がふたたび始まった。

 

3/11  アホの考えるエンジニアリング

大規模地下空洞の建設に携わっている夢。大学生になりたての頃の僕の将来の夢はこういうことをするエンジニアだった。何がどうして、何がどうなってこんなことになったのか。それをつまびらかに語る必要もなければ聞きたいものもいない。そういうことが人生にはたくさんあるな、と、夢見ながらに思った。

そう、明晰夢というやつだ。珍しく、僕は僕自身を俯瞰して見ていた。明晰夢ならある程度コントロールできただろうか?だが、そういう発想は湧かなかった。明晰夢と言葉で言うほどは明晰ではないということだ。そもそも、この世は何もかも、バイナリなものではないと思う。

とにかく、全く専門的知識が欠落した状態で見る夢なもんだから、何もかもがファジーでいい加減だった。たとえば、重機の名前とかがめちゃくちゃ(なのだろうと思う)で、作業員の格好も現場を舐めたヘルメットに作業着だけの格好で、かろうじてハーネスはしていたが、今思うと反射板とか何もつけていなかった。まあ、そんなものだろう。

将来の夢といえばまあ、ややこしいことに、小学校と中学校と高校と大学と今とで全部違う。だがそれを語る機会はない。そういうものだ。こっちの夢の話はするが。

 

3/12 大破壊の星!

大変だ!大地が割れ、海が陸地を飲み干した!かすかに残っているのは山脈の尾根のような切り立った陸地と、いくつかの荒廃した建造物の跡地、そして嘘のように青々と生い茂る新緑の自然だけだ。どうもごつごつしたカルストの稜線だけが残されて、あとは削れ落ちて数百メートルは下の荒れ狂う海に飲み込まれてしまったようだ。風吹けば人も草木も飛ばされ、奈落へと落ちてゆくような過酷な状況。僕はすっかりあきらめてしまっていて、廃墟の一角にできた人間の集団からは(何かこの状況を「わかっている」かのようなことを言ってしまうことで、希望の光として設置されるのが嫌だったので)少し距離を置いて海を、正確には海に太陽が沈んでいくのをぼんやりと見ていた。潮風が岩肌を乱雑になぜて、吹き上げる泡は粘性が高い。鼻腔をくすぐる微粒子は、いつも嗅いでいる港町の汚れた潮風の臭いそのものだった。星の終わりに、人類の身勝手で、何もかもがきれいになるわけではない。そこに一筋の流れ星。いやいくつもの流れ星。流れ星、流れ星。視界を左から右に切り裂いて、無数の流れ星。まあ匂いは減点だったが、こいつはこの世の終わりの景色には相当相応しい隕石群。あ、メテオライト欲しいな~。と思っていると、ぼんやりと滲んだ北の水平線が突然赤く腫れあがって、黄と白の明滅のシグナルがナンセンスなモールス信号のように網膜を焼いた。そして、幾ばくもなく、光と振動の雪崩の中に僕たちは消えていく。

 

今更だが、宇宙を漂流する夢を見ても、死ぬこと自体はさっさと受け入れてしまっているわけで、僕という人間の根底の厭世観というかもうどうしようもないイキったペシミズムは、激臭をはなちつつも僕の味わいになってしまっているなという感じだ。

 

3/13 アホの森

酒をしこたま飲んで寝たため、サイケデリックな森の中で歌を歌ったりした後で、何か大きな流れと言うようなものに巻き込まれる形で僕以外の人間だけが楽しみはじめた。すると、僕は死ぬほど不愉快な気分になった。そして起きると片頭痛がした。僕は、心底単純な人間だと自分で自分を嗤った。やれやれ(だが、ちょっと待ってほしい、そういう意味ではない)。

 

3/14 無(という字が持つ圧倒的な有存在性に辟易する日)

夢を見なかった。疲れ果てていたためだ。

 

3/15 天使不在のカフェテリア

カフェテリアで何かを注文していたが、一向にそれはやってこなかった。ウェイターが何か僕の存在のすべてを軽んじている雰囲気で、僕は憤懣やるかたないという気分であったが、しかしスーツを着てさあこれから仕事をするぞという雰囲気の僕はウェイターに抗議することもなく忍耐をした。さて、僕の今までの夢の傾向をとらえれば、ここらで天使が出てきそうなものである。しかし天使は現れなかった。『ゴドーを待ちながら』のような不条理。あるべきものがあるところにない瞬間の世界の不成立。そんな時間は大型トラックの横転で終わった。トラックが高速回転しながら、カフェテリアに突っ込んできたのだ。僕は、宇宙人との和平条約を結ぶ必要があったため、その場を後にした。カフェテリアには悪いが、宇宙という規模の方が重要に思えてならなかったのだ。僕を無視する世界のすべてよりは。

 

3/16 初めてのこと

妻と大喧嘩をする夢を見た。タイトルに語弊があるので補足しておくが、「初めて妻と大喧嘩する」という類の夢はよく見る。逆説的には、少なくとも僕の個人的な認識において、現実の世界では、妻という生き物と僕の間でこれまでに「大きな喧嘩」という種類の争いは一度も発生したことがない。おそらくお互いに気を遣いすぎているからかもしれないし、実際はその逆で、双方に限界までひずみエネルギーが蓄積されていて、もうすぐ爆発するという類の状態かもしれない。とにかく僕は後者を深層心理で危惧しているわけである。それが、「初めての大喧嘩の夢」と言う形で表出する。とはいえ、怒りくるっている妻の姿は見たことがないので、「信じられないくらい拗ねている」とか「完全に開き直っている」とかいう、かなりふてこい状態として描画される。ちなみに、喧嘩の原因だとかそういうことは一切わからない。とにかく「喧嘩状態である」ということだけを認識しているわけだ。よくわからないかもしれないが、つまりは、僕はネガティブな方に想像力が働くわりには、他人に対して作為的な妄想を抱かず、確定している情報だけで夢を組み立てるほどにはリアリストだということである。これを「誠実だ」と言う人もいる。そういうわけではない。

 

3/17 宇宙ネズミの大冒険

おい、リアリストはどこに行ってしまったんだ。僕は宇宙ネズミの相棒となって、銀河をバイクであっちこっち行く立場にいた。そういう立場を表す日本語は現在のところ存在しないので、可能な限り誠実に書いたらこうなる。宇宙ネズミは名前を「ティンパニー」と言って、僕はそれを口に出すたびにいろいろとモヤモヤした。宇宙ネズミはヘルメットをかぶらなくても宇宙空間を行き来できるのだが、バイクを操縦する――ということは僕はもしかすると「アッシー君」なのかもしれない、宇宙ネズミの――僕としては完全防備でないと死んでしまうから、防護服を着る時間がかかる。そのたびにティンパニーに小言を言われる。こんなことなら纐纈クジラ運送に任せればよかった、などと失礼なことをほざく。うるせえ、俺だって自分が最高品質の仕事提供者でないことはわかっている。馬鹿にしやがって。それでもこうして、それなりの仕事はしてるんだ。

 

いつものことだが、こういう夢を見ると起き掛けに思うのだが、結局のところ、僕はネズミを食べたことは一度もないわけだ。

 

 


 

 

最悪な人間には最悪な夢が相応しい。

今回の夢日記は最悪が多かった、そんな話としてまとめられるだろう。

 

最悪な夢を見た人がその次に考えるのは、たとえば食事の味の話だ。

恐竜に思いを馳せて、太古のロマンがどうのというよりは飯のことを考えている。巨大な海洋に想像を膨らませて、汚い潮が口に入った時の苦辛い味を思い出している。

 

世界の解像度が上がれば上がるほど、僕たちは「それそのもの」が持つ単一的な意味性ではなく、世界と接続されたすべての包絡線の合流地点、窮極の一(いち)、つまり一如(いちにょ)たる宇宙を見る。

 

その宇宙には自分自身が接続されているのであってみれば、僕たちは正気であればあるほど自分自身の身体性に向き合わなければならない。全天空の彼方、マクロコスモスの向こう側に歴然と存在するミクロ。宇宙よりも大きな自己意識という、その不合理のカルマと。

要するには、僕たちはどんなに高尚なことをほざいていても、その根底に生の本質を切り離しえないということではないのか。

 

それは愛と性を切り離すことが絶対にできないように、友情と打算を切り離すことが絶対にできないように、成功と苦悩を切り離すことが絶対にできないように、未来と死を切り離すことが絶対にできないように、そうして、ずっと僕たちの生の目の前に横たわっている。

だが、それが僕たちが最も愛してる人の愚かさ、「カオス」ではないのか。人間の語るべき言葉とは本来、そのカオスを採り上げるためにあるのではないのか。

 

僕は、人生から良いものだけを取り出したくないだけなのだ。

 

世界の曼陀羅はきっと、クジラの化石の形をしている。

だから僕は夢の話をするのだ。

 

 

(おわり)