そんなことはアルマジロ

そんなこともアロワナ

俺たちのインターネット

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 


 

夏。照り付ける太陽。

朝の庭の水やりの飛沫のせいで蒸しあがったアスファルトは、食えもしないのに湯気を放ち、見上げる群青の空には入道雲が立ち昇っていた。

緑のプラスチックのかごを下げて、僕は、田畑を吹き抜ける風に乗って走った。

 

夏。20度に設定したエアコン。

パワフル送風設定の木管楽器のような音色が背筋を冷やす。京都議定書から11年が経っても、親のいない夏休みのリビングは南極気分だ。

カラフルな光の明滅するモニター、プツプツと歯切れの悪い音を立てるステレオスピーカー。高校の課題や講習を机の脇に放り出して、スライド式の木板を引きずり出して、隙間に埃のたまったキーボードを慣れた手つきで叩く。

 

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ニコニコ動画

 

僕たちは、あの日、インターネットにいた。

2008年。俺たちのインターネット。

 

俺たちのインターネット

 

デジタルネイティブ世代の僕たちにとって、インターネットは常に身近なものだったが、それは「ポケモン」や「デジモン」と同じ意味で、身近なものだった。つまり、「大人は知らない」世界だった。

 

2000年に細田守監督作品の『デジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲーム!』を見た時から、僕たちにとってのネットとは、「大人の介入できない、僕たちだけの自由な非日常の舞台、異世界のようなもの」という感覚があった。 

 

まだテキストサイト時代の名残を強く残していた2000年代初頭から、インターネットは大きく変わっていった。中学校に上がる頃にはみんな「遊戯王」や「デュエルマスターズ」と同じきもちで「2ch(にちゃんねる)」にのめりこみ、AA(アスキーアート)やおもしろフラッシュ倉庫に夢中になった。

 

学校では、技術の時間にインターネットリテラシーについて学び始めたが、 今思うと全く何の教育効果もないものだった。

 

「インターネットなんてやってると脳が腐る。犯罪者になる。」

 

技術科目の教師から、僕が本当に与えられた言葉だ。

中学生男子にこんなものを与えてしまったら、もうおしまいだ。僕たちは「犯罪者になりたい」年頃だったのだから。 僕たちはインターネットはアングラで、悪いもので、大人が介入できない、ちょっと「やばくて」「ゾクゾクする」、危険と隣り合わせの世界だと信じて遊んだ。

 

そこに「現実感」はなかった、と思う。

「インターネット」は日常に寄り添って当たり前に在るものではなくて、意図して腰を据えて「やる」行為。そして「少し危険で、謎めいた、別次元の場所」のことだった。

 

親の目を盗んで、教師の目を盗んで、僕たちはインターネットに没頭した。

スポーツをやるやつも、勉強をやるやつも。

 

そんなことで、中学を卒業するとか、高校生になるとか、そういった頃には、「ニコニコ動画」が「インターネットをやっているやつら」の常識になった。

 

動画投稿サイトにアップロードされた動画をデバイスで見るというのは、今は当たり前の話だが、2005年にYoutubeが開設して、それが日本の中高生にツールとして流通したのは2006年ごろの話だったと記憶している(そして依然として2chテキストサイト、ブログがインターネット活動の中心だった)。

そもそも、日本の家庭の主力回線がISDN(アイエスディーエヌ、Integrated Services Digital Network、サービス総合ディジタル網)からADSL(エーディーエスエル、Asymmetric Digital Subscriber Line:非対称デジタル加入者線)に切り替わったのが2000年代前半の話である。

次第に動画を視聴するに耐えうる回線が家庭という家庭にいきわたり、皆がネット動画に夢中になっていった——Youtubeニコニコ動画の二足の草鞋、とでも言うのか。そういう生活が、たしかにそこにはあった。

 

動画。

これまでにインターネットから得られていた情報量とは文字通り桁が違う。フラッシュなどとは比べ物にならない、圧倒的な「情報の圧」が僕たちを襲った。 

 

「動画」という媒介を通じて「映像」「音楽」「ゲーム」「アニメ」といったコンセプトがインターネットに瞬く間にばらまかれた。あっという間にインターネットにはカルチャーの種がばらまかれ、——厳密には、もっと前からその種は蒔かれていた——それが芽吹くまで、幾ばくも無かった。

インターネット上に様々な文化やセンスが花開き、怒涛の勢いでサブカルチャーが形成された。その勢いはまるで花火大会のクライマックスのようだった。

花開いた大小さまざまなコンテンツ同士が、ジャンル同士が縦にも横にも繋がって、ひとつの「文化的原型:アーキタイプ」とでも言うものが形成された——その文化的アーキタイプは「ニコ厨」と呼ばれる——。

 

そして、2008年。

僕たちはインターネットにいた。

 

そこでは、別々に花開いた文化同士がつながったことで、制御不能なカオスの世界が生まれた。「空耳ミュージカル」を、「人類滅亡」を、「電子音声の歌」を、それら以外のジャンルの作品の中で見ることを通じて、僕たちの中には共通の「ミーム(meme: 文化的遺伝子)」が形成されていった。

そのミームを共有しているという連帯感が、また、僕たちをインターネットに強く引き付けた。僕たちは、現実より優れた、すさまじいスピードで文化の花開く世界で、同じミームを共有して生きている―—。

 

そんな風にして、アングラの泥濘の中から生み出された、闇の中から花開いた文化の光は僕たちの目には眩しすぎたが、相変わらず大人からしたら「これまでのインターネットとまったく同じもの」だった。

パソコンの箱の中から飛び出してくる液晶画面の明滅や、芸能人でもなんでもない「ただの素人」の下品な笑い声。電子音に乗せられた「ロボットの歌声」は、奇々怪々なものとして大人たちの目に映っただろう。

 

僕たちは、やはり、「日常とは切り離された」、箱の中の出来事に、目を輝かせていたのだ。そこは、ただひたすらに自由だった。少なくともそう感じていた。

「学校の先生」の与えてくる「宿題」などとは話が違う。リアリティの欠片もないその世界では、「電子の歌姫」が「希望」を歌っていた。

 

僕たちしか面白さを知り得ていない、「テレビに出ている人たちよりはるかに面白いひとたち」の会話に腹を抱えて笑い、僕たちしか才能を知り得ていない「テレビに出ている人たちよりはるかに歌の上手い人たち」の歌声を聴いて首を縦に振り、僕たちしか認めていない「ちょっとモラルに反する」話題に触れて盛り上がる。

それは、今思うとほとんどすべてがチープで——でも、そのとき本当だった思い。

 

寝る間を惜しんだ。

睡眠時間なんて、学校の授業時間を使えばいいだけだ。

夜な夜なパソコンに向かい、キーボードを叩く。

真っ暗闇にモニターの明かりとPCのインジケータランプだけがついていた。

 

そうして、それらに照らされた自分の背後に、

うつろな闇が、ぽっかりと口を広げて座っていた。

 

パソコンのスイッチを切ると、背中から、闇が僕たちを飲み込んだ。その闇は、——なんのことはない、自分自身の本当の姿、そのものだった。真っ暗な部屋に、勉強にだって真剣に取り組んではいない、部活にも真剣になれない、親のいう事だって何一つ聞かない、将来の夢も何もない空虚な自分が、たったひとりで、薄ら笑いを浮かべて座っていた。

ずっとインターネットに打ち込んでいた僕は、僕たちは、青春の大きな時間を「消費」することにかまけていた僕は、何者にもならなかった。そのことに、気づかされた。

 

僕たちは、

「ネットで動画を見ていても、将来には何も寄与しない」

こと、

「そんなことをして生活をしている大人はほとんどいない」 

こと、

「そして、僕たちは普通の人間なので、普通の大人にならなければならない」

ことに、気づかなければならなかった。

 

正直、はっきり言って「いけてない自分」が、そこにはいた。

だが、そんな自分を忘れ、あるいは肯定するための全ての道具がスイッチひとつで手に入る。パソコンのスイッチを入れ、キーボードを叩くだけでよかった。

——激流のようなコメントの中に、自分の居場所を信じた。

 

そうして日々をかわして生きていた僕たちに、当たり前に、そして突然、 

そんな日々の終わりがやってきた。強制的に突きつけられたのだ。

「受験」、あるいは「就職」という「現実」を。

 

そのことは、今思うと幸運なことだった、とも言える。

子供の見ている白昼夢は、大人の手で、半ば強制的に終わらせられる。それは正しいことなのかもしれない。 

 

僕たちのほとんどにとって「インターネット」は「現実」とは関係のない、空虚な妄想だった。ごく一部の人間は、その「空虚な妄想」に戦いを挑んで、その中から輝くものを生み出して、今もそれを糧に生活をしている。

しかしほとんど普通な、決意も努力の程度も、センスもチョイスも何もかも、当たり前に普通で、普通な人間の僕たちにとって、インターネットはしょせん、「虚構」にすぎなかった。

 

2010年、インターネットと僕たち。

 

僕たちは知った。

「俺たちのインターネット」は、現実に向き合えない僕たちの、ただの逃げ場所になってしまっていたんだと。

 

信じたものは 都合のいい妄想を 繰り返し映し出す鏡

 

初音ミクの消失 / cosMo@暴走P

 

受験勉強をして、大学生になって、就職をして、僕たちは——、

そんな、当たり前の日々に埋没して、

インターネットのカルチャーを追うこともできなくなって、

 

日々の忙しさにかまけて、僕たちは大人になった。 

 

 


  

 

夏。信号待ちの交差点、うだるような暑さ。

張り付いたワイシャツの隙間にウェットティッシュをねじ込んで、 僕は蜃気楼の向こう側をにらんだ。蒸れる足先の指が囚われた不快感をぬぐうおうと、親指と人差し指を懸命に動かすが、革靴がきしむ感覚を味わうだけだ。

 

ふとスマートフォンを取り出して、ウェブブラウザを立ち上げる。ウェブニュースに並ぶ文字も、検索エンジンから即座にサジェストされる動画サイトの投稿も、当たり前の現実に溶け込んだ。

僕たちが危惧したように、「大人はネットの動画などは見ない」というようなことでは、なかった―—が。

 

今のスマートフォンの中にあるのは、あの日みた「ありもしない夢幻の物語」ではない。それはそっくりそのまま現実と地続きで、SNSだって誰もがやっていて、Twitterで友人を見つけるなんてことは当たり前。あの頃あんなにインターネットに眉をひそめていた親でさえ今ではYoutubeに夢中だ。ネットの動画にしたって、現実にいる「当たり前にすごい人たち」が、当たり前にすごいことをしている。

僕たちと同じ世代を駆け抜けたネット文化の生き残りも活動していて、しかしそれはノスタルジーを喚起するだけのもので——「あの頃」のそのものではない。

 

電子の歌姫が駆け抜けた非日常の異世界は、「誰も知らないネバーランド」なんていうのは、もうどこにもなくて——

 

なんのことはない。

喪ったのではない。

僕たちは人間で、大人で、この世界にはひとつも奇跡が無いことを知っている。この世界にはポケモンがいないことを理解したときのように、僕たちは「俺たちのインターネット」がこの世界のどこにもないことを理解した。それだけのこと。

 

そんなものは、はじめからなかったのだ。

 

僕たちは、今日、夢見たものとは違う現実を生きている。

僕たちはそれを楽しんでいる。何の不満もない。今のインターネットは、これからも、時間をかけて、ただひたすらに便利で、本当の意味で自由で、本当に良いものになっていくだろう。

 

しかし、もうどこにもない、僕たちの心の中だけに広がる、電子の海の原風景。

牧歌的ではない、幻想的でもない、ただ粗雑で暴力的で、下品で低劣な、そんな僕たちの「もうありはしないふるさと」。

夜の闇に、背中に迫ってくる不安や孤独を慰めてくれる、妖しくて危険で、それでもただひたすらにやさしい、あの光の温かみ。

 

——ブログで何を書いているかだのなんだの。

——ニコニコ動画流星群がどうとか。

——すぎるの愚痴金だとか。

——アメーバピグで何をやったとか。

——Google Chromeのリリースだとか。

——Craving Explorer だとか。

青少年ネット規制法なんかが当たり前に可決されていて、 ワーキャー言ったりして。

 

 

それが、そんなくだらないことが「俺たちのインターネット」だ。

僕たちは同じ原風景を持っている。

だから、このただの現実の延長戦にすぎない本当のインターネットで出会っても、僕たちは友達になることができたのだろう。同じ原風景を持っているクリエイターが生み出す芸術に、感動できるのだろう。

 

それは「カルチャー」についての話だ。

2000年代後半のカルチャーというものが、明確に定義できるのだとすれば、

それは僕にとって、「俺たちのインターネット」にほかならない。

 

 

それでも、(For my life, )

日々は続く。(Still ahead, )

 

悲しいかな。 (Pity me.)

 

 

(おわり)